3.サステート領トレウ村
リザヴェント様が私に同行する魔導師として選んだのは、何と女の人だった。
ここグランライト王国では、武官も文官も男の人だけだけれど、唯一魔導師だけは生まれ持った魔力の強さが重要な職業だけに、女の人が何人かいる。
だから、『聖女』というだけで超例外的に文官に任命された私のことを、気に喰わない人がいるのも当然の話だ。
魔導師さんは、レイチェルという名前の、白い肌に真っ赤な唇が印象的な、藍色の髪の美人さんだった。話してみると、姉御肌で頼りがいがありそうな人だ。どうやら、サステート領で私が困らないように、リザヴェント様がわざわざ女性で気の利く彼女を人選してくれたらしい。
レイチェルさんの移動魔法で、彼女と私にファリス様、それに案内人を渋々了承してくれたオレアさんは、サステート領の隣にあるフロワーズ領まで一瞬で移動した。
魔導師は、自分が一度行ったことのある地点までは移動魔法で飛ぶことができる。そもそも、なぜ、サステート領まで移動魔法で飛ばなかったのかと言えば、残念ながら魔導室にサステート領に行ったことのある魔導師がいなかったからだ。
レイチェルさんは、今回私達を連れて移動魔法を使う為に、過去にフロワーズ領まで来たことがある魔導師の移動魔法で、事前にわざわざ一度ここまで来たんだそうだ。
フロワーズ領主が手配してくれた馬車や馬に乗り、今度は丸一日かけてサステート領を目指す。馬に乗るのはファリス様とオレアさんで、私とレイチェルさんはフロワーズ領主に仕える御者が操る馬車に乗り込んだ。
「どう? 疲れてない?」
向かいの席に座るレイチェルさんが気を遣って話しかけてくれるけれど、その大人で仕事の出来る女性という雰囲気に圧倒されて、なかなか会話が弾まない。
レイチェルさんの見た目は、ケバいくらい濃いメイクのせいで若干老けて見えるけれど、多分二十代半ばなんだろうと思う。その若さで移動魔法を使えるなんて、凄い魔導師なんだ。
やっぱり、この国で男性と肩を並べて仕事をするには、それなりの実力が必要だってことだ。ただ、異世界から召喚されて、優秀な人達のお蔭で王命を果たすことができただけで、特別扱いされている私って、レイチェルさんの目にはどう映っているんだろう……。
辿り着いたサステート領は、以前私が暮らしていたザーフレム領と似たり寄ったりの、本当に見事な田舎だった。
中央部の街は結構賑やかなところで、隣国の文化が混じる影響か少し王都とは違う雰囲気だったけれど、人も多くていいところだった。
けれど、国境はかなり山深いところで、依頼票にあったトレウ村も、山間部の農地に民家が点在している小さな村だった。
「まさか、このようなところに貴族の方々がおいでになるとは……」
迎えてくれた村長さんはかなり高齢の方で、痩せ細って背も腰も曲がっている白髪のおじいさんだった。
トレウ村には宿泊施設なんてないので、この村長さんの家に宿泊することになるそうなんだけれど、お世話になっても大丈夫かな、と正直心配になってしまった。
サステート領主が、領主の館から侍女と下働きの男性を一人ずつ派遣してくれて、私達は総勢六人で村長の家に入った。
村長の家には、村長の妻と息子夫婦、それに孫娘が二人いた。私達がいる間は家を明け渡してくれるらしいけれど、食事や掃除なんかの身の回りのことはお世話をしに通ってきてくれるらしい。
荷物を解いて、用意されていた食事をとる。フロワーズ領から一日中馬車で揺られた疲れが出て、お腹が張ると強烈な眠気に襲われた。
レイチェルさんに促されてお風呂に入り、私用に整えられた二階の部屋に戻ると、あっという間に眠りに落ちていた。
翌日、早速被害が多発しているという畑にやってきた。
山裾に広がる畑の山側に、人の腰の高さくらいの雑草が生い茂っている未開拓の場所がある。オレアさんの指示で、そこから私達は身を潜めつつ畑へと近づいていく。
「あ、何かいる……」
「しっ!」
口元に人差し指を当てて振り返った先を行くオレアさんに、静かにしろと叱られる。首を竦めながら再び畑に目をやると、何か中型犬くらいの大きさの何かが畑の中をウロウロしているのが見えた。
……えっ? あれが?
もう少しで口に出してそう言いそうになって、慌てて口を押える。
だって、鹿ってもっと大きいと思っていたのに、元の世界で近所の人が飼っていた柴犬くらいしかない。それに、足も短いし太いし、頭の角も鹿っていうよりトナカイみたいだし、……しかも黒い。牙も生えてるし。いや、そこは『鹿』じゃなくて『魔鹿』なんだから仕方ないのかも知れないけど。
オレアさんがじりじりと草むらを進んでいきながら、音もなく手にした戦斧を構える。
おおっ。いよいよ魔物狩りの瞬間が見られるのか。アデルハイドさんとまではいかないものの、腕が立つと有名なオレアさんの実力をこの目で見られる、とドキドキワクワクしながら見守っていると、不意に風で揺れた草が私の鼻先をくすぐった。
「……っ、クシュン!」
手で押さえてクシャミをかみ殺したはずなのに、魔鹿はピクッと耳を立てて顔を上げた。そして、地面を蹴って身を翻すと、脱兎のごとく山の方へ向かって逃げ去ってしまった。その早い事早い事。まるで、フリスビーを負う犬みたいな走り方だ。……あれって、本当に『魔鹿』でいいのかなぁ。
暢気にそんなことを考えていると。
「あのなぁ」
額に青筋を立てたオレアさんが、戦斧を構えたまま、私の前に仁王立ちになる。
ああっ! まさか、その斧で成敗? ……いや、不可抗力だったんですから、すみません、許してください、本当にごめんなさい……。
「見てみろよ。作物が枯れてやがる」
さっきまで魔鹿がうろついていた畑に入っていくと、オレアさんが指さしたところを見る。なるほど、青々と育っていた葉物野菜の一部が黒く変色し、萎びていた。
「あいつらは、畑にいる昆虫やミミズなんかを食べますんじゃ。それだけならまだよいのですが、あいつらが触れた野菜は、皆こんなふうに枯れてしまいますのじゃ」
この畑を耕作しているという農民が、そう説明してくれた。
何と、畑を荒らすというのは、作物を食い荒らすんじゃなくて、枯らしてしまうってことだったのか……!
「でも、おかしいわね。触れただけで枯れるというのなら、もっと広範囲に枯れていそうなものだわ」
レイチェルさんが不思議そうに首を傾げる。確かに、魔鹿に触れた部分が枯れるなら、魔鹿が通ったところに沿って枯れているはずだ。
「そう。ここを見てみろ」
オレアさんが、野菜が枯れている部分のすぐ近くの地面を指さす。そこには、畑の土を掘り返したような跡があった。
「なるほど、角か」
ファリス様が感心したように唸り、レイチェルさんも納得したように頷く。……え? 分かってないのって、私だけ?
ポカンとしている私に気付いたのか、オレアさんは呆れたように溜息を吐いた。
「いいか? さっきの魔鹿は、この地面を掘り返してミミズを喰った。その時、奴の角がここに触れたんだ」
地面と、野菜の枯れた部分を指さしながら、オレアさんはいちいち言わせんなと言わんばかりの口調で説明した。
「……角に、毒があるってこと?」
「その通り」
だったら、最初からそう教えてくれればいいのに。そう腹立たしい気分になったけれど、でも、教えられてばかりじゃなく、自分で観察して気付かなければ、わざわざこんなところまで視察に来た意味がないってことなんだろう。
「野菜が枯れるってことは、人が触れたらどうなるの?」
ふと疑問に思ってそう訊くと、オレアさんは、おっ? と片眉を上げた。
「直接皮膚に触れた程度なら、かぶれるか、酷いと火傷みたいに爛れるな。ただ、あの角で突かれて傷口から毒が入ると、高熱が出る。処置が遅れれば、命取りになるな」
「へぇ……。結構怖いんだ」
見た目、ちょっとグロいだけの犬みたいな奴なのに。しかも、クシャミに驚いて逃げるような奴なのに。
「まあ、素手で触らなきゃ特に問題ない」
「村では、特に何の対策も講じていないのか?」
ファリス様に訊かれて、農民は少し恐縮したように答えた。
「柵を巡らそうにも、何分広すぎますしのう。罠を仕掛けておくとかかってはおったんですが、最近奴らも知恵をつけてきたようでして、最近はほとんど意味がないのですじゃ」
ふうん。そんな学習能力もあるのか……。
話を聞いているうちに、何だか面白くなってきた。魔族の国周辺に出没する凶暴でめちゃくちゃ強い魔物とは違って、人間を見て逃げる魔鹿のような魔物は、何となく珍獣みたいに思えて興味が沸いてくる。
「あの。この辺りには、魔鹿以外の魔物は出るの?」
そう訊くと、農民のおじさんは日焼けした頬を指で掻いた。
「そうですなぁ。山の中には、いろんな種類の魔物がおりますじゃ。畑に出てきて悪さをする奴は魔鹿と魔兎、魔鼠と、あとは魔熊くらいですかのぅ」
「魔熊!?」
えっ、いるんじゃない、こんなところにも魔熊がっ! 誰よ、テナリオくんだりまで行かなきゃ、そんな強い魔物は出ないなんて言ったのは!
オレアさんじゃないけれど、ついつい同じ戦士であるオレアさんをじとっとした目で見てしまう。
「あのな。魔熊っつっても、あんたがこの間持ってきた本に載ってたような奴じゃねぇから」
呆れたようにオレアさんが唸る。
「まあ、どうしても見たいっていうんなら、山の中に入って探してみるか?」
「リナがそこまでする必要はない。貴様がその魔熊を狩って持ってくればいいだけのことだ」
オレアさんの提案に、どうしようかなぁ、と思案していた私を引き留めるように、ファリス様が後ろからがっしりと私の肩を掴む。
「ま、まあまあ。山の中まで入らなくとも、畑に出てくることもありますんで」
農民のおじさんが慌てたようにその場を取り繕う。
野鳥の声が響き渡り、柔らかな日差しが降り注ぐ。長閑な農村の景色を見回しながら、レイチェルさんが大きな溜息を吐いた。
「……平和ねぇ。私って、ここにいる必要、あるのかしら」