67.自信を持って
……え、……ええええっ! 王子様の側室って、何でそんな話が出てくるの?
っていうか、これってもしかして、お断りしたら不敬罪で死罪とかになっちゃう? お断りできないパターン?
呆然と王子殿下の顔を見つめながら、段々と顔から血の気が引いていくのが分かる。
うえぇぇっ……。どうしよう。どうしたらいいんだろう。
身体はガチガチに固まってしまい、気持ちだけが焦って右往左往している。
そんな私の反応を楽しむように、ニヤニヤと笑みを浮かべていた王子殿下が、いきなり真顔になった。
「冗談だ」
「…………は?」
「私にも選ぶ権利があるというものだ。側室ぐらい、好みの女を選ばせろ」
ホッとし過ぎて涙が出そうになった。物凄く失礼なことを言われたような気もするけど、ともかく側室の話が冗談で本当に良かった……。
「殿下」
宰相閣下に窘められて、王子殿下は苦笑いを浮かべながら、言ってみただけだ本気にするななどと釈明している。その横で、トライネル様をはじめ重臣の方々もどこか安堵したように表情を崩した。きっと、皆さんも王子殿下の冗談を真に受けて驚いたんだろう。
宰相閣下とのやり取りが終わると、王子殿下は再びこちらに向き直った。
「しかし、ハイランディア侯爵家との縁談も破談となった今、そなたの処遇をどうするかが問題だ」
ああ、そうだった。もう、私は実質、お役御免になっているんだから、いつまでもこの城に留まることはできない。でも、折角の引き取り手であるハイランディア侯爵家を怒らせてしまい、結局以前と同じように、どこにも行く当てが無くなってしまった。
ファリス様にも物凄く迷惑を掛けてしまったから、これ以上お世話になるわけにもいかないし。だとすれば、またザーフレム領の田舎にあるあの家に戻って、元の生活に戻るしかないんだろうな。
ああ、でも、田舎に引き篭もって一人暮らしをしながら、この国の為になることってできるんだろうか。皆さんがこれからも何らかの形でこの国を守る為に力を尽くしていくというのに、私だけまるで世捨て人みたいに、一人気儘に生きていくの? それで本当にいいの?
暗い気持ちになりながらそんなことを考えていると、王子殿下の口から思ってもみない提案が飛び出した。
「こちらとしても、そなたのこれまでの功績を考えると、それなりの待遇をせねばならぬと考えている。そこでだ。特例的に、そなたに貴族の身分を与えることにした」
「えっ……」
……私が、貴族に? 特例的って、ひょっとしてその為に、結婚しなくてもいいってこと?
「貴族と言っても、所領はない。城の北に位置する王領にある屋敷の一つを与え、有能な執事や使用人もこちらで手配する。勿論、貴族となるからには、王家に忠誠を誓い、職務を全うして貰わねばならん。話は変わるが」
王子様は、テーブルの上に置かれた資料の中から、小さなメモ用紙を取り出してこちらに見えるように掲げた。
「これは、そなたが描いたもので間違いないな?」
それは、私が厨房の奥で、アデルハイドさんと語り合いながら描いた魔物のスケッチだった。
講義に使ったちゃんとした絵ではなく、落書き程度のもので、厨房奥のテーブルに置きっぱなしにしたままだったから、てっきり料理長が処分したんだろうと思っていたのに。それがどうして、王子殿下の手元にあるんだろう。
「我が国は、魔族や魔物に対する危機意識がまだまだ低い。ハイデラルシア系の戦士が、祖国の王子の呼びかけに応じて我が国を去れば、地方に出没する魔物を狩るにもたちまち困ってしまうことは目に見えている。だが、魔物を狩るには知識と経験が必要。そこで、そなたには、その知識を集約し編纂する任務を与える」
王子殿下の指に挟まれて揺れる紙片を見つめながら、胸が震えた。
何という事だろう。アデルハイドさんがきっかけで描いた魔物の絵が、私に新たな生きる道を与えてくれただなんて。
厨房奥のテーブルで、二人向かい合って過ごした楽しい時間を思い出して、目頭が熱くなってくる。思えば、私の唯一の特技ともいえる絵を最初に褒めてくれたのは、アデルハイドさんだった。
あの時の、アデルハイドさんの優しい笑顔が甦ってくる。……もう、あの幸せだった時間は二度と戻らないけれど、あの時間のお蔭で、私は自分に出来る役割を与えて貰うことが出来たんだ。
「謹んでお受けいたします」
頭を垂れると、王子殿下の安堵したような溜息が落ちてきた。
「貴族の身分とはいえ、既存の爵位を与えれば、その地位が高過ぎる低過ぎるなどと不満の声も出るだろう。そこで、どの爵位にも当てはまらない『聖女』という身分を定める。そなた限定の、特別扱いだ。王家が責任を持って、そなたの身分を保障する」
「ありがとうございます」
王家が直々に身分を保障してくれるなんて、凄いことじゃないだろうか。『聖女』だなんて、余りに私に似合わな過ぎて、恥ずかしいというか、畏れ多いというか。でも、これでやっとこの国で、地に足を着けて生きていけるような気がする。
その時、それまでずっと黙っていた宰相閣下が口を開いた。
「あなたはこれから、文官として城内で職務に当たることになる。これから新たに『対魔情報戦略室』なる部署を設ける予定で、あなたにはその一員として働いてもらう。その部署を統括する責任者は、私が勤めることになる」
えっ……。宰相閣下が、上司なの? 婚約解消した相手の親が上司だなんて、余りにもこの先波乱が待ち構えているって予感があり過ぎるんですけど。
嫌な汗をかいている私の心の内を察したのか、宰相閣下は苦笑いを浮かべた。
「言っておくが、私は別に、あなたに恨みなど抱いてはいない。寧ろ、素直に婚約解消に応じてくれて助かっているくらいだ」
けれど、その言葉をそのまま鵜呑みにすることはできない。だって、ハイランディア侯爵の次期当主と婚約状態にあるのに、他の男性に想いを寄せて、城下にまで出掛けたんだから。きっと本当は、顔に泥を塗られたとか、恩を仇で返したとか思われているんだろう。
「ラウラス。綺麗事を言わずに、素直に認めたらどうだ。我が養子を振った女が憎いと」
王子殿下にからかうような口調でそう言われたけれど、宰相閣下はきっぱりと首を横に振った。
「いいえ、そのような感情は持っていません。……敢えて言うとすれば、あの子を可哀想に思う、親としては当然の感情ぐらいです。ですが、あの子にとっては、これもいい経験となったでしょう。これからは、私が責任をもって、あの子に相応しい女性を探し出しますから、御心配には及びません」
そして、宰相閣下は私に向き直った。
「という訳で、あなたも何も案ずる必要はない。上司として、職務上のこと、それ以外に困ったことがあれば気軽に相談に乗る。だから、安心するといい」
「はい。ありがとうございます」
……本当は、まだまだ心を許せる相手ではないと思っているのだけれど、それはこれまで色々なことがあったんだから仕方がない。これから、自分がやるべき仕事を頑張って、徐々にお互いの距離を縮めていくしかないよね。
「さて、と。連れ去り犯の方はどうなっている?」
王子殿下にそう問いかけられて、トライネル様が苦笑いを浮かべた。
「どうやら、素直に罪を認めているようです。落ち込んでいる彼女を励ましたかった、などと、相変わらずくさいことを言っているようですが」
連れ去り犯? もしかして、ファリス様の事? その言い方は酷い。ファリス様は私の望みを叶えてくれただけなのに、まるで私を無理矢理城下へ連れて行ったみたいな言い方だ。
でも、供述の内容はファリス様らしい歯の浮くような台詞で、思わず笑ってしまいそうになった。さっき、侍従がトライネル様に資料みたいなものを渡していたけれど、あれって取り調べの報告書みたいなものだったのかな。
「ふふん。まあ、いい。主犯が自首していることだしな。取り敢えず、謹慎を命じておけ」
主犯? ……主犯って、何の事?
王子殿下の言葉に首を傾げていると、それに気付いたのかトライネル様が優しく教えてくれた。
「ファリスは、騎士としての職務に私情を差し挟み、君を城下へ連れ出した。騎士としてあるまじき行為であり、当然ファリスは処罰されることになる」
「そんな……」
……ああ、やっぱり。心配しなくていい、だなんて嘘だったんだ。
「ファリス様は、悪くありません。全部、わ……」
「そう。実は、ファリスを唆した者がいる」
「えっ……」
全部、私が悪いんです、と言おうとした台詞を遮るように、トライネル様は思ってもみないことを口にした。
「当然、自首してきたとはいえ、その者はより重い処罰を受けることになる」
すると突然、王子殿下が高らかに宣言した。
「神官エドワルドを、中央神殿から追放する」
足元の床が抜けて、深い奈落の底へ落ちていくような気がした。
「エドワルド様……っ!」
まるで罪人みたいに、騎士さん達に取り囲まれて馬車に乗り込もうとしているエドワルド様に駆け寄る。
何とかエドワルド様に会って話をしたいとトライネル様にお願いして、取り調べが終わり神殿から追放される際、少しだけ時間を貰うことができた。
私が近づくと、騎士さん達はエドワルド様の傍から離れ、遠巻きに私達を見守っている。これも、トライネル様がそうするよう計らってくれたお蔭だ。
「リナ。来てくれたんだね」
フワリと微笑んだエドワルド様は、私のせいで神殿を追われるというのに、恨みとか憎しみとか、そういう感情を微塵も感じさせない表情をしていた。それが余計に悲しくて、鼻の奥がキュンと痛む。
「何で、どうしてですか? どうして、エドワルド様が、こんな」
エドワルド様は、アデルハイドさんにもう一度会いたいという私の我儘を、叶えてくれただけなのに。なのに、何でこんな目に遭わなくちゃいけないの?
本当なら、罪に問われるのは私の方だ。エドワルド様やファリス様を唆したと言われてもおかしくないのに。
なのに、そう申し上げても、王子殿下も宰相閣下も、誰も取り合ってはくれなかった。寧ろ、そう主張するのはこの場だけにしろと釘を刺されてしまい、私は結果的に、自分が仕出かしたことの責任を、エドワルド様やファリス様に擦り付けることになってしまった。
「いいかい、リナ。これは、僕自身が望んだことなんだ。だから、君が気に病むことは何一つ無いんだよ」
どういうことか分からずに戸惑う私の耳元に口を寄せて、エドワルド様は囁くような声で教えてくれた。
「僕には、やりたいことがある。けれど、中央神殿では神事や規則が多過ぎて、ままならない。どうせここにいても、後ろ盾が無いから出世もできないしね。だから、少し前から、地方神殿へ移りたいと思うようになっていたんだ」
「でも、異動するのと、追放されるのとは違います」
そう抗議すると、一旦耳元から顔を離したエドワルド様は、面白そうに笑った。
「神官長をはじめ幹部達はね、僕を地方神殿へ異動させるのを渋っていたんだよ。神託の通り国を守った神官を地方神殿へ左遷したという噂が流れれば、自分たちの評判が悪くなるからね。だから、僕は君を利用させて貰ったんだ。こんな男に、罪悪感を抱くことなんてないよ。君やファリスは、僕に利用されて酷い目に遭ったんだから、寧ろ恨んでくれていい」
「……恨むなんて、そんな」
首を何度も横に振っていると、涙が溢れてきた。
「アデルハイドと、ちゃんとお別れできたかい?」
エドワルド様のその問いかけに、思わず息を飲む。
エドワルド様が折角自分を犠牲にしてまで作ってくれた機会だったのに、結局会うどころか、声も聞けずに戻ってきてしまった。申し訳無さ過ぎて、何て答えたらいいのか分からない。
「リナ。僕がどこへ行くか知っているかい?」
黙ったまま泣き続ける私に、エドワルド様は女の人みたいに綺麗な手でそっと私の涙を拭ってくれながらそう訊いた。
「ハイランディア侯爵領にある、小さな神殿だよ」
……えっ。
驚いて目を見張ると、エドワルド様は大きく頷いた。
「近々、支援が必要な異国の民を受け入れることになっていて、人手が足りないと嘆いていたらしいから、丁度良かった。敷地に広い薬草畑があってね。気候も良くて、それに近くにはそこそこ大きな街がある。いいところだよ。リナも落ち着いたら、いつでも遊びにおいで」
エドワルド様の指の動きが間に合わないぐらい、涙が溢れ出して止まらない。
「……エドワルド様。私、約束を守りましたよ?」
すると、エドワルド様はすまなそうに眉尻を下げた。
「ありがとう、リナ。辛かっただろうに。ごめんね、あんな約束をさせて。でも、それが、誰の為にもなると思ったんだ」
エドワルド様の言葉を肯定するように、何度も頷く。
私は、城の修復工事現場で、エドワルド様とある約束をしていた。ファリス様に、城下町へ連れて行ってもらえるよう協力する代わりに、これだけは守るように、と。
――例えアデルハイドさんに会っても、一緒に連れて行ってくれと言わない事。そして、アデルハイドさんに何と言われようとも、決してテナリオについて行かない事。
だから、どんなに心の中で願っていても、決して連れて行ってくれとは言わなかった。言えないと思っていたから、お別れを言うだけだと約束していたから、アデルハイドさんに出来ない事を無理強いせずに済んだ。
もし、あの場で一緒に連れて行ってとごねていたら、ダイオンさんの機嫌を損ねることになっただろう。何より、もしギルドでそんなことを言って騒いでいたら、王子殿下や宰相閣下でも誤魔化しきれないほどの大騒動になっていたと思う。
エドワルド様は、きっとそれを全て見越した上で、私の望みを叶えてくれたんだ。
「聞いたよ。リナに、身分と職務が与えられたって」
エドワルド様は私の手を取ると、包み込むようにキュッと強く握りしめた。
「改めて言うよ。僕は、リナで良かったと思う。……ううん、リナでなければ駄目だった。だから、自信を持って」
涙で、エドワルド様の表情が見えない。ただ、いつも私を癒してくれた手の温もりが、手から心へじんわりと沁みていった。