6.大きく逞しい背に
「……っ、おいっ!」
乱暴に身体を揺すぶられて、ハッと目を開ける。
「アデルハ……」
思わず名前を呼び掛けて、言葉を飲み込む。
同じ黒髪に空色の瞳をしていても、今私の肩を掴んで起こそうとしているのは、アデルハイドさんではなくオレアさんだった。
「……ったく。怪我はしていないのか? 具合は悪くないか?」
「お腹が空いて、魔力を消耗し過ぎて気持ち悪いし目は回るし、眠くてたまらない……」
正直に全ての症状を口にすると、オレアさんの盛大な溜息が降ってきた。
「それだけ喋れりゃ、上等だ」
呆れながらも、オレアさんは腰のベルトに括り付けた荷物の中から、小さな包みを取り出して差し出してくる。
「こんな物しかないが、取り敢えず口に入れとけ」
それは、アーモンドに似た豆に砂糖をコーティングした菓子だった。遠慮なく一粒取って口に入れると、糖分が身体中に沁み渡る。
でも、一粒じゃ全然足りない。多分、この包みの中の菓子を全部口の中に放り込んでも、この空腹を満たせることはできない。
「いっぺんに全部食うなよ。山を下りるまで我慢しろ」
そんな私の飢餓感を見透かしたようにそう言うと、オレアさんは私から菓子の包みを取り上げ、三粒だけ掌に乗せた。
「さてと。ほら」
菓子をゆっくりと味わった私に、オレアさんは不意に背を向けてしゃがんだ。……え? おんぶしてくれるってこと?
「眩暈がするってことは、まともに歩けねぇんだろうが。ほら、早くしろ」
そう言われて、いや、自分で歩けます、なんて意地を張れないくらい私はフラフラだった。
遠慮なくオレアさんの逞しい背に身体を預けると、ツンとすえたような悪臭が鼻を突く。
……うっ。
思わず息を止めたものの、そのまま呼吸しない訳にはいかない。オレアさんが放つ汗と生乾きの混じった悪臭に、空腹などどこかにすっ飛んでしまった。
……ああ、何だか、スポーツ系の部活をしている男子生徒の後ろの席だった時の、梅雨の季節を思い出してしまった。
それにしても、生乾き臭いって。まさかオレアさん、雨に濡れた挙句、一晩中私の事を探し回ってくれていたとか?
「もしかして、ずっと探してくれていたの?」
そう訊くと、オレアさんは機嫌が悪そうに唸った。
「当たり前だろ。先に山を下りたのかと思って一度村に帰ったんだが、あんたが戻ってきてないと聞いてまた山に入った。全く、どうやったらこんなところまで迷い込めるんだ」
「……すみません」
「ま、山に入るかと提案したのは俺だから仕方ねぇしな。もし、あんたに何かあったら、あの騎士様にどんな目に遭わされるか分かったもんじゃねぇ」
そう言われて、私も思わず身震いする。山の中で迷子になって、一晩山中で過ごしたなんてファリス様にバレたら、二度と地方視察だなんて許して貰えなくなってしまう。
「オレアさん。このことはくれぐれも内密に……」
「当たり前だ。俺だって、こんなことで命を取られる訳にはいかねぇんだよ」
そうだよね。オレアさんには、帰りを待つ大切な家族だっているんだし。
「どうして、私があそこにいるって分かったの?」
私を背負ったまま、軽々と斜面を登っていくオレアさんにそう訊くと、フン、と鼻で笑われた。
「元々、この近くまでは来ていたんだが、ここを駆け上ってきた魔鹿が火傷しているのを見て、この付近にいるってことが分かった」
なるほど。あの魔鹿のお蔭で、私はオレアさんに見つけて貰ったのか。助かったよ、魔鹿くん。
……というか、あの魔鹿が襲ってこなければ、そもそも倒れて動けないほど魔力を消耗することはなかったんだけど。
「あ、そうだ。魔鹿って、村では人間を見たら逃げてばかりだったのに、あの魔鹿はいきなりこっちに襲い掛かってきたんだよ」
「そりゃあ、お前が自分より弱いと判断したからだ」
「……え? 何それ」
「罠を仕掛けても、最近ではかからなくなったと村の奴らが言っていただろう? 魔鹿はああ見えて、知能が高い。村では逃げてばかりだったのは、俺や騎士様がお前の近くにいたからだ。人間相手でも、自分より弱い奴だと思ったら襲ってくる」
「そうだったんだ……」
オレアさんの背中で、がっくりと脱力して項垂れる。つまり、私はあの魔鹿に完全に舐められていたというわけだ。
……うん。村に戻ったら、早速メモしないとね。
私を背負ったまま、オレアさんは険しい道なき急な山中の斜面をズンズンと登って行く。しかも、ほぼ私が通ってきたと思しき場所を逆に辿っている。
あれ~? あの川沿いを下流に向けて下って行けば、麓に出られるんじゃない?
「村に戻るのに、何で山を登っているの?」
「ここは村がある方とは反対側の斜面だからな。戻るには、一旦登る必要がある」
「え?」
「あんたは、国境の山岳地帯の奥へ向けて山を下っていたんだ。あのまま下っても、行きつくところは深い谷だ」
つまり、あのまま川沿いに歩いて行っても、人が住む場所には出られなかったってこと?
急に怖くなってきた。今回はオレアさんが見つけてくれたから良かったものの、あのまま一人で歩き続けていたらどうなっていたか分からない。今後は、絶対迷子になんかならないようにしないと。
斜面を登り続けたオレアさんは、昨日私が雨宿りをした洞窟の前までやってきた。
「あ。ここで、雨を凌いで一晩過ごしたんだ」
「ああ。たき火の跡があったから、そうだろうと思っていた」
そう言うと、オレアさんは足も止めずに歩き続ける。
ということは、夜が明けても早速と出発せずに、ここでしばらく待っていたらオレアさんが来てくれたのか。もしそうしていたら、こんなに魔力を消耗してオレアさんに迷惑をかけることもなかったのに。
大きくて逞しいオレアさんに負ぶわれて、こうして頼り切っていると、どうしてもやっぱりアデルハイドさんを思い出してしまう。特に、今みたいに顔が見えずに、黒髪と筋肉の塊みたいな広い肩だけが視界に入っていると、懐かしくて切なくて胸がキュンと苦しくなってくる。
「……あんた、やっぱり今でもアデルハイドのことを思っているんだな」
不意に、心の内を見透かされているようにそう言われ、心臓が跳ねる。
何で、オレアさんがそんなことを知っているの? あ、さっき意識が朦朧とした時、アデルハイドさんの名前を呼んじゃったからかな。
「アデルハイドさんを、知っているの?」
思わずそう訊いてから、愚問だったと後悔した。この国で暮らしているハイデラルシアの民のリーダー的存在だったアデルハイドさんのことを、オレアさんが知らないはずはない。しかも、同じギルドに登録している戦士だったんだから。
「俺とあの人は年齢も近いし、この国に流れてきた頃から親しくしていた。同じ依頼を受けて旅をしたことも何度もある」
「……そうだったんだ」
二人がそんなに親しい間柄とは知らなかった。
「因みに、あんたがあの人を追いかけて城からギルドに乗り込んで来た時、実は俺もあの人と一緒に部屋の中にいた」
「うえっ!?」
「随分、面白いものを聞かせて貰ったな」
クックッ、と喉を鳴らして笑うオレアさんの背中で、私は羞恥のあまり真っ赤になって震えた。
「……酷い。じゃあ、アデルハイドさんが私の呼びかけに何の反応もしてくれなかったのを、一緒にいて笑って見ていたんだ」
血の気が引いていく。まさか、あの部屋の中にアデルハイドさんの他に他人がいただなんて。しかも、アデルハイドさんだけだと思って、泣きながら結構恥ずかしいことを言っちゃったような気がする。
でも、それなら何故、アデルハイドさんを説得してくれなかったんだろう。部屋の中で、二人して「恥ずかしい奴」だなんて笑っていたんだとしたら、これほど屈辱的なことはない。
「笑ってなんかないぞ。部屋の中は、とてもそんな雰囲気じゃなかったからな」
「え?」
「喋るな動くな反応するな、ってあの人の威圧感が半端じゃなかったからな。下手に声でも出そうものなら、殺されそうな雰囲気だった」
いつも余裕ぶっているオレアさんが、何かに怯えるように肩を竦めて呟いた。
「……アデルハイドさんは、……やっぱり、私について来られると困るから、黙っていたのかな」
オレアさんの逞しい肩の上で、ぎゅっと拳を握り締める。
あの時、部屋の中でアデルハイドさんが何を思っていたのか、知りたいようで、知るのが怖かった。
ダイオンさんが言った通り、私の為を思っていてくれたのならいいのだけれど、本当は鬱陶しいとか思われていたのかも知れないという不安が今でも拭いきれない。
「それは正しいかも知れんし、ちょっと違うかも知れん」
「……違うって?」
「あの人は、ドアノブを握り締めて、背をドアに押し当てて、あんたがドアを叩く振動も全部身体で受け止めながら、あんたの声をじっと聴いていた。何を考えているのかは分からなかったが、唇を噛みしめて、必死に何かに耐えているように見えた」
それは、どういう風に受け取ったらいいんだろう。
「俺には、その姿が、ハイデラルシアの最後の砦が陥落する前、最後の突撃に出撃する時の、あの人の親父さんにそっくりだと思った」
ハイデラルシア軍の総司令官だったという、アデルハイドさんのお父さんに?
「きっと、あの人にとってあんたは特別だったんだな。けれど、自分は死地に旅立つ身で、あんたを一緒には連れていけない。身を引き裂かれるような思いで、あんたとの別れを受け入れようとしていた。そんな風に俺には見えた」
「そんな言い方しないでよ。そんなこと言ったら、まるでアデルハイドさんが……」
……死ぬと決まっているみたいじゃない。
必死で首を横に振る。
そんなことない。魔王軍はまだ秩序を取り戻していないらしいし、各地から屈強な兵士達がテナリオにどんどん集まっている。それに、アデルハイドさんはあの魔将軍を討った人でもあるんだから、そう簡単に……。
「言っとくが、もう二度と、あの人がこの国に帰ってくることはない」
「……やめて」
「あの人のことは忘れてやれ。それが、あの人の為だ」
オレアさんは、非情なほど冷静な声で、私に現実を突きつけた。