10.自分が望む未来
「ファリス様のお相手のご令嬢には、本当に酷い事をしてしまったな……」
自室に戻って荷物をまとめてはいるものの、さっきから溜息ばかりが出て手がお留守になってしまう。 時々、手伝ってくれているウォルターさんの冷たい視線をチラチラ感じるけれど、どうしてもファリス様のお相手だという貴族令嬢のことが気になって仕方がない。
ヴァセラン伯爵令嬢からすれば、ファリス様との婚約がまとまる直前に、最後の詰めともいえる大切な食事会をすっぽかされてしまったことになる。当然、傷ついているだろうし、その原因となった私の事も良く思っていないに違いない。
魔熊を見たいという欲が、まさかこんな形で仇になるなんて思ってもみなかった。ただでさえ城内でも立場が弱いのに、面識のない貴族令嬢の恨みまで買ってしまうなんて。
「この事が原因で、リナ様のお立場が一段と厳しいものにならねばよいのですが」
ウォルターさんが、まさに今私が危惧していることをさらっと指摘した。言葉とは裏腹に平然とした口調が、なんだか癪に障る。
「心配してくれているようには聞こえないわよ」
ついそう拗ねてみせると、呆れたように溜息を吐かれた。
「そうだとしたら残念です。ですが、ヴァセラン伯爵令嬢キャスリーン様といえば、リナ様と同じ対魔情報戦略室に所属されているクラウス様の従妹君です。職場の人間関係に影響がなければよいのですが」
ガターン……。
私の手から滑り落ちた短剣が、床の上に音を立てて落ちる。いや、鞘ごとだったから、例え足に当たっても刺さることはなかったんだけど。
それよりも恐ろしいことを、今、耳にしたような気がする。
「クラウス様とキャスリーン様は、昔から大変仲が良いそうですからね」
「ウォルター」
「はい」
「私を脅して、そんなに楽しい?」
同期がする胸を押えながら睨みつけると、ウォルターさんは心外だというふうに肩を竦めた。
「とんでもない。私はただ、リナ様の事を心配しているだけですよ」
ふーん。じゃあ、虐めて楽しんでいるように見えるのは、私の被害妄想のせい?
「……ああ。王都に戻るの、嫌だなぁ。仕事にも行きたくない」
ただでさえ、山の中で行方不明になり、多方面に迷惑を掛けてしまったことで精神的ダメージを受けているというのに。
クラウスさんは、どんな反応をするだろう。面と向かって馬鹿にされるのも嫌だけど、ネチネチ厭味を言われるのも辛い。それに、今回はそれでは済まないような気がする。だって、私は彼と仲が良い従妹の縁談を邪魔してしまったんだから。
余りに憂鬱な気持ちになってしまって、つい愚痴を吐いてしまった。
すると、それを聞いたウォルターさんの銀縁眼鏡がキラリと光った。
「ならば、お辞めになりますか?」
ウォルターさんは、明日私が着る予定のシンプルなドレスを片手にこちらに向き直ると、眼鏡のブリッジを中指で抑えた。
「え?」
「対魔情報戦略室でリナ様がなさっている仕事は、何もリナ様にしかできないことではありません。陛下も、リナ様が申し出ればすぐにでも辞職を了承してくださるでしょう」
……それってつまり、私はいてもいなくてもいい存在だから、文官を辞めろと言っているの?
「陛下は、リナ様のこれまでの功績を鑑み、聖女の地位を剥奪するようなことはこの先もないと存じます。ですが、この地位はリナ様お一人に与えられたもの。例えば、養子を迎えて家族になさっても、あなたが亡くなればサクマ家は貴族ではなくなります」
「何が言いたいのかよく分からないわ」
さっきからショックなことばかり言われ続けて戸惑っている私に、ウォルターさんはしれっと言い放った。
「結婚して、いずれかの貴族家へお入りください。お側で拝見して半年、あなた様が幸せになるには、それしかないと私は確信しています」
足元から崩れ落ちていくような感覚に襲われ、椅子の背に捕まって辛うじて眩暈を堪える。
あなたには文官としての実力はない、とハッキリ言われてしまった。しかも、クラウディオ陛下と親しい関係にあるというウォルターさんがああ言ったからには、陛下が私をすぐにでも解雇する気があるというのは、恐らく本当なのだろう。
……ひょっとして、これも全部嘘なの? 魔物の情報を集約して、戦士を育成するという計画も。本当は、私が、神託の少女が国の為に尽くしているという姿を対外的に示す為だけのパフォーマンスに過ぎないというの?
そんなの、そんなのって……。
「……結婚するって、誰と?」
まるで、魂が抜けてしまったような気がする。ぼうっとしながら、私の口からポロッと出てきたのは、そんな考えてもみない問いかけだった。
「どなたかご希望があれば、陛下にもご相談の上、縁談を進めさせていただきますが、特に無いようであればこちらで条件の良いものを提案させていただきます」
「そう……」
ただただ、溜息しか出て来ない。
何だ、私ってエクスエール公爵に利用されそうになった時から、何も変わってないじゃない。結婚、結婚、って。結局、半年経った今でも、それに反発して自分一人で生きていく力も無くて……。
あの頃と少しはマシになったかな、と思っていたけれど、そうじゃなかった。私は、他人から与えられたものを身に付けて大きくなった気でいただけ。脱がされたら、あの頃と何も変わらない、臆病で一人では何もできない自分がいる。
……やばい、泣きそうだ。でも、今は泣けない。この人の前では。
「もういいです、ウォルターさん。後は、自分でやりますから」
「……リナ様?」
「一人にしてくださいませんか?」
真っ暗な窓の外を見つめながらそう言うと、ウォルターさんの深い溜息が聞こえてきた。
「明日は、日の出と共に出発いたします。その時刻に間に合うように起こしにまいりますので。それでは、失礼いたします」
ドアが開いて閉まる。その音が合図の様に、私はベッドに突っ伏した。
――幸せになれよ。
それが、アデルハイドさんが私に残した言葉だった。
メモ紙に書かれた、たったそれだけの言葉だったけれど、私にとってはそれがアデルハイドさんから貰った最後の大切な言葉だ。
……アデルハイドさん。私、今、全然幸せじゃないよ。
元の世界に帰れないのなら、この世界で生きて行かなきゃならないって腹を括った。アデルハイドさんが一緒に連れていけないって言ったから、この国で待つって決めた。
でも、私はここでは幸せになれない。
貴族の身分を与えられて、衣食住満ち足りた生活を与えられているのに、ずっと漠然とした辛さや苦しさが続いていて、幸せを感じられない。
我儘だと思う。だって、この世界には魔族に住む土地を追われて、飢えや病気に苦しみながら死んでいく人達が大勢いるんだから。
そうだよ。だから、我慢しなきゃいけないんだ。今のこの生活に満足して、幸せだって思って生きていかないと。
涙を拭って、のっそりとベッドから起き上がると、まとめかけの荷物に手をつける。後は私がやると言ったからには、出発の準備をちゃんと整えておかないと。
ふと、テーブルの上に置かれたメモ帳が目に入った。このトレウ村周辺に出没する魔物の情報を書いたものだ。
……こんな物!
衝動的にそれを引っ掴むと、暖炉に向かって投げつけた。
「……っ」
咄嗟にリリースポイントを遅らせたことで、メモ帳は暖炉の手前の床に叩き付けられた。バサッと音を立て、開いた状態で落ちたメモ帳を見ていると、胸がぎゅうっと痛んだ。
駆け寄って膝をついて拾い上げると、大切にそっと抱き締める。
自分で危うく暖炉の火に投げ込みそうだったくせにこんな風に思うのはおかしいかも知れないけれど、私にはこのメモ帳が自分自身のように思えてならなかった。
小さくて無力で、他人からしたらくだらなくて価値のない存在で。けれど、自分なりに少しずつ努力を積み重ねて、ここまできたんだんだよ。認められたい、誰かの役に立ちたいって願いながら。
アデルハイドさんは、元の世界で暮らしてきた時間も含めて、私の価値を認め、いい所を発見して褒めてくれた初めての人だった。だから、今でも私の心の中の一番大切な場所を、ずっと占拠し続けている。
私はきっと、そういう風に私の価値を認め、私を必要としている人と一緒に生きていきたいんだ。だから、こんなにもアデルハイドさんのことが好きで、諦めるしかないって現実を何度突きつけられても忘れられずにいるんだ。
……ふと、自分が望む未来が明確になったような気がした。
こんな私でもいいんだと認めてくれる人がいて、自分らしく生きられる場所で生きていきたい。……少なくとも、それはこれから帰らなければならない所にはない。
一度詰めた荷物から必要なものを取り出し、メモ帳と一緒に斜め掛け鞄に押し込むと、私は寝間着を脱いで訓練着に袖を通した。