61.泣かせたの
これまで、私は自分の家族に対しても、あまり自分の本心や願望を口にしたことはなかった。それは、大抵小馬鹿にされたり否定されたりという嫌な思いをした経験が積み重なって、いつの間にか自分の本心を曝け出すことに臆病になっていたからだと思う。
……い、言っちゃったよ。
ソファの背もたれを掴んで叫んだ格好のまま、顔の筋肉が強張っていくのを感じた。全身から温い汗が噴き出して、体温が一気に冷えていく。
「……アデルハイドに? 一緒にとは、テナリオへ、か?」
瞬きを繰り返したファリス様の顔から、みるみる表情が削げ落ちていく。
「馬鹿か、お前は」
……何でそこで、アデルハイドさんと同じことを言うんですか?
「もしかして、アデルハイドにもそう言ったのか?」
そう訊かれて、きっぱりさっぱりお断りされた苦い記憶が甦り、思わず固まってしまう。
「駄目だと言われただろう」
事実だから否定できずに微動だにしない私を、ファリス様は鼻で笑った。
「だろうな。だから泣いていたのか」
ぐっ。ファリス様と会った時には涙は止まっていたのに、何故バレている。
「泣いてなんかいません」
「嘘を吐くな。目も鼻も赤かったし、第一化粧が落ちてしまっているから分かる」
そうか、そうだったのか。鏡を見ていないから、自分が今どんな酷い顔になっているか全然気が付いていなかった。
「……あのな、リナ。アデルハイド本人が駄目だと言っているのに、お前がついて行きたいと言ったところでどうにもならんだろう。諦めろ」
「でもっ。リザヴェント様との婚約を解消して、それからちゃんと改めてもう一度……」
「そういう問題じゃない」
まるで横っ面を叩くみたいなファリス様の厳しい口調に、言いかけていた言葉が喉の奥に引っ込んだ。
「……お前、よりにもよって、何故一番危険な道を選ぶんだ?」
ファリス様は、がっくりと項垂れると、悩ましげに額に手を当てながら顔を上げた。短髪でこの色気なら、長髪だっただらどれほどの威力があっただろうと恐ろしくなる艶やかさだ。
「魔族の国と国境を接する土地がどれだけ危険か、お前もよく知っているだろうが」
そう言われれば、確かに魔族の国に近づけば近づくほど治安も悪くなり、人間が暮らす街や村にも普通に魔物が出現していた。でも、魔族の国でならともかく、そんなに額に青筋を浮かべて叱られるほど、人間の国で危険な目に遭ったかなぁ。切実に命の危険を感じたのは、盗賊に襲われて一人で逃げ込んだ森で迷った時くらいだったと思うけど。
「……その顔を見ると、危機感は全く無いな。まあ、俺達ができるだけ危険な目に遭わせないようにしていたから、仕方がないのかも知れないが」
ファリス様は大きく溜息を吐くと、不意に長い脚で素早く間合いを詰めて来た。後退りしても、それほど広くはない執務室の中で逃げおおせる訳がない。呆気なく、すぐに壁際に追い詰められてしまった。
「……リナ」
ファリス様は、私が背を預けている壁に両手をついた。所謂、壁ドンというやつだ。あっという間に顔の両サイドを塞がれて、逃げ道を断たれてしまう。
「悪いことは言わん。そういう馬鹿な考えは捨てろ」
「……でも」
「城での暮らしに疲れたか? 貴族のしきたりに馴染めないのなら、地方の領地に別邸を構えてやるから、そこでのんびり暮らせばいい」
「そうじゃなくて、私は……」
ああっ、もう。何で分かってくれないんだろう。城での生活が嫌だから出て行きたいとか、そんな理由じゃないのに!
息がかかりそうなほど至近距離にあるファリス様の、吸い込まれそうなほど綺麗なエメラルドグリーンの瞳を、渾身の力を込めて睨みつける。
「アデルハイドさんと一緒にいたいんです!」
そう言い放つと、ファリス様の目が、これまで見たこともないくらい見開かれた。
「……な、……んだと?」
唇を戦慄かせて苦しげにつぶやいたファリス様は、いきなりガックリと頭を伏せた。その拍子に、ファリス様の頭頂部が私の額にガツンとぶつかり、目の前に火花が飛ぶ。
「……っ、すまん! 大丈夫か?」
片手で自分の頭頂部を押え、もう片方の手で私の額を撫でながら、慌てふためくファリス様。
……まさか、反抗的な弟子に腹が立って、わざと頭突きかましてきた訳じゃないですよね?
そう涙目で訴えかけると、ファリス様は何度も「わざとじゃないからな」と弁解しながら、しつこいぐらいに私の額を撫でた。
「……しかし、リナがアデルハイドを?」
まじまじと顔を見つめられながらそう問われると、急に恥ずかしくなってきて、顔が痛いくらいに熱くなってきた。
すると、私の赤面が伝染したように顔を赤くしたファリス様は、小さく舌打ちをすると、いきなり回れ右をして怒鳴った。
「とにかく、俺は認めんからな!」
何故か、結婚相手を連れてきた娘に言うようなセリフを吐くと、ファリス様はソファに蹴りを入れた。重量感のあるソファが動くくらい、強力な蹴りだった。
……っていうか、そもそも、どうしたいのか言ってくれって言ったのはファリス様なのに。そんなに怒って反対されるんなら、正直に言ったりしなきゃよかったな。
心配しなくても迷わず自分一人で部屋まで帰れるというのに、ファリス様は頑として首を縦に振らなかった。
ファリス様自身はこの後、騎士団の重要な会合があるので代わりの者に送らせると言い張り、結局私は顔なじみの騎士さんに付き添われて部屋まで戻ることになった。
部屋の近くまで来ると、廊下をうろうろするハンナさんの姿が見えた。
おや。これはきっと、王女様が突然訪ねて来て、部屋に戻って来ない私をハンナさんが待ち侘びているというパターンだ。
「リナ様!」
私が戻ってきたことに気付くと、ハンナさんは泣きそうな表情を浮かべて駆け寄ってきた。
「すみません。こんなに遅くなるつもりはなかったんですが」
「いえ、そんなことより、早くお部屋へ」
急かされて、送ってきてくれた騎士さんに短くお礼を言うと、部屋に急ぐ。
きっと王女様は、国王陛下が退位されることや、苦手なお兄さんが国王陛下になることなんかを私に愚痴りにきたんだろう。
そんな想像をしながら部屋に入ると、待っていたのは王女様ではなくて、王女様が密かに恋慕う、私の偽装婚約者様だった。
「……お久しぶりです」
内心の動揺を悟られないだろうかとドキドキしながら挨拶をする。
「随分と長い散歩だったな」
腰かけていた椅子から立ち上がると、リザヴェント様はこちらに歩いて来ようとして不意に足を止める。綺麗な顔に浮かべていた微笑が苦しげに変化し、ローブの胸元を掴んだ手に力が入るのが分かった。
……あ、そうか。
リザヴェント様は、何故かゴテゴテに飾り立てて原型の無くなった私には無反応だ。訓練着の時も、見慣れたのか最近はそれほど酷い反応は示さない。一番いけないのは、今ぐらいのナチュラル系貴族令嬢の格好をしている時だ。
「リザヴェント様……」
「心配ない。すぐに落ち着く」
案じるように駆け寄るハンナさんを押しとどめると、リザヴェント様は涙目になりながら何度か深呼吸を繰り返した。
何だか、その姿がいじらしくて、……つい、絆されそうになってしまう。
いいや、駄目だ、駄目だ。こんな素敵な人が私との結婚を望んでくれているのにお断りするのは勿体ない、だなんて俗な考えは捨てるんだ!
「ハンナ。リナと二人きりで話がしたい」
呼吸が落ち着いてきたリザヴェント様にそう言われて、ハンナさんが小さく息を飲む。
「リナは私の婚約者だ。問題はないだろう?」
「……畏まりました」
ハンナさんは一礼すると、お茶の支度をしていた他の侍女さんを促して部屋から出て行く。
二人きりになると、室内はピンと張りつめた空気に包まれた。
「聞いたか? 国王陛下が退位されることを」
「はい」
「これで、我々が魔王討伐などという無謀な旅に出る必要も無くなった。王子殿下が王位を継がれることになり、エクスエール公爵は早々に引退して、シザエルではなくその弟が家督を継ぐことになるだろう」
「……そうなんですか」
シザエル、可哀想に。自業自得とはいえ、王女様に振られ、神託の少女――つまり私に拒否され、挙句に侯爵家まで継ぐことができないなんて。
「王命は、表向きは継続したままということになる。神託に言われている危機が過ぎたという確証はない、と不安に思っている人々が多いのも確かだ。だが、もうリナが危険な旅に出る必要はない」
「そうですか。安心しました」
答える自分の声が白々しい。すみません、リザヴェント様。そのお話、さっきすでにファリス様から全部聞いています……。
――そのまま、沈黙が落ちる。
言わなきゃ。ちゃんと自分の気持ちを話して、リザヴェント様と決着をつけなくちゃ。
そう思うのと裏腹に、伏せた視線がどうしても上げられない。いっそ、このままリザヴェント様帰ってくれないかな、なんて弱気な私が心の中で呟く。
「リナ」
突然、名前を呼ばれて、肩が跳ねるくらい驚いてしまった。
「は、はいぃ」
情けない返事を返してしまった私が可笑しかったのか、リザヴェント様が吹き出し、喉を鳴らして笑いだした。
「本当に可愛いな、リナは」
「へっ……」
思わず顔を上げると、リザヴェント様はびっくりするぐらい甘い笑顔を浮かべていた。それはもう、見ていて泣きたくなるぐらいの飛び切りの笑顔で、思わずぼうっと見入ってしまう。
「改めて、リナに問いたい。私の妻になるつもりはないか?」
……反則だ。今まで強引に振り回されてきたことなんてどうでもいいって思えるくらい魅力的な笑顔でそう尋ねられたら、フラッと靡いてしまいそうになるじゃないか。
打算的な私が、心の中で黒い笑みを浮かべる。
――いいじゃない、このまま絆されたって。だって、こんな最高にいい条件の人があなたを好きになってくれるなんて、もう二度と無いよ。第一、アデルハイドさんがあなたを受け入れてくれるなんて保証はどこにもないんだし。このまま、侯爵夫人の座に収まったほうがいいんじゃないの?
…………えええい、駄目だ、駄目だ! そんな打算的な考えで、リザヴェント様の純粋な気持ちを弄んじゃいけないんだ!
渾身の力を込めて邪念を追い払うと、首を横に振る。
「……そうか」
気の抜けた表情で、溜息交じりにそう呟いたリザヴェント様は、フッと口元に自嘲気味な笑みを浮かべた。
「ハンナから、リナが婚約指輪を受け取らなかったという報告を聞いた時から、覚悟はしていた」
「えっ……」
「いや。そのずっと前から、何となく感づいていた。認めたくないと目を逸らしていたが、やはりそうだったか」
リザヴェント様は天を仰ぐと、長い紫色の髪をかき上げた。
「私の望みは、リナが幸せになることだ」
ズン、と胸に痛みが走り、鼻の奥がキュンと熱くなる。
「しかし、私ではリナを幸せにはできないのだというのなら、諦めるしかないな」
……ちょ、ちょっと。ええっ、待ってください、リザヴェント様! どうしてそんなに諦めのいいことをさらりと言っちゃっているのに、……な、泣いているんですかっ!
リザヴェント様の切れ長な目の眦に、何やらキラッと輝くものが見えた。
「あ、あの……」
……わ、わわ、私が泣かせたのおっっ!?
オロオロすることしかできない私の目の前で、リザヴェント様は天井を見上げながら鼻を鳴らしている。国随一の魔導師で、冷静かつマイペースなリザヴェント様が泣いている。そのあまりのギャップに、これは夢かと現実逃避したくなった。
「……諦めるしかないのだな」
ちょっと、それはもしかして、泣き落としですかっ!? そういう駆け引きもできるんですね。いや、もしかしてそれは計算ですか、天然ですか。……天然ですね、きっと。
……ていうか、私の方が泣きたいんですけど。