11.アデルハイドの所へ
真夜中の村は、山の中と同じで真っ暗だった。ただ、今日は満月よりやや欠けた月が出ているので、ぼんやりと周囲の景色が浮かんで見えている。
忍び足で村長宅の玄関を出て、手探りしながら門を出る。そこで持ってきた手燭に魔法で明かりを灯すと、その明かりを頼りに細い畑沿いの道を歩き始めた。
向かう先には、月明かりに照らされた夜空の下に広がる、巨大な真の闇。昨日、私が一夜を過ごした山がそこに聳え立っていた。
あの山を幾つも超えた先には、別の国があるのだとオレアさんから聞いた。
そこに行けば、私は神託の少女でも聖女でもない。異世界から来て、こちらの世界の情報に疎い、ただの不器用な女でしかない。
そんな何の肩書きもない女になってしまったら、果たしてこの世界で生きていけるかどうかなんて分からない。でも、それでも私は……。
山裾まで広がった畑に沿って続く道が、もうすぐ終わる。
広がる闇を前に、私は足を止めた。改めて見上げてみて、よくもまあ、昨晩はこの山で一晩過ごせたものだと感心してしまう。それほどに山を包む闇は濃く深く、得体の知れない気配に満ちていた。
足を止めたのは、恐怖心だったのかも知れないし、迷いがあったからかも知れない。
「よう、聖女様。こんな時間に散歩かい?」
だから、突然背後からそう声を掛けられ、驚いたと同時に、心のどこかで少し安堵している自分がいた。
冷静に考えれば、魔鹿でさえ魔法で倒せない私が、この山を幾つも超えて隣国まで無事に辿り着けるとは思えない。
それに、黙って国境を越えれば、私はこの国を、この国の人達を裏切ることになってしまう。良いことばかりじゃないし、良い人ばかりじゃない。だからといって、今自分に課せられている役割を放棄して逃亡することが、果たして正しい事なのだろうか。
今のこの状況から逃げたい、新しい環境でやり直したい、という衝動に駆られた一方で、そんな迷いも捨てきれずにいたのも事実だった。
大きく息を吐き出して後ろを振り返ると、腕組みをしたオレアさんが呆れたようにこちらを見下ろしていた。
「夜中に一人で歩き回るのは感心しねぇな。また、騎士様に横っ面叩かれちまうぜ」
オレアさんがニッと笑う。その唇の端が、赤黒く腫れているのが手燭の明かりだけでもはっきりと分かった。私のせいで、ファリス様に殴られた傷だ。
「……見つかっちゃったか」
そうポツリと自嘲気味に呟く。
本当は分かっていた。こんなことをしても、何にもならないって。
ただ、もし誰にも見つからずに無事に山を越えられたなら、それは神様が私にそういう運命を与えてくれたということだ。
でも、逆に途中で見つかって阻止されたということは、つまり、お前はこの国で頑張れという神様の御意思なんだろう。
「おいおい。もしかして、逃げるつもりだったのか?」
目を丸くして呆れたように盛大に溜息を吐いたオレアさんは、私が否定するのを待っていたのかも知れない。黙ったまま何も言わない私を見下ろしているオレアさんの眉間の皺が、段々と深くなっていった。
「……まあ、あれだ。ちょっと話をしねえか?」
深い溜息を吐いた後、オレアさんは近くを流れる川の河原を指さした。
「まあ。聖女様の気持ちも分からなくもねぇな」
河原に転がる大きめの石に腰を下ろすなり、オレアさんは吐き出すようにそう言った。
え? と首を傾げる私に、オレアさんはドキッとするほど鋭い眼差しを向けてきた。
「あんたの部屋で、あんたとあの執事が喋っている声を、廊下で立ち聞きしちまった」
ああ、そういうことか。なるほど、あれを聞かれちゃったのなら、オレアさんがそう思ってくれるのも不思議じゃない。
「何だ、あいつは。執事のくせして、主に対して随分と偉い口の利きようだな。それに、例え事実だとしても、言っていい事と悪いことがあるだろうが」
「事実だとしてもって……」
何気にオレアさんの言葉にも厳しい現実が混ぜ込まれていて、ボディブローのように効いてくる。
「確かに、全ては私が至らないせいなんだ。ウォルターが言う事は間違ってないと思う。でもね……」
文官は向いてない、適当に誰かと結婚しろ、だなんて言われて、はいそうしますと大人しく従えるかという話だ。でも、反抗して実力で見返す! だなんて気力も器量もない。
結局のところ、現実逃避するしかなかった。けれど、本気で逃げ切る! という強い気持ちも持てずに、村長の家を出てここまで来る間も不安で揺れ動いていた。
そんな気持ちを言葉にできずに黙って俯いていると、オレアさんは大きな手で自分の太ももを音高く叩いた。
「よし、分かった。俺が、あんたを逃がしてやる。アデルハイドの所へ連れて行ってやるよ」
……えっ?
顔を上げると、任せておけ、と言わんばかりに得意気な表情を浮かべているオレアさんの顔が目に入った。
ぎゅっと胸を鷲掴みにされたような気がして、ワナワナと唇が震える。
……本当に? 本当に、アデルハイドさんの所へ連れて行ってくれるの?
オレアさんが一緒に行ってくれるのなら、きっとできる。この山を越えて隣国へ逃れるだけじゃなく、幾つも国を渡って、テナリオにいるアデルハイドさんの所へだって無事に辿り着ける。
パァッと明るい未来が開かれたような気がして気持ちが昂る。
……でも。
気持ちを落ち着けるように大きく息を一つ吐き出すと、首を横に振った。
「駄目だよ。だって、オレアさん、この国に家族がいるんでしょ? そんなことをしたら、大変なことになっちゃうよ」
逃げた聖女の片棒を担いだだけでも、きっと何かしらの罪に問われるだろう。最悪なのは、オレアさんが聖女誘拐の罪を背負わされることだ。例え本人が逃げおおせたとしても、残された奥さんは辛い思いをするに違いない。
私が断るとは思っていなかったのか、一瞬、虚を突かれたような表情を浮かべたオレアさんは、苦笑いを浮かべた。
「……そうか。そうだよな」
「そうだよ」
ふふ、はは、とどちらからともなく笑い出す。そうやって笑い続けているうちに涙が滲み出てきた。
「あれ? 何でだろ。可笑しいのに涙が出てくる」
笑いながら涙を拭っていると、オレアさんがニヤリと口の端を吊り上げた。
「仕方ねぇな。じゃあ、今夜だけ、俺をアデルハイドだと思って、思う存分泣け」
さあ、と腕を広げたオレアさんに驚き、戸惑いと気恥ずかしさからついつい憎まれ口を叩いてしまった。
「……アデルハイドさんは、もっとカッコいいもん」
「なぁにぃ~? ふん、嫌ならいいんだぞ」
不機嫌そうに、広げていた腕を下ろそうとしていたオレアさんの分厚い胸板に、私は思いっ切って飛び込んだ。
「うおっ!?」
本気で私が飛びついてくるとは思っていなかったらしいオレアさんの驚きの声を聞きながら、ちょっとだけ胸がスッとした。
山で迷う前の私だったら、オレアさんに抱きつくなんて考えられなかった。きっと、おんぶされて山を下りたことで、オレアさんへの抵抗感がかなり下がったんだと思う。
「……ありがとう、オレアさん。でも、やっぱり一人で泣くね」
すぐに離れて近くの石に腰を下ろすと、オレアさんの手が伸びてきて頭をぐしゃっと撫でられた。
「そうか。わかった」
どこかアデルハイドさんを思わせるその低い声を聞きながら、膝を抱えて顔を伏せる。
「……アデルハイドさん」
頭に乗ったままのオレアさんの大きな手が、嫌でもアデルハイドさんを思い起こさせ、溢れ出した涙はもう止まらなかった。
どれだけ声を上げて泣いても、昨夜の雨で水嵩の増した川の流れが、鳴き声をかき消してくれた。
……ねえ、アデルハイドさん。やっぱり、私は何時まで経っても私でしかなくて、聖女になっても貴族らしく振る舞える訳でもないし、何をやってもうまくいかないし。どんなに気を付けようって思っていても同じ失敗を繰り返すし、人に迷惑を掛けてしまうし、すぐに落ち込んでこうやって泣いてばかりで。
アデルハイドさんが残してくれた、幸せになれって言葉もまだ実現できていないし。幸せになる道だって結婚を提案されても、素直に聞き入れられないし。実力不足だって言われても、この国の為に何かしたいって気持ちも捨てきれない。
こんな、どうしようもない人間だけど、……でも、私は私の思うように生きていってもいいですよね?
優しく頭や背中を撫でてくれる大きな手の温もりを感じながら、次第に悲しみと不安で強張っていた心の中が、温かく穏やかになってゆくのを感じていた。