4.そして迷子になった
翌朝。私達に黙って、一人早朝から村長の家を出ていたオレアさんが、魔鹿の死骸を引き摺って戻ってきた。
「ちょいと、そこの山に入って狩ってきた」
朝食を食べたばかりの私達の前に、戦斧でザックリとやられた魔鹿の死骸を放置して去っていくオレアさん。うぷっ、気持ち悪くなってきた……。
「なるほど。確かに、角の表面に液体が染み出しているな。これが毒か」
ファリス様。血走った目を見開いたまま事切れている魔鹿の死骸を冷静に観察できるなんて、さすが騎士様です。
気持ち悪くて、さっき食べたばかりの朝食を戻しそうになるけれど、折角オレアさんが持って帰ってくれた魔鹿だ。スケッチ用の紙を取り付けた板とペンを用意して、特徴を写生していく。ついでに大体の大きさも計ってメモし、体色も忘れないように記入した。
「ふーん。うまいもんだなぁ」
いつの間にか戻ってきていたオレアさんが、私の手元を覗き込んで感心したように呟く。
ふふん、そうでしょう、そうでしょう、と得意気に鼻を鳴らすと、ふと薬っぽい匂いが鼻を突いた。
「……オレアさん?」
「ん?」
「怪我したの?」
見上げると、オレアさんは気まずそうに顔を顰めた。
「何で分かった?」
「塗り薬っぽい匂いがしたから」
そう答えると、オレアさんはフンと鼻を鳴らしながら大きな左の掌を開いて見せた。
「そいつを仕留めた時、ついうっかり触っちまった」
真っ赤に腫れた皮膚が、塗り薬でぬらぬらと光っている。
「うわぁ。結構、酷いことになるんだ」
痛々しい掌を見つめながら呟くと、オレアさんは「こんなもん、屁でもない」と笑い飛ばした。
「これ、どんな薬をつけたの?」
薬っぽい匂いではあるけれど、今まで使ったことのある傷薬とは少し違うような気がする。
「魔鹿の毒のかぶれには、白月草の煮汁を使った軟膏が一番効くんだ」
むっ。良い情報を手に入れた。早速、スケッチの横にメモをする。
「もしかして、角で突かれて体に毒が入った時も、その白月草が効くの?」
「そうだな。その場合は乾燥させたやつを煎じて飲ませるな」
ふーん、と感心しながらメモしていると、オレアさんは口角を吊り上げてニヤリと笑った。
「ふふん。何となく、情報の集め方が様になってきたんじゃねぇのか? 聖女様」
え? ……ああ、でも、そうかも知れない。魔物の見た目とか特徴とか、強さとか戦い方だけじゃなくて、その魔物が暮らしにどんな悪影響を与えるかとか、襲われて怪我をしたらどうすればいいかとか、そういう実務的な情報を集めれば、きっといろんな人の役に立つと思う。
もしかして、オレアさんは私に、そういうやり方を教えてくれたのかも知れない。
『聖女様』っていう呼び方には結構な厭味が含まれていたけれど、ここはまあ、聖女様らしく大きな心で見逃してあげるとしましょうか。オホホホ……。
王女救出の旅に出た時に遭遇した魔物は、大体大型で凶暴なやつらばかりだった。だから、このトレウ村で目にする魔物は、どれも初めて見るものばかりで、驚かされてばかりだった。
「あ、カラス……にしてはちょっと大きい?」
と暢気に空を見上げていたら、それは魔鳥の一種で、危うく降下してきた奴に頭を突かれるところだった。
「どこまで暢気なの? あなたは」
「すみません……」
レイチェルさんが魔法で撃ち落としてくれた魔鳥を前に謝りながら、ごそごそとメモ帳を鞄から引っ張り出してスケッチする。まあ、日々、そんな調子だった。
この村に来てから、私は着慣れた訓練着に、斜め掛けの鞄をかけて歩き回っていた。そんな恰好をしていると、村の人たちは私が聖女だと分かっていても、変に緊張したりせずに自然に接してくれる。
「聖女様。これが白月草です」
子供達が、畑の畔に生えている草を指さして教えてくれる。スケッチをした後、一本だけ抜いてメモ帳に挟んだ。視察の思い出に、持って帰ってしおりにでもしようっと。
「聖女様。あっちに、魔兎がいるって」
「魔兎?」
子供たちに手を引かれて行ってみれば、村人たちが棍棒を片手に集まっていた。その人垣の向こうに、大型犬くらいの何かがうずくまっている。
「ああ、これは聖女様」
「これが、魔兎?」
兎というには、あまりに大きくてグロい。黒光りする毛並は針のように鋭くて、長い耳は身体の半分を覆うほど長い。そして、どちらかというと、耳の長すぎるカンガルーだ。
「魔鹿用の罠にかかってましてね。息の根を止めようとして、村人が一人、蹴られてわき腹を骨折してしまいました」
げげっ。このやけに逞しい後ろ足がやったのか。キック力が強いんだなぁ。後で、どうすれば簡単に倒せるかオレアさんに訊いて、村の人達にも教えてあげないと。
そんな風にして、時間はあっという間に過ぎて行った。
オレアさんは、依頼票にあった魔鹿駆除の最低頭数を大幅に超えた二十頭余りを仕留め、これならしばらく畑の方は安心だと村人たちに感謝されていた。そもそも、その依頼は本来、オレアさんレベルの戦士には簡単過ぎるし、報酬も少ないらしい。
視察の滞在予定日も残りあと三日となった日のことだった。サステート領主の館から早馬が来て、ファリス様が突然、王都に帰ることになった。何でも、実家のマジェスト侯爵家から、すぐに家に帰るよう緊急の連絡が入ったらしい。
ファリス様に、視察を切り上げて一緒に帰ろうと何度も説得された。仕舞いには、無理矢理一緒に連れて帰ると押し切られそうになった。
でも、私にはまだ、心残りがあった。……そう、私はまだ、魔熊を見ていない。一番気になっている、この村にも出るという魔熊を!
「大丈夫さ、騎士様。聖女様は俺がしっかり見張っとくんで」
最終的に、ファリス様はそう言ったオレアさんに私の事を託して、レイチェルさんの移動魔法で王都へと帰って行った。
ファリス様とレイチェルさんが白く輝く魔法陣から姿を消すのを見送った私達のところに、村の子供達が駆け寄ってきた。
「聖女様ぁ! 魔熊がいました!」
「えっ、本当!?」
オレアさんと二人で慌てて駆け付けてみると、棍棒を手にした農民たちが畑の縁に立って山の方を眺めていた。
「もう少しで仕留められるところだったんですが、逃げられてしまいました」
「……そうなんだ」
残念。せっかく、魔熊の姿を拝めると思っていたのに。
これまでの視察で、私のメモ帳はこの近辺に出没する魔物の情報で埋まっていた。これで完ぺきとはいわないけれど、ここサステート領トレウ村近辺で住民を悩ませている魔物は、ほぼ把握できていると思う。残るは、魔熊だけなのだ。
呆然と山の方向を見つめていると、オレアさんがガシャッと音を立てて、手にした戦斧を肩に担いだ。
「ちょいと、探しに行ってみるか?」
「えっ……?」
「今なら、口煩い保護者もいねえからな」
確かに。ファリス様がいない今なら、山の中に入ってみるチャンスだ。
実は私、山にちょっとだけ興味があった。子どもたちが連れ立って木の実やキノコを採ってきたり、私と同じくらいの少女が薬草の材料を採りに行ったりするのを何度も見かけている。だから、全然危険だという認識もなかった。
それに、駄目だ駄目だと言われると、返ってちょっとだけ行ってみたくなるのが心情ってもんでしょ?
護身用の短剣がちゃんとベルトに固定されているのを確認して、私は斜め掛け鞄をぎゅっと握り締めた。
山に足を踏み入れると、そこには人一人が通れるような道がずっと続いている。山の中で生活している人もいるらしく、途中には開けた場所があって、薬草っぽい小さな白い花をつけた植物が群生しているところがあった。
何だ。やっぱり、全然危険なところじゃないじゃない。
段々と緊張感がなくなって、景色のいい所で立ち止まったり、珍しい花に見惚れたりしているうちに、ふと気付くとオレアさんの姿が視界から消えていた。
……えっ。
いやいや、落ち着け、リナ。道は一本しかないんだから、急げば追いつけるはず。
慌てて後を追いかけたものの、オレアさんには追いつけない。
「オレアさーん!」
不安に駆られて大声で叫ぶと、木の枝が揺れ、羽音を立てて舞い上がり、こっちへ急降下してくる黒い影が視界に入った。
……魔鳥!
悲鳴を上げ、闇雲に逃げ惑う。この時、自分が魔法を使えることなんて、私の頭から完全に消えていた。
気が付くと、私は山の中で迷子になっていた。
落ち着きなさい、リナ。坂を降れば、麓に出られるはずよ。
そう思い、とにかく山を降ることだけ考えて歩く。けれど、不思議なことに降れば降るほど山は深く険しくなり、人の手が全く入っていないような場所に出てしまった。
そのうちに、生い茂る木々がザワザワと不気味な音を立て、雨が落ちてきた。
泣きそうになりながら足を速めて必死に山を下ったけれど、どこまで降りても村には辿り着けない。
そのうち、山の斜面にポッカリと口を開けた洞窟を見つけた。取り敢えず近づいて中を伺い、魔法で火の玉を出して中に魔物なんかが潜んでいないか照らして確認する。
それほど深くない洞窟には、何もいないようだった。
雨に濡れない場所まで入って、そこにあるなるべく平らな場所を選んで腰を下ろす。
遠くの方で聞こえていた雷の音が段々と近づいてきて、風が木々を揺らし、濡れた土のむせ返るような匂いが漂う。
こうして、私は山の中で完全な迷子になってしまった。