7.夕食の席で
オレアさんに言われたことがショック過ぎて、その後何も言い返す気力もなくなってしまった。込み上げてくる涙を拭きながら、スンスンと鼻を啜りあげ、胸の中を渦巻く怒りと悲しみを堪える。
「眠っちまったのか?」
何度かそうオレアさんが声を掛けてきたけれど、何も答えられなかった。口を開いたら、声を上げて泣いてしまいそうだったから。
私は、今まで非情な現実を受け止めるのが怖くて、ずっと目を逸らし、耳を塞いでいた。そんな自分の軟弱さに、気付こうともしていなかった。
テナリオの戦局がどうなっているかなんて、詳しく知りたくはなかった。ギルドで戦士たちがテナリオの話をしていると、自然と聞こえない位置まで距離をとった。もし、その話の中で、不意にアデルハイドさんに何かあったなんて情報を耳にしたらと思うと、恐ろしくて聞いていられなくて。
元の世界みたいに、電話して「最近どうしてる?」なんて訊くこともできない。現在の戦況がどうなっているか知りたくても、テレビやネットニュースに頼ることもできない。
真偽も確かでない人の噂話に振りまわされて、気を揉んで、一喜一憂しながら、勝利しても戻って来る当てなどない人のことを待ち続けるのは、想像以上にきつかった。安易にアデルハイドさんを待つと決心した、半年前の自分を笑ってやりたい。
……でも、忘れろだなんて。
そんなこと、できるはずがない。
いなくなって、離れてみて分かった。私にとって、アデルハイドさんがどれだけ特別だったかってことを。
城を出て、全く新しい環境に身を置いて、『聖女』という名の貴族となって、それまで以上に私を取り巻く風は冷たく厳しくなった。でも、その風を遮って、温かく包んでくれて、それでいて私にそれを意識させない存在だったアデルハイドさんはもういない。
何で、今ここにいてくれないの、って泣いた夜もあった。私を置いて行ってしまったことを恨んだりしたこともあった。
でも、だからこそ、忘れることなどできない。
……私がどれほどアデルハイドさんを思っているか知らない癖に。オレアさんに、そんなことを言われる筋合いはない! 今は負ぶわれているからできないけど、山を下りて村に辿り着いたら、一発頭を叩いてやるんだから!
……そう思っていたのに、私はオレアさんに負ぶわれたまま、いつの間にか本当に眠ってしまっていた。
気が付いたら、村長宅で使わせて貰っていた、自分用のベッドにいた。
一晩、山に入ったまま戻ってこなかった私達の事を、村の人達はとても心配してくれていたらしい。昨夜から若い男達が中心となって山の周辺を捜索し、今日も手分けして山中を探してくれていたようだ。
目覚めた私の前に、村長の息子の奥さんが温かいスープを用意してくれた。お腹を満たし、用意されていたお風呂に入るとまた眠くなってきて、それからまた夕方までぐっすり眠ってしまった。
夕食の準備ができたと村長の孫娘が知らせてくれたので、私はさっきまで書き込んでいたメモ帳を閉じて、一階にある食堂兼居間へと下りていった。
すでに、並べられたご馳走を前に、オレアさんが片肘を付きながらお酒を飲んでいた。ハイデラルシアの人は、基本的に酒好きでしかも酒豪が多いらしい。オレアさんも例外じゃなく、この村に来てから一人で酒樽をいくつも空けていた。
私が食堂に足を踏み入れると、オレアさんは上目遣いにこちらをチラッと見て、無言のままグイッと酒を呷った。
「あの、……ありがとうございました」
そもそも、オレアさんが山に登ることを提案した、という前提はさておいて、彼がいなかったら私はどうなっていたか分からない。素直に感謝の気持ちを伝えると、何故か盛大に溜息を吐かれた。
「あんたも大概、お人好しだな」
「え?」
「聖女様ともあろう御方が、一介の戦士の不手際で、山の中で死にかけたんだ。礼を言っている場合じゃないだろうが」
それはつまり、責任を問えということだろうか。
「だって、迷ったのは私だし」
それに、無理矢理山中に連れ去られた訳でも、そこに置き去りにされた訳でもない。私が山に登りたかったんだし、オレアさんを見失った挙句、魔鳥から逃げる為にめちゃくちゃに走り回ったせいで迷ったんだから。
「俺は、あんたが後ろをついてきてないことに、もっと早く気付くべきだったんだ」
「ううん。よそ見ばっかりして、緊張感のなかった私が悪かったの」
畳み掛けるようにそう言うと、オレアさんは酒臭い息を吐きながら苦笑した。
「じゃあ、そういうことにしておくか。でもなぁ。騎士様は、それでは納得してくれないだろうな」
ぎょっとして、千切ったパンの欠片をテーブルの上に落としてしまった。
「……えっ? 嫌だなぁ、オレアさん。ファリス様には内緒にしておくって……」
「それがな。今朝、村長がサステート領主に、俺達が山から下りて来ないと知らせたらしい」
「げっ……」
何をしてくれてるんですか!? 村長さんーー!
「まあ、聖女様が山中で行方知れずとなれば、村長として領主に知らせるのは当然のことだがな」
……それは、そうですけど。
「俺があんたを背負って山を下りた時には、サステート領主の私兵が山の入り口まで捜索に来ていた。無事戻ったと知って、そいつらはすぐに帰って行ったんだが。サステート領主が村長から聖女行方不明の知らせを受けて、捜索の為に私兵を差し向けるだけだったと思うか?」
オレアさんの言わんとするところは分かる。つまり、私達が山から下りて来ないという知らせは、サステート領主から王城へ報告されているはずだ。
この国には勿論電話やインターネットはないけれど、代わりに伝書鳥を使ったり、魔導師による移動魔法なんかの通信手段はある。田舎とはいえ、領主の館まで届いた知らせが王城まで行きつくのは時間の問題だ。
「……王都に帰ったら、怒られるだろうなぁ」
きっと、もう二度と地方視察だなんて行かせて貰えなくなるだろうな。
項垂れる私に、珍しくオレアさんが同情的な表情を浮かべた。
「残念だったな。あんな目に遭ったっつーのに、結局魔熊は見られず仕舞いか」
「……あ」
口を開いた瞬間、頬張っていた鶏肉が危うく口から出るところだった。慌てて飲み込み、ちょっと待って、とオレアさんに声を掛けて、自室に戻ってメモ帳を持ってくる。
「これ見て」
メモ帳を開き、さっき描きあげたばかりの絵をオレアさんに見せる。そう、縞々のある、つぶらな瞳のアライグマの絵を。
「……見たのか?」
オレアさんは、呆気に取られた表情で目を瞬かせた。
「うん。あの洞窟で夜を明かしたていたら、明け方に現れたの」
あまりに可愛らしい姿につい和んでいたら、いきなり牙を剥いて威嚇されたことを話すと、オレアさんは酒で赤くなった顔に和やかな笑みを浮かべた。
「そいつは、同じ魔熊でも、魔族の国近辺に出る奴らとは全く違う。木の実や果実、それに豆類を好んで食うから時々畑にも現れる。臆病な性格で、身の危険を感じなければ、人間を襲うようなことは滅多にない」
じゃあ、威嚇されたのは、私に襲われると思ったから? ええっ、そんなことしないのに。ただ、可愛いなぁって見ていただけなのになー。
「同じ魔熊なのに、余りに違い過ぎると思わない? ううん、魔熊だけじゃなくて、魔鳥なんかもそうよ。そんなざっくりしたネーミングで、困る事ないの?」
「そうだな。魔鹿の討伐依頼がなかなかいい報酬で、不思議に思いながら受けてみたら、馬よりでかいとんでもない化け物だったことはあるな」
でも、そんなのは大抵、報酬の高さで魔物がどれだけ凶暴で依頼が難しいかは分かる、とオレアさんは鼻で笑った。
「大体、ここいらの魔物狩りなんざ、そんなものさ。戦士になった奴らは、自分より経験のある戦士に教わり、時に僅かな分け前で仲間に入れて貰い、知識と経験と技量を身に付ける。そうやって、戦士の間で魔物を狩る技術を継承してきた」
だから、魔物と戦う技術は戦士の間でのみ継承されて、それに頼ってきた結果、この国は騎士であっても魔物と満足に戦えずに、みすみす王女様を連れ去られることにもつながった。
「ハイデラルシアの戦士が減って、このままじゃ立ち行かなくなるという国王陛下のお考えも分からんでもないけどな。あんたが、魔物に関する知識を集約して、それでどうなるのか俺には良く分からん」
「それは……」
その知識を元に新たに戦士を養成する。戦士だけじゃなく、騎士や地方の守備軍にまで技術を身に付けさせ、国土を守る。
……だなんて、全部クラウディオ陛下の頭の中の話で、私には具体的に何をどうするのかさっぱり分からない。
手にしたメモ帳を持つ手に力が籠り、紙に皺が寄る。
今、ここにこうやって書き留めた情報を纏めても、また却下されるかも知れない。でも、少なくとも私には、知らなかったことを知ることができた貴重な時間だった。無駄な時間じゃなかったと思うし、できれば無駄にしたくはない。
「そもそも、あんたが不便だと思うとして、じゃあどうするんだ? 名前でもつけるか? 魔熊・大とか、魔熊・小とか……」
オレアさんが茶化すようにそう言いかけた時、バン! といきなり食堂のドアが開いた。
びっくりして振り向くと、貴族服を着たファリス様が物凄い形相でオレアさんに飛びかかると、胸ぐらを掴んで頬を殴りつけた。