紅(くれな)い路線
私は実につまらない人間だ。だが、身の回りの知り合い、知人、友人、知己、そう言った人達の、第三者の視点ではどう映っているか等知らない。自分自身を本当につまらなく思っているのは、他でもない自分自身なのだ。
何気なく普段通りの日常を生きているだけで、ふと、何所からともなくこみ上げてくる、胸を奥から這い上がり喉まで締め付けてくるような焦燥がある。人の生などほんの一瞬だ、終わりの無い時の流れの中では瞬きをする間ですらないだろう。故に、そんな僅かな時間の中で自分自身をふと、どうしようもなくとらえきれない瞬間がある。面白くない、つまらない、代わり映えの無い平々凡々とした時間、それがどうしてか、言葉では言いようのない、やりきれなさ、焦りとなって心を蝕むのだ。
そんな私には一つ、他になりよりも好きな時間がある。現実のしがらみや現行の課題からふと、完全に隔離され空想の世界に頭から飛び込む事、頭の中で自由に思い描く想像の世界に浸りひと泳ぎする事がたまらなく楽しいのだ。
この日も私は唐突に込み上げてきたあの焦燥に胸を焦がされながら夕時の日比谷線に乗っていた。と、言っても東京メトロ日比谷線は地の下を走るモグラなので外の様子等分かり様も無いのだが。
この頃はまだ日比谷線は東急東横線と直通運転を行っており、北千住を発つ多くの便は中目黒で止まることなくその先の菊名まで乗り換えなしで続いていた。
私は自宅から近い中目黒で降りるべく自分の荷物をまとめ上げ、もうそろそろか、と席から立ち上がる準備をしながら背後の窓を見ながら暗く灰色の地下鉄の壁から一瞬で光の届く解放された外界へと変わるその瞬間を待って席を立とうと決めていた。
灰色の壁を伝う配線や構造材の黒や濃い灰色が尾を引いて灰色の中へ無数の線や模様を描いていく。薄暗いトンネルの中に延々と続く薄暗い色、視界に入ってくるそんな光景は焦げ付く胸の奥に、加えてどこか陰鬱としたような気分も上乗せされてますます嫌気がさしてくる。
丁度、そんな時だった。
「っ……」
淀んだ景色からようやく外光の一筋が差し込む、その刹那、思わず目を奪われ言葉を失ってしまう、そんな筆舌に尽くしがたい「赤」が空に広がっていた。
夕焼けの橙と言うよりはむしろ緋色、濃い赤がすこしずつ夜闇の深い青へと変わりゆくグラデーション、その間に一際大きく広がる幻想的と言った程度の言葉では到底表しきれないような、網膜を通して胸の奥底にまで届いてしまいそうな赤紫が両手を上げて空を覆っていた。
呼吸すらも忘れていた、そんな事に気付いたのは少し息苦しくなってからの事で、外が見え次第席を立とう、なんて考え何所かへ、さしずめトンネルの出口辺りに置いてきてしまったのだろう。
「…………」
私の視線を釘付にして離さない光景に、私は立とうとしていた席にいつの間にか深く腰を下ろしてそのまましばらく呆然と言うのか唖然と言うのか、呆けたように空の「赤」を見つめ続けていた。
『中目黒~なかめぐろ~に到着です。東横線、お乗換えのお客様をお降りください~』
いささか無粋だったが、到着を知らせる車内アナウンスで、私の意識はようやく現実の世界に引き戻されたのかもしれない。
中目黒駅は普段私が降りる駅だ。ここから改札を出てすぐの場所に在る地下駐輪場に留めてある自転車を回収し、そのまま家へ向かう。それがいつも通りパターンだった筈……だったのだが、どうやら神秘的な空の「赤」に私の胸は、鷲掴みにされたまま離されることは無く、脚もまるでそこに縫い付けられたようにそこを一切動こうとしない。
私は結局乗り過ごす事にした。どうやら意識的にも無意識的にも私の心はこの列車の中から見える「赤」をどうしようも無く欲していてならなかったのだ。
では、後一駅だけ……そう決めて、地下のトンネルの中より若干揺れ始めた視界を「赤」で染め上げる。
人間でいえば中肉中背と言ったところだろうか、スカイスクレーパーの様に天を覆い隠す高層建築ではないものの頻繁に視界を遮る中規模のビルが少しだけもどかしい。だが、それもまた良かったのかもしれない。ぼうっと見つめ続けていただけでは、恐らく気付く事すらなかっただろう、赤、紫、緋、青、紺、様々な色のコントラストが映える雲の形が着々と移り変わり、その瞬間々々で全く新しい一枚の絵を描き出している事に。そして、それ自体がかけがえのない後戻りの無い「今」を生きているのだと、分かっていたつもりの事をこれでもかと思い知らされた気分だった。
ふと気が付けば、私はいつの間にか自分の「空想」の世界に身を投じ、それがものすごい勢いで私の中を埋め尽くしていくような感覚に覆われた。焦げ付いていた焦燥も、かぶさっていた陰鬱とした気分も忘れ、夢想の世界が目の前の光景と融和して溶け合っていくような、感覚。
想像の世界、それは時には不思議な冒険の一幕であったり、在りもしない幻想的で神秘的な光景であったりと、兎に角にも普段目の前に起こり得る平常の区分を何らかの形で逸脱するような、そんな夢想の世界をいつも思い浮かべている。――故に、つい目の前で実現している現実が、何の非日常への変換プロセスを経ずに「想像」の世界へと直結している、それは詰まる所、向き合っている現実がそれだけ現実離れした光景だったという事だ。
『終点~菊名ぁ~きくな~でございます。何方もお忘れ物なさいませんようにご注意ください。』
「…………」
そんなアナウンスが響いて数秒経った頃だろうか、見つめていた筈の空を覆う「赤」がいつの間にか反対路線側プラットホームの壁にすり替わっていた事に気が付いた。
乗務員の誘導でホームに渋々降りる事となった私は、その時思わず辺りを見回してどこかにあの「赤」を見出そうとしたが、周囲は既に若干薄暗く、ホームの屋根が途切れる間から少しだけ覗く空の色も、もうただの橙のかかった薄暗い青に変わり果ててしまっていた。
あの「赤」はもう見る事は出来ないのだろうか? そう思えば途端に、空想に落ちて「赤」を最後まで凝視できなかった事が惜しくなる……と、そう思った所でまた、だが、逆を考えれば、あの「赤」が姿を変えて興が醒めゆく感覚を味あわずに済んで良かったのかもしれない、という考えも浮かんできた。ある意味これが私の中で、万分の確率で出会うことが出来た「赤」を最も美しく残す道だったのかもしれない。
何はともあれ、あの「赤」は失われた。今からホーム端まで移動して空を見上げても恐らくそこには何もないだろう。最早ここ菊名にいても特に意味は無い。そもそも帰路の途中だったのだから反対側のホームに乗り換えて今来た路線引き返せばいい……筈だったのだが。
何故だか、私の足は向かい側の路線へとは向かわず、そのまま真っ直ぐホームを直進し、改札へと出てしまった。当然、普段使う事の無いこの駅で改札を潜ればその分の料金が、なけなしの小遣いを入れたICカードから差し引かれるわけだが。
そんな事は知るか、と本当に自分の理性的な部分が引き返せだのと小賢しく騒ぎ立てるのを押し殺して菊名駅を出るべく駅の階段を降り始める。自分でも全く理解のできない部分が、まだあの「赤」を探していてでもするのだろうか、どうしても引き返せずに、そのまま菊名地へ降りるべく階段を半分ほど降りた時点で、
「えっと…………」
「…………?」
ふと、掛けられた声が在った。身に覚えのない私は他にだれも居ない事を分かり切っていたのにも関わらず、思わず掛けられた声の方向を避けて辺りを確認した。当然、そこには声の主と私の他に誰の姿も見受けらない。
「私、だろうか?」
そう言って声の主の方へ初めて視線を合わせると、少しずつその全体像が露わになってくる。黒光りしたハイヒールに黒い少女趣味のワンピース、腰まで届く濡れ鴉の様な黒い髪………そして何よりその紅玉の様な赤い、瞳、
「うん、道を聞きたい……」
紛れも無い、「少女」がそこに在った。
「中目黒まで、どうやったらいける?」
現代都市文学、という趣旨で書いたものです。
自分の書く小説は長くなる場合が多いので、短く少し近代文学風に描いて見た作品です。
故に、ちょっと置いてけぼりな味を出そうとしてます。




