13.出発の朝に
「おい、起きろ」
揺すぶられて目を覚ますと、まず川の流れる音が耳に入ってきた。
「ふえ?」
目蓋が腫れぼったくて、なかなか目を開けられない。それに、無理矢理目をこじ開けてみると、辺りは真っ暗だった。自分が今、どういう状況なのか分からずに混乱したのは一瞬の事。
「そろそろ時間だ。戻らないと、また大騒ぎになっちまうぜ」
頭上から降ってきたオレアさんの声で、自分が泣きながら眠ってしまったことに気付いた。
目が慣れてくると、確かに夜の闇は若干薄くなっていた。それに、立ち上がってみると村長宅の方が明るい。もう、うちの執事あたりが起きて、出発の準備をしているんだろう。
「……ま、もうすでに気付いて慌てふためいている頃だろうが」
オレアさんは、そう呟いて腹黒そうな低い笑い声を漏らした。
「え?」
「あのな、聖女様」
首を傾げる私の肩に、不意にオレアさんは手を置いた。肩が下がるくらいけっこうずっしりと重みを感じる。顔を上げると、オレアさんは真っ直ぐに私を見つめていた。
「生まれ育った土地を離れて、勝手の分からない異国で暮らすのは大変だろう。同じ異国から来た境遇でも、俺には兄弟や同族がたくさんいたが、あんたは一人きりだしな」
思いがけず同情されて、きゅん、とまた鼻の奥が痛くなって、涙が出そうになる。
「でも、負けんじゃねぇぞ。嫌なことは嫌だと、自分の意見ははっきり言えばいい。言わなきゃ分からないことだってあるんだからな」
「オレアさん……」
「他人に認められようと努力することは大切だ。だが、それでも認めようとしない奴は、放っておけばいい。全ての人間に好かれるってことはないんだからな。……って、アデルハイドなら言うと思う」
最後に照れ隠しのようにアデルハイドさんの名前を出して、ヘラッと笑ったオレアさんの顔が、涙でぼやける。
「おいおい、もう泣くなよ。この国に残るって決めたんだろ? だったら、歯を食いしばって生きていくんだ。馬鹿にした奴を見返そうなんて思わなくていい。どんな形でも幸せになれば、それでいいんだからな」
「……うん。分かった」
頷いて、ビチョビチョになった袖口で目元を拭う。
ふと、もしアデルハイドさんとちゃんとお別れができていたら、こんな風だったんだろうな、と思った。あの時、アデルハイドさんと一緒に部屋の中にいたというオレアさんに励まして貰えるなんて、これもそういう運命だったのかなと何となく不思議な気持ちになった。
河原から畑沿いの道に戻り、村長宅に向けて少し歩いたところで、前方から松明の明かりが揺らめきながら近づいてきた。
「リナ!」
まだ姿は見えないけれど、声だけでそれがファリス様だということが分かった。
「……お前。これは、どういうことだ」
強張った表情で松明の火をかざしたファリス様は、私とオレアさんを交互に見つめ顔を歪めた。
「昼間充分寝たせいで眠れねぇって言うもんで、散歩してただけだよな、聖女様」
しれーっ、と嘘を吐いて誤魔化すオレアさんに、私も急いで話を合わせる。
「そうなんです。それに、もうこの村を離れることになっちゃいますから、名残惜しくていろんな所を最後に見て回っていたんです」
嘘を吐くのは苦手だし、誤魔化し切れるのかと不安でドキドキしてしまう。厳しいままのファリス様の表情を見ていると、とても騙されてくれているようには見えないし。
「……そうだったのか。だが、田舎とはいえ、夜中に外に出るのは危険だ」
「オレアさんが一緒だったから、平気です」
咄嗟に間髪入れずそう答えると、ファリス様は「むっ……」と唸ったっきり、こっちを睨みつけたまま黙り込んでしまった。ああ、まずい。反論したからご機嫌を損ねちゃったかな。
「……あ、ほら、もう夜が明けてしまいますよ。急がないと、出発予定時間に間に合わなくなっちゃいますから」
わざと大げさに今気付きましたとばかりに話題を変えて、ファリス様に村長宅へ帰ろうと促す。誤魔化せた訳ではないと思うけれど、ファリス様はむっつりした顔で「そうだな」と呟き、その場はそれで何とか収まった。
村長宅へ戻ると、真っ直ぐ自分の部屋に戻ってまず顔を洗った。訓練着を脱いで、こんな明け方から出発の支度を手伝いに来てくれていた村長の孫娘に手伝って貰ってドレスに着替える。王都に戻るのだから訓練着のままでいる訳にはいかないのだから仕方ないけれど、何日かぶりに着るドレスはなかなか窮屈で動き辛い。
泣きはらした目に、湿らせた布を魔法で凍らせたものを当てて冷やす。それから、赤くなった部分を隠すように化粧をしていると、背後で物音がした。
振り向くと、戸口にウォルターさんがいた。普段はぴっちり撫で付けている銀色の髪が乱れて、いつも取り澄ました余裕の表情を浮かべているのに、今はそれが崩れて歪んでみえる。
「リナ様。お戻りでしたか」
……ああ、怒っている。これは確実に怒っている。当たり前だ。出発時間に間に合うように起こしに来ると言っていたから、私がいないことに最初に気付いたのはウォルターさんだったはずだ。そう言えば、ここに戻ってきてから姿が見えないと思っていたけれど、まさかずっと私の事を探していたんだろうか。
全身から冷や汗が噴き出るのを感じながら、手早く唇に紅を引いて立ち上がる。
「支度はできました。もう出発ですか?」
窓の外は、もうだいぶ白んできている。馬の鳴き声が外から聞こえるということは、もうファリス様達が乗る馬も、私が乗る馬車も準備できているということだろう。
「はい。では、こちらへ」
すでにドアの近くに出してあった私の荷物が入った鞄を持つと、ウォルターさんは踵を返して先に階下へ向かった。
うわぁ、何も言わないなんて逆に怖い。どこへ行っていたのかなり、戻ったのなら知らせてくれなり、真夜中の散歩について何かしら苦言は当然あるものだと思っていたのに。
そうか。今は予定時間に間に合わなくなるから目を瞑っているだけで、家に帰ってからこってり絞られるのかも知れない。その場面を想像して、思わず身震いをした時だった。
階段の方から、何かが落ちていく音がした。木製の踏み板に、固い物がぶつかる音、そして甲高い悲鳴が続く。
……何?
咄嗟に身構える。大概暢気な私だけれど、王女救出の旅に始まって魔将軍襲撃や公爵家子息乱入等、過去にいろんなことを経験してきたお蔭か、警戒心はそこそこ強くなっている。
「……おい、大丈夫か?」
恐る恐るドアから外を窺うと、階下からオレアさんの声が聞こえてきた。
警戒しつつ部屋から出て階段の下を見ると、階段下の床の上に転がった私の鞄があり、その傍らでウォルターさんがオレアさんに助け起こされていた。
「何があったんですか?」
「どうした?」
私が階段を下りていくのと、ファリス様が玄関から入ってくるのとがほぼ同時だった。
「執事さんが、階段から落ちたのです」
結構、高い位置からでした、と先に階下に降りていた村長の孫娘が、青褪めながら階段を三分の二ほど上った場所を指さす。
……階段から落ちた? ウォルターさんが? まさか、彼がそんなドジをするなんて考えられないんだけど。
「大丈夫ですか? 怪我は……」
オレアさんの背後から覗き込むと、床にウォルターさんの銀縁眼鏡が落ちているのが見えた。けれど、残念なことにフレームは変形し、片方のレンズが割れていた。落ちた時の衝撃がいかに凄かったかを物語っている。
腕をついて何とか半身を起こしているウォルターさんだったけれど、どこか痛めているのか、耐えるように唇を噛みしめ、眉を顰めている。
「……っ」
「ああ、こりゃ駄目だ。骨をやっちまっている」
ウォルターさんの右足首を調べていたオレアさんが口元を歪めると、ファリス様は眉を顰めて腕を組んだ。
「足を骨折したとなると、馬には乗れないな。どうするか……」
……あ、何か、嫌な予感がする。
心ならずも、顔が引きつっていく自分がいた。
いやいや、骨折した人にあくまで馬に乗りなさいとか、悪魔みたいなことは言わないよ。うん、仕方がないよね、怪我しちゃったんだから。ウォルターさん一人だけ、この村に残していく訳にもいかないし。
……という訳で、フロワーズ領まで約半日の行程、馬車という狭い密室の中、私はウォルターさんと二人きり、顔を突き合わせて過ごすことになってしまった。