8.関係ないことですから
「何をやってるんだ、あなたは」
床に届くほど長い神官衣の裾を蹴飛ばすようにして現れたのは、腰まで届く白金の髪が眩しい青年神官だった。
「……お久しぶりです、エドワルド様」
三カ月ぶりの再会だというのに、三カ月前と同じように床に蹲って怪我の痛みに呻いているなんて、なんだか情けなくなってしまう。
「久しぶりだね。元気だったかい?」
旅のメンバーの中でも一番穏やかな性格だったエドワルド様は、柔和な顔に笑みを浮かべてこちらに会釈すると、すぐに眉間に皺を寄せて傍らにいるファリス様を睨んだ。
「ついうっかり力加減を間違えた? それとも、何かの作戦のつもりかい?」
「何だ、作戦って」
一瞬呆けたような表情を浮かべたファリス様が、何か思いついたように悪人みたいな笑みを浮かべた。
「成程。そういう手段もあったか」
「馬鹿言うな。神託は、個人の思惑で歪めていいものじゃないんだ」
何のことを言っているのか分からないけれど、穏やかなのに頑として譲らない強さのある声。エドワルド様は一見優しそうに見えるけれど、正論を押し通す為には非情にもなれる、実は結構怖い人なのだ。
ファリス様に木刀で打ち込まれ、打ち身で動くのも辛い私に治癒術を施してくれるエドワルド様の肩から滑り落ちた白金の髪が一筋、前に垂れて私の手をくすぐっている。
治癒術も魔法と同じで、使い過ぎると限界がくる。だから、たいしたことのない怪我は治癒術には頼らず、塗り薬や張り薬で対処すると旅の間に決めたのもエドワルド様だった。
一度、手荒れと血豆で手がボロボロになったことがあった。でも、その前に手荒れを治癒してくれませんかとお伺いを立てて却下されたことがあったので、またお願いして拒否されるのが嫌で、大人しく塗り薬を塗って、適当に包帯を巻いていた。
その日、突然魔物の襲撃があり、余りに突然だったので魔法を使う間もなく、仕方なく剣で応戦することになった。けれど、普段なら剣で受け止められるのに、犬型魔物の牙攻撃の衝撃にボロボロの手が悲鳴を上げ、呆気なく剣を跳ね飛ばされてしまった。あっ、と思った時には魔物に体当たりされて吹き飛ばされ、呻きながら起き上ろうとした時には魔物の牙が眼前に迫っていた。
リザヴェント様の攻撃魔法が飛んできて何とか九死に一生を得たけれど、剣を跳ね飛ばされた理由を後で知ったエドワルド様は、ゾッとするような表情を浮かべたまま無言で私の手に治癒術を施した。
――こういうことにならないよう、次からは気を付けて。
治癒が終わった後にそう怒られて、いやいや、前に駄目って言ったのはそっちじゃん、と心の中で突っ込みを入れたんだっけ。
でも、やっぱりそれからも手荒れを治癒術で治して、って言いにくくて、結局手が荒れないようにハンドクリームのように傷薬をこまめに塗るようになってからは、それほど酷くならなかった。傷薬の減りが早い、とアデルハイトさんには愚痴られたけど。
私の中であれは結構ショッキングな出来事だったんだけど、エドワルド様はもうあんなことがあったなんて忘れてしまっているだろうな、と揺れる白金の髪を眺めながら、小さく溜息を吐く。今、エドワルド様が打ち身程度の怪我を治癒してくれているのも、ここが城で、治癒術の限界を気にしなくてもいい状況だからだ。
「リナ」
揺れていた白金の髪が視界から消え、顔を上げると、エドワルド様は何やら思い詰めたような表情をしていた。
「これまできみをほったらかしにして、申し訳なかった。許して貰えるだろうか」
思いがけない謝罪の言葉に、驚きの余り言葉が出て来なかった。
だって、私のことなんかどうでもよかったんでしょう? だなんて反抗期丸出しで親と喧嘩するみたいに詰るなんてとんでもないし、だからと言って全然気にしてないですよ~、だなんて笑顔で応じるのも嘘くさい。
「べ、……別に、許すとか許さないとか、そんなのいいです。エドワルド様には関係ないことですから」
そもそも、私に田舎への移住を勧めたのは旅のメンバーの誰でもないし、最終的にその提案を受け入れたのは私なんだから。
そりゃあ、本来の小説の設定とはかけ離れた状況になっちゃったことには理不尽さを感じて嘆いてはいたけれど、じゃあ城に残っていたらマシだったのかと言われれば、そう言い切れる自信もないし。
早い話が、私が是非城に残って欲しいとお願いされるほど、魅力的な存在でなかったからいけないのだ。優秀な皆さんに気に掛けて貰えなかったからって、謝って欲しいだなんて思っていない。
だからエドワルド様が謝る必要なんてないんですよ、と言ったつもりだったのに、自分でも自分が言った言葉に違和感を覚えて首を捻る。あれ? と思った時には、エドワルド様はこっちに頭の天辺が見えるほど俯いていた。
「あ、あの、エドワルド様。そうじゃなくて、私が言いたかったのは……」
「いや、もういい。けれど、神託によって王命が下された以上、きみはまた我々と共に危険な旅へ出なければならない。それは承知してくれているね?」
顔を上げたエドワルド様が揺らぎのない声でそう言ったのを聞いて、まるで冷水を浴びせられたような気がした。
そうか。エドワルド様の謝罪は本心からじゃなく、話をここへ持って行くための前振りだったんだ。そんなんだったら、リザヴェント様やファリス様のように完全スルーしてくれていたほうが良かったのに。エドワルド様を傷付けたんじゃないか、と慌ててしまったさっきまでの自分が馬鹿らしくなってしまう。
「勿論、ちゃんと分かっています。逃げも隠れもしません。……あ、治癒していただいてありがとうございました。もう大丈夫ですから」
本当はまだ左の太もも辺りと肩の辺りも痛いんだけど、このままエドワルド様に治癒術をかけ続けて貰うのは精神的に苦痛だった。
ヨタヨタしながら立ち上がると、腕組みしたまま難しい顔をしているファリス様と視線がぶつかる。
……なんか、雰囲気が悪くなっちゃったなぁ。
今までも、勿論和気あいあいといった雰囲気とはほど遠かったんだけど、今は変な緊張感すら漂っている。
どうすればいい? どうすれば、……そう、マリカだったら。
どんなに嫌な出来事があっても常に笑顔だった幼馴染を思い出す。何を言われても、その場の空気を壊さないように機転を利かすことのできたマリカ。その場では笑顔で乗り切って、後でその時のことを、ユーモアを交えながら話して聞かせてくれたマリカ。面白くて明るくて、一緒にいて楽しい子だった。
そうだよ、マリカみたいに。
一つ大きく息を吸い込むと、自分ができる精一杯の笑顔を浮かべる。
「ファリス様、忙しい中、稽古をつけていただいてありがとうございました。エドワルド様も、またご迷惑をおかけしてしまうかも知れませんが、よろしくお願いします」
そう言って、ちょっと大げさな動作で深々と頭を下げる。
自分でも嘘くさいなぁ、と思いつつ、沈黙の中三秒ほど経って顔を上げると、ファリス様は思いっ切り眉間に皺を寄せ、エドワルド様は目を閉じて首を横に振っていた。
……なぜ? なぜ私の『マリカだったら』は、こうも通用しないの?