8.ご迷惑をお掛けしました
一体、何が起こったのか分からずに呆然としたのは一瞬のこと。慌ててファリス様の腕にしがみ付いて止めようとしたものの、私の力で元騎士団副団長のファリス様を止められる訳がない。
「リナは黙って見ていろ!」
振り払われた勢いでテーブルにぶつかり、倒れたコップが転がって床に落ちて砕ける。
「貴様は、俺が監視しておくから大丈夫だと言ったな? なのに、その舌の根が乾かぬうちに、リナを危険な目に遭わせやがって……!」
「止めてください! オレアさんがいなかったら、私は……!」
「こいつがいなければ、リナが山に入ることもなかっただろうが。いや、そもそも、リナが大人しく俺と一緒に王都に帰ってくれていたら良かったんだ」
ファリス様の言葉が胸に刺さる。今、オレアさんが床に倒れ込んで、血の混じった唾を吐いているのも、元はと言えば私の我儘が発端だったんだ。
ファリス様がこちらへ向き直り、正面から私を睨みつけてくる。
「……ごめんなさい」
魔熊をこの目で見たいという願望を果たす為に、私はどれだけの人に迷惑を掛けてしまったんだろう。
俯いた私の左の頬に、ファリス様の手が添えられる。それにつられるように顔を上げた瞬間、右の頬がペチッと音を立てた。
叩かれたのだ、と認識した瞬間、情けないことに私の目から涙が溢れた。
叩かれた頬が痛かったんじゃない。心が痛かった。ファリス様に手を上げさせるほど、心配をかけた自分が許せなかった。
ファリス様が騎士の制服ではなく貴族服を着ているということは、本当はここへ戻って来る予定じゃなかったってことだ。実家の侯爵家から緊急に呼び戻されたのに、着替える間もなくこの村に戻ってくることになったのは、明らかに私のせいだ。
「……な、……泣くな」
急に狼狽えだしたファリス様を前に、涙が止まらない。
「すまなかった。そんなに強く叩いたつもりはなかったんだが。……泣かないでくれ、リナ」
「ファリス様。そのように腰砕けになられては困ります。叱る時は、徹底的に厳しくしてくださいませんと」
不意に背後から投げかけられたその声を聞いた瞬間、私の目から溢れ出していた涙がぴたりと止まった。
「何で……」
何で、あんたがここにいるのよっ……!
「あなた様にそのように甘やかされては、我が主はいつまで経っても貴族家の主であるという自覚を持つことができません」
銀縁眼鏡を光らせながら近づいてくるのは、我が『聖女』家の執事ウォルターさんだった。
うちの執事を見た瞬間、私のせいで……、なんて悲嘆に暮れていた気持ちがいっぺんに吹き飛んでしまった。
「控えなさい、ウォルター。それでは、まるで私が不甲斐ないことを、ファリス様のせいにしているように聞こえるわ」
聖女家でしているように、いかにも貴族女性らしく居丈高に言い放ったつもりだったけれど、如何せん涙で濡れた顔に鼻声の私は、威厳の欠片もなかった。そのせいか、ウォルターさんはまるで人を喰ったような表情を崩さない。
「それは失礼いたしました。ですが、全くの見当違いという訳でもないでしょう」
そう言われて、返す言葉が見つからない。泣いて許して貰おうなんて思ってなんかなかったけれど、周囲から見たら涙を武器に使っていると思われても仕方がない。事実、私が泣いたことで、ファリス様は動揺して、さっきまであんなに怒っていたのが嘘のようにオロオロしている。
「ご自分の勝手な行動が、どれだけ周囲に影響を与えたか、深く反省していただきたいものです。とは言え、暴力に訴えるのはどうかと思いますが」
あくまで冷静なウォルターさんの視線を受けて、ファリス様が固まる。その向こうで、ゆっくりと起き上がったオレアさんが床に胡坐をかいて溜息を吐いた。
「お食事の途中だったのですね。ファリス様の席もご用意いたしますので、食事をしながらゆっくりとお話を聞かれてはどうでしょうか」
では頼みます、とウォルターさんが食堂の入り口に向かって呼びかけると、怯えたように立ち尽くしていた村長の息子の奥さんとその娘たちが恐る恐る入ってきて、乱れたテーブルの上を整え、床に散乱したコップの破片を片づけ始めた。
ウォルターさんは、食事をしながら冷静に話し合う場を設けただけではなく、気まずさから停滞しがちな会話の進行役としても力を発揮した。
私は、何故山に登ることになったのか、どうして迷ったのか、迷った後どうやってオレアさんに助けられたのか、正直に話した。途中、ファリス様が激昂したような表情を浮かべて何度か椅子から腰を浮かしたけれど、その度にウォルターさんに宥められて気持ちを落ち着けているようだった。
「俺が、お前たちが山から下りて来ないという報告を受けたのは、今日の午前中のことだ」
今度は、ファリス様が自分達のことを語り始めた。
サステート領主が私達の事を報告した先は、対魔情報戦略室のトップである宰相閣下だった。宰相閣下はすぐにクラウディオ陛下へ報告すると共に、デュラン侯爵家に戻っているファリス様に情報を伝えた。
すぐに登城したファリス様は、何故かその場にいたウォルターさんと共に魔導師の移動魔法でフロワーズ領まで飛んだ。そこから馬を駆り続けて、ようやくこの時間にトレウ村へ辿り着いたのだった。
途中、サステート領に入ったところで、私達が無事に下山したと領主の部下から知らされてはいたらしいけれど、そのままこの村に急行したってことは、それだけ怒っていたってことなんだろうな。
「あの、レイチェルさんは?」
レイチェルさんなら、もうこの村まで移動魔法で飛んで来られるはずだ。それなのに、何故二人は彼女じゃなく、別の魔導師に隣のフロワーズ領まで連れてきてもらって、そこから馬で移動するという大変な方法をとったんだろう。
「彼女は、まだ移動魔法が使えるほど、魔力を回復してはいなかった」
「そうなんですね」
やっぱり、移動魔法は相当魔力を消耗するものなんだ。リザヴェント様は私が以前住んでいたザーフレム領まで平気で往復していたけれど、やっぱりあの人は他の人と格が違い過ぎるんだろうな。
「彼女も、若い頃はもう少し体力もあっただろうが、やはり年齢的な問題もあるのだろうな」
……ん?
意味が分からずに首を傾げると、それに気付いたファリス様が口元を歪めた。
「彼女は若作りに成功しているが、実は俺の母親と同じ年だからな」
「……え、……えええっ!?」
何と。老け顔メイクをしているんじゃなくて、年齢を誤魔化すための厚塗りだったのか! そう言えば、この村長宅で一緒に生活している間、お風呂に入る順番とか、すっぴんを見られるタイミングを絶妙にかわされていた気がする。
まあ、でも、美人さんは幾つになっても美人さんだということだよね……。
「ともかく、リザヴェントに気付かれないように事を進めるのは大変だった。だが、あいつは不思議なことに、どこからか情報を仕入れてくる。今日はもう日も暮れているから仕方がないが、明日早朝にはここを発ってフロワーズ領まで戻り、待機している魔導師の移動魔法で帰るぞ。今晩中に、荷物をまとめておけ」
「分かりました」
ここまで迷惑を掛けておいて、もう少しここにいたいだなんて我儘は言えない。それに、うちの執事がここにいる状況では、もうこの村も聖女家と同じ気を抜けない場所になってしまった。
自業自得とはいえ、せっかく楽しかった地方視察がこんな終わり方だなんて、残念としか言いようがない。
「本当に、ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした、ファリス様。デュラン侯爵家でのご用事を抜けて、駆け付けてくださったんでしょう?」
「……まあな」
「大丈夫だったんですか? 大事なご用事だったんじゃないんですか?」
重ねて訊く事に、ファリス様の眉間に皺が寄っていく。
……まずい。やっぱり、本当に大事な用事があったんだ。それなのに、私の為に呼び出されて、こんな上等な衣服で半日馬を駆ることになってしまったなんて。
不安を募らせる私に止めをさすように、ウォルターさんがしれっと言い放った。
「先日、デュラン侯爵様がお倒れになったとお聞きしております」
「えっ!?」
目を剥いた私に、ファリス様は険しい表情で首を横に振った。
「大丈夫だ。大したことはない」
「でも、そんな……。だから、急いで帰らないといけなかったんですよね?」
お父さんが倒れただなんて、大変なことじゃないか。ファリス様の様子からして命に別状はないかもしれないけれど、地方視察中のファリス様を急いで呼び戻すほど、一時は危なかったのかも知れないし。
「俺を呼び戻す算段をしたのは兄だ。確かに呼び戻された理由は父のことだが、それほど差し迫った状況なら、陛下も俺を城へ呼び出したり、この村へ再び向かわせたりなどなさらない」
そこで、不機嫌そうにそう語るファリス様に反論したのは、私の背後に控えているウォルターさんだった。
「ファリス様にどういうご予定がおありだったかご存知であれば、陛下ももう少し気を遣われたと思われますが」
「……っ!」
いきなり椅子を蹴って立ち上がり、拳を震わせるファリス様を、ウォルターさんはやや見上げるような形で堂々と見つめ返した。
「確か本日、デュラン侯爵邸にて、ヴァセラン伯爵令嬢との昼食会を兼ねたお見合いが行われるとお聞きしておりましたが」
お見合い? でも、貴族のお見合いって、もうすでに家同士では話がほぼ纏まっていて、後は本人同士が婚約を前提に顔を合わせるって感じじゃなかったっけ。
へえぇぇぇ~、そうなんだ。ファリス様ったら、いつの間に……。
……いやいや、そうじゃない。そんな重要な場をすっぽかしただなんて、何を考えているの? というか、そうさせてしまったのは、私が山で迷子になんかなっちゃったからじゃないかー!!