68.あなたの為に
エドワルド様を乗せてハイランディア侯爵領へと走り出した馬車を見送った五日後、私は正式に『聖女』という身分を授与され、与えられたお屋敷に移ることになった。
すでに大半の荷物は新居に運び込まれ、これからお世話になる執事さんをはじめ使用人さん達が準備万端整えて、私が来るのを待ってくれているそうだ。
王子殿下と宰相閣下の計らいだと思うけれど、私とリザヴェント様との婚約は、私が部屋を脱走する前に解消されていたことになっていた。だから、城に戻った当初に流れていた、ハイランディア侯爵令息の婚約者が自ら命を絶とうとした挙句に城を脱走した、という噂は、いつの間にか、婚約を破棄されたショックで自暴自棄になった神託の少女を哀れに思った神官が、心の傷を癒す為に城下へ連れ出すよう騎士団副団長に持ち掛けた、という内容にすり替わっていた。
勿論、そんな噂には恐ろしい速度で尾ひれはひれがついて、今では神託の少女を巡る王女救出メンバーのロマンスがどうのこうのというとんでもない話になっている。こうなったらもう、一つのフィクションとして楽しむしかない、と割り切ることにした。登場する人物は、実在する人物とは全く関係ありません、って。
「面白いことになったわね」
昨日、お別れにきてくれた王女様は、王女という立場に相応しくないほどニヤけていた。でも、噂の内容と現実との乖離を面白がっているだけじゃなくて、きっとリザヴェント様がフリーになったことが嬉しいんだと思う。
「それにしても、良かったわね。『聖女』だなんて、前例が無いから逆に何でもありだし、王家が全面的に支援する立場だから、誰も何も言えはしないわ。それもこれも」
王女様は、私の鼻を指先でツン、と突っついた。
「あなたがどこまでも謙虚過ぎて、ここまでお膳立てしてあげないと、どこまでも自分の気持ちを押し殺して周囲に流され続けるからよ」
「す、……すみません」
「もうっ。謝らないでよ、半分冗談なんだから。でも、わたくし、あなたのそう言うところ、嫌いじゃないわ。それに、これからは堂々とわたくしの所へあなたを呼べるわね」
勿論、来てくれるわよね? と嬉しそうに微笑まれて、思わず顔が引きつりそうになる。
そうか、これからは、王女様の主催するお茶会なんかにも、呼ばれたら出席しないといけないんだ。貴族令嬢達と、上手くやっていけるかなぁ……。
私がそうやって尻込みするのを分かっていて、王女様は私をからかっている。だから、ささやかな反撃としてこう返した。
「クラウディオ様は、ネリーメイア様がおっしゃるほど、恐ろしい人ではありませんでしたよ?」
「今のところは、ね」
悔しそうに顔を顰めた王女様だったけれど、やられっぱなしで終わる人じゃなかった。
「これから、臣下として仕えてみれば、その恐ろしさが分かるわ。覚悟なさい」
そうだろうなぁ。今は甘い顔をしてくれているけれど、いざ仕事となれば厳しい御方なんだろうな。大丈夫かな、私のメンタル、もつかなぁ……。
でも、ここまで私の気持ちに配慮してくれたからには、全力で応えなければならないと思う。王子殿下の求めるものにはほど遠くても、出来る限りのことはするつもりだ。
「……リナ様。そろそろお時間です」
がらんとした部屋の長椅子に座り、これまでに起きた出来事を思い返していると、ハンナさんに力ない声でそう告げられた。
私が城下町から戻った後、ハンナさんは私に対して何事もなかったように振る舞った。けれど、いつも私のことを心配し、無断で寄り道をして帰るのが遅くなると取り乱していたハンナさんが、部屋を脱走した私に何も言わない方が変だった。
リザヴェント様との婚約を解消した私に感心が薄くなったのか、それどころではなく嫌われてしまったのか。きっと、後者だと思う。
だから、希望すれば新居となる王領の屋敷にハンナさんを侍女として連れていくことができる、という話を宰相閣下から聞かされた時も、もしハンナさんが望んでくれるのなら、としか答えられなかった。そして、案の定、ハンナさんは城に留まることを選んだそうだ。
私がこれまでやってきたことの対価として与えられた『聖女』という地位と、私のやるべき魔族や魔物と戦うための知識を編纂するという職務。それは、私がリザヴェント様と結婚しない道を選ぶことで手にすることになったものだ。そして、その道を選んだ為に失ったのは、これまでまるで母親の様に接してくれたハンナさんの心だった。
「ハンナさん」
長椅子から立ち上がり、名前を呼ぶ。それだけで、もう目頭が熱くなってくる。
「これまで、色々とありがとうございました」
ただ一言、それを言うだけで声が震えてしまう。言葉では言い尽くせないほどの感謝と、期待に添えずに傷つけてしまったことへの謝罪。伝えたいことは山ほどあるのに、それをどうやったらうまく言葉にして伝えられるのか分からない。
「……それと、ごめんなさい」
まるで子供みたいな拙い言葉しか出て来ない。
胸の内に渦巻いている思いを全て吐き出してしまいたい。でも、果たしてハンナさんはそれを望んでいるだろうか。私の聞き苦しい言い訳なんか真っ平御免だ、早く城から出て行って欲しいと思われているんじゃないだろうか。
そう思うと、それ以上何も言えず、ハンナさんの反応が怖くて目を伏せた。
「リナ様……」
次の瞬間、私は温かで存在感のある胸の中に抱き締められていた。
「本当に、リナ様はお優しい方ですね」
涙声を絞り出すように呟くと、ハンナさんは私の背を優しく撫でる。
「謝ることなど、何もありません。寧ろ、私の方こそ、リナ様のお気持ちに気付かぬ振りをして、思い通りにならないことに腹を立てて……。謝らなければならないのはこちらの方です。申し訳ありませんでした、リナ様」
「ハンナさん……」
嫌われていた訳じゃなかった。それが嬉しくて、縋り付くようにハンナさんの服を掴んで嗚咽する。
「リナ様が、新たなお住まいに私を侍女として望んでくださったと聞いて、とても嬉しく思いました。けれど、私にはリナ様のお気持ちに応じる資格はありません」
「そんなこと……」
「いいえ。己が仕える御方にこれほど感情移入してしまうようでは、侍女として冷静な判断はできません。私は、リナ様と少し距離を置いた方がいいのです」
身体を離して、正面から私の顔をじっと見つめるハンナさんの目は涙で潤んで、そこから愛情が零れだしているかのようだった。
「……私が共に行けば、きっと新たなお屋敷で待つ者達との軋轢を生むでしょう。ですから、ここでお別れです」
もし、ここで泣いて縋ったら、もしかしたらハンナさんの決意を覆せるかも知れない。
でも、この城に残ると決めたハンナさんを無理矢理連れて行って、もしハンナさんが懸念するような事態になってしまったら。
それに、ハンナさんについて来て欲しい、というのは、分かれるのは寂しいという気持ちもあるけれど、新しい住まいで初対面の執事さんや侍女さん達と上手くやっていけるか不安だからだ。そんな私の都合で、ハンナさんを苦しい立場に追いやりたくはない。
「城に出勤なさるのなら、またいつでもお会いできますし」
「そうですね」
そう。アデルハイドさんみたいに、生きて再会できるかどうか分からないという訳でもない。だから、泣いて別れを惜しむようなことでもないんだ。
ただ、お別れする前に、ハンナさんとちゃんと仲直りできてよかった。あのまま、嫌われたと思い込んだままでは、あまりに寂しすぎるから。
部屋を出る時に、これまでお世話になった侍女さん達全員にお礼を言った。皆、名残惜しそうにしてくれたけれど、特にアンジェさんやフレアさんは涙を浮かべて別れを惜しんでくれた。
こういう時、何かお礼の品を贈れればよかったのだけれど、何の準備もしていなかった自分の至らなさに自己嫌悪に陥りそうになった。この国の仕来りを学んで、そういうちょっとした気遣いができる大人の女性になりたい。
貴族の方々が利用する馬車乗り場に、一台の馬車が横付けされて待っている。王家と神殿の紋章を組み合わせた意匠が描かれたその馬車は、『聖女』家専用のものなのだそうだ。
その馬車を護衛する為か、騎乗した騎士さん達が前後に配置されている。何だかとっても偉い人になったみたいな気がして、気持ちがフワフワしてきた。
でも、馬車の傍に立っている人を見た瞬間、一気に気持ちが引き締まる。
「宰相閣下。お忙しいのに、お見送りに来ていただけるとは恐縮です」
立ち止まって一礼すると、宰相閣下はニコリともせずに首を横に振った。
「気にする必要はない。用があったから待っていただけなのだから」
用って、何だろう。王領に与えられたお屋敷に移って、当面はそこでの生活に慣れるよう努めること。『対魔情報戦略室』の新設準備が整い次第、出仕日程を連絡する。……という最終的な確認は、今朝のうちに済んでいるのに。
宰相閣下はわざとらしく咳払いをすると、困ったように眉を顰めた。
「……以前、二度と我が子に会ってくれるな、などと言っておきながら、こうなってしまったことは些か不本意……、いや、申し訳ないことだが」
「え?」
何だろう、不本意だとか申し訳ないとかって。宰相閣下にしては珍しいくらい、歯切れが悪いし。
「あなたが所属する『対魔情報戦略室』は、軍部や騎士団、魔導室等とも連携して魔族に対抗しうる情報を集約、発信する部署になる予定だ」
はあ。その説明は以前にお聞きしていますが。
「実は、現魔導室長が職を退くことになり、リザヴェントが新たな魔導室長となることが決まった」
まあ、実力と実績から言えば、当然じゃないかと思いますが。
「つまり、魔導室との連携において、あなたは否が応でも、リザヴェントと接触することになる」
「……っ。そうですか」
宰相閣下から、二度と会うなと言われていたのもあって、結局リザヴェント様に私の勝手な行動を謝ることもできずにいる。どうしよう。これから仕事上、他部署のトップと言う立場にいるリザヴェント様と、どう接していけばいいんだろう。
「あの子はこれまで、何度か魔導室長にという推薦を受けながら、全て辞退した。実質的に、魔導室長の職務を代行していながら、自分は人の上に立つ器ではない、と言い張ってきた。それが、急に自ら魔導室長にと名乗りを上げたのだ。その理由が分かるかな?」
「え……?」
「今後、あなたと会うには、そしてあなたの力になってやるには、その地位を手に入れるしかないと考えたからだ」
恐ろしい執念だ、と宰相閣下は苦笑いを浮かべながら天を仰いだ。
「リザヴェント様は、怒ってはいないのですか?」
まだ、婚約は有効だった時に、あんな勝手な真似をしたのに。
「怒るどころか、嘆いていた」
「えっ……」
「リナの気持ちを考えずに、酷い事をしてしまった、と」
そんな。確かに、部屋に軟禁状態になった時はショックだったけれど、私だってリザヴェント様の気持ちを踏みにじってきたのに。
「私としては、あなたを我が侯爵家に迎えるつもりはない。だが、職務上の相手として、どうかあの子とうまく付き合ってくれないだろうか」
「勿論です。リザヴェント様は、私の魔法の師匠でもあり、これまで随分とお世話になっていますから」
そう答えると、宰相閣下は笑顔で頷いてくれた。でも、その笑顔がどこか複雑そうに歪んで見えるのは気のせいだろうか。
「それから、騎士ファリスの処分が決まった。副団長から降格させ、平騎士として『対魔情報戦略室』へ出向させる」
「えっ」
それってつまり、ファリス様は私と同僚になるってこと?
「いずれ、騎士団に戻った時には、得た知識を生かして指導的な立場に立って貰わねばならない。それに、魔物や魔族の情報を得るには、城下のギルドで戦士達からの聞き取りも必要だ。文官だけでは手に余ることも出てくるだろう、という王子殿下の計らいでもある」
そんな。ファリス様はギルドで戦士達と危うく乱闘になりかけたのに。その人事は、適材適所とは言い難いですよ、王子殿下……。
「御気の毒に、ファリス様」
私のせいで降格させられた上、用心棒みたいな職に就かされるだなんて。
「安心しろ。何より、本人が一番喜んでいる」
そんな意味不明な言葉と共に、宰相閣下はまたも苦笑いを浮かべた。
「それから、これだけはあなたに伝えておきたい。あなたの描いた魔物の絵、それを王子殿下にお見せして、その価値の重要性を説いたのは、あの戦士だ」
……アデルハイドさんが?
ああ、でもそんな気がしていた。だって、厨房奥の机に置いたままだったあの絵の存在を知っていた人は、アデルハイドさんと料理長くらいだったから。
「彼はこう言っていた。もし、ハイデラルシアの再興が魔族侵攻の防波堤となれば、神託の少女を戦場に駆り出す必要はなくなるはずだ、と」
……つまり、それは。
「彼は、あなたの為に、戦いに出たのかも知れない」