60.私にできること
すれ違う貴族令嬢達や侍女さん方からの冷たい視線に晒されつつ、ファリス様に伴われて副団長の執務室に辿り着くと、いつかの少年騎士がお茶を淹れてくれる。ソファに座ってその様子を眺めていると、不安定に揺れていた心がようやく落ち着いてきた。
少年騎士が一礼して執務室を出て行くと、向かい側に座ったファリス様がさり気なく問いかけてきた。
「泣いていた原因は、アデルハイドか?」
「……え?」
「聞いたんだろう? あの男が、この国を出るという話を」
グラッと身体が揺れそうになる。どうして、何も言っていないのに、ファリス様にはすぐにバレてしまうんだろう。トライネル様の時もそうだったし、私ってそんなに分かりやすいのかな。
視線を伏せて、手にしたカップに残るお茶の水面を眺めながら、このままファリス様にアデルハイドさんに対する気持ちをぶっちゃけようか、それともはぐらかして誤魔化そうかと逡巡していると。
「リナはあの男に随分と懐いていたからな。いなくなると聞いて、ショックだっただろう。確かに、寂しくなるな」
……あれ? ああ、別にバレていた訳じゃないんだ。
内心、ホッとため気を吐きながら頷くと、ファリス様は長い腕を胸の前で組んで、背もたれに身体を預けた。
「まあ、どちらにしても、あの男はそう遠くないうちに城からは去っていただろうが」
ファリス様の言う通りだ。王命を果たしたら、アデルハイドさんがこの城に留まる理由なんてない。貴族家の養子になる話がお流れになったのなら、褒美を貰ってすぐにおさらばだ。
「あの、そのことなんですけど。国王陛下が退位されるって本当ですか? 王子様が王位を継承されるってことは、私達はもうお役御免ってことでいいんですよね?」
すぐに肯定の返事が返ってくると思ったのに、予想に反してファリス様は思案するように低く唸った。
「お役御免か。……それとは少し違うな」
「えっ……? でも、アデルハイドさんが他所の国に行けるってことは、王命を果たしたって認められたからじゃないんですか?」
「アデルハイドは、魔族と戦う為にテナリオへ行く。あの男が祖国の地を奪い返し、復興を成し遂げるということは、ひいては魔族の力を削ぎ、魔族による我が国への脅威を削ぐことにもなる」
「……じゃあ」
私達はまだ、あの神託から解放されていないってこと? 王子様は、ヴァルハミルを倒したことで、私達は王命を果たしたって言ってくれていたのに。
「確かに、クラウディオ殿下は、もう俺達は王命を果たしたと思っておられる。だが、そうは思っていない者も少なくない。国王陛下がその筆頭だった。もし、俺達が未だに神託にあるこの国の危機を救っていないとしたら、安易に解放するのは危険だ。魔王を倒してしまうか、或は一生この城に縛りつけておくべきだ、と主張する重臣さえいた」
「そんな……」
「その者達の不満や不安を抑える為に、殿下は神託をこう解釈されることにした。俺達は、全員が揃っていなくとも、それぞれが我が国を危機から救う為に何かを成し得る存在なのだと」
そう解釈することで、私達を『魔王討伐』という無謀な王命から解放してくれたのか。
「神託がどういう内容なのかが分かれば、こういう事態は避けられるのだが、神殿側は規則を盾に口を開こうとしない。まあ、殿下のこの方針に異議を唱えないということは、神官達も殿下のご判断が正しいと思っているからだろうな」
ファリス様は苦笑いを浮かべてそう言うと、不意に表情を引き締めた。
「勿論、アデルハイドがテナリオへ向かうのは、己の祖国の為、祖国の民の為だ。けれど、ハイデラルシア勢が魔族と戦い、その勢力を削いでくれるということは、我が国の利益にもなることだから、神託に添った行動だと看做される。それに、俺も、リザヴェントも、エドワルドも、これからも我が国の為に尽くす。どんな危機が訪れようとも、全力でこの国を守る。だから、魔王討伐などに行かなくとも、これまで通り己の務めを果たしていればいい」
……じゃあ、私は?
急に怖くなって、その言葉を声にすることさえできなかった。
そんな私の気持ちを読み取ったかのように、ファリス様はふんわりと笑顔を浮かべた。
「リナは、リナにできることをすればいい」
「私に、できること?」
一体、それって何だろう。剣を振るっても、魔物の牙から一時身を守れるくらいの腕しかないし、魔法を使っても、魔物の動きを一時封じるくらいの威力しかない。こんな私に、この国の為に一体何ができるんだろう……。
「例えば……」
そう言いかけて、ファリス様が口を噤む。
「えっ、何ですか?」
何か妙案が!? と期待しながら身を乗り出すと、ファリス様はやや躊躇いながらも口を開いた。
「子を産む、とか」
「…………は?」
「元気な子を産み、健やかに育てることも、我が国の存続と繁栄の為には重要なことだ」
つまり、少子化対策に貢献しろってこと? この国って少子化なの?
まあ、確かに魔族と戦うには人数も必要だろうけど、軍隊もない国に生まれ育った身としては、戦力の為に子を産めと言われると違和感を覚えてしまう。勿論、この世界では、魔族だけじゃなく、人間の国同士でも戦いは頻繁にあるらしいから、私が持っている感覚の方が非現実的なんだろうな。
「だから、このままハイランディア侯爵家に嫁いでも、何も気に病むことはない。……俺としては、不服だが」
「え?」
「いや、何でもない」
慌てたようにファリス様は誤魔化したけれど、不服だ、というファリス様の声はしっかり私の耳に届いていた。
うん、私もやっぱりそれじゃ良くないと思う。皆さんがそれぞれ自分の能力を発揮してこの国を守ろうと日々努力しているのに、私だけ結婚して子供を産むなんて、そんな普通の女の人でもできることだけしていればいいって訳にはいかない。
でも、私にできることって、一体何だろう……。
考えれば考えるほど、自分が出来そうなことがあまりに見つからな過ぎて悲しくなってくる。いっそのこと、このまま大人しくハイランディア侯爵家に嫁いだ方がいいんじゃないかとさえ思えてくる。少なくとも、侯爵家に仕える人達の心労を和らげることができるだろうし、後継ぎ問題も解決してあげられるかも知れない。
でも……。
「リナ」
気が付くと、ファリス様に何度も名前を呼ばれていた。ようやくそのことに気付いて意識と視線をそちらに向けると、ファリス様は悩ましげに眉を顰めた。
「正直、今後、リナがこの国でどういう扱いになるのか分からない。このままリザヴェントと結婚するのならいいが、……もし、そうしない道を選ぶというのなら、城を出てどこで暮らすかという問題が出てくる」
「……そうですね」
そうか。自分に何ができるのかと悩む前に、まずそこから解決しなきゃいけないのか。
少し目を見開いたファリス様は、前傾姿勢になると自分の太ももに肘を付き、指を組み合わせてそれをじっと見つめながら言葉を続けた。
「前の旅が終わった後のようなことにはならない。俺達がさせない。……だが、もしリナにこうしたいという思いがあるのなら、遠慮なく言って欲しい」
「えっ……」
でも、アデルハイドさんと一緒にテナリオへ行きたい、というお願いは、バッサリ斬って捨てられちゃったし。
……ん? でも待てよ。リザヴェント様との婚約をちゃんと解消して、ファリス様にお願いして一緒にアデルハイドさんを説得してもらえば、もしかしたら……。
「……例えば、だ。俺は次男だから、マジェスト侯爵夫人にはしてやれない。爵位も家格も、ハイランディア侯爵家とは比べものにならないほど劣るだろう。それでも良ければ、俺が受け入れてやってもいい」
…………は?
言われた言葉の内容が俄かには信じられず、何度も瞬きを繰り返す。
ファリス様は、前傾姿勢のまま眉間に皺を寄せて、上目遣いにこちらを睨んでいる。いやいや、目力が恐ろしく素晴らしいです。
そうか。ファリス様、そんなに私の行く末を心配してくれているんだ。何てありがたい。以前との扱いの差に、思わず目蓋が熱くなる。
「でも、きっともう、エクスエール公爵も私を利用しようとはしないでしょうし、そこまでしていただかなくても大丈夫です」
「…………そうか」
「ああ、でも、すぐにお城からは出ないといけないくなるんでしょうか」
「いや。身の振り方が決まるまでは配慮をしてもらえるだろうが、……リナ、お前、リザヴェントとの婚約まで解消するつもりなのか?」
「私の身を守る為の偽装だったんですから、その必要がなくなったのなら破棄するのが当然だと思うんです」
それに、アデルハイドさんへの気持ちに気付いてしまった以上、自分の気持ちを偽って結婚するなんてできない。
「しかし、リザヴェントはお前の為に……。いや、さっきあんなことを言っておいて、俺がこんなことを言うのもおかしいんだが」
「え?」
「彼は、リナを何としてでも魔王討伐などという無謀な旅に出させたくはないと、魔導師を取りまとめて王子殿下の支援に回った。あれが、陛下に王位を譲る決意をさせた決定打になったといっても過言ではない」
「え、でも、国王陛下は具合が悪くて、政務に支障をきたすから退位されたって聞いたんですけど」
「そんなもの、表向きの話だ。王子殿下を支持する者が少なければ、例え床に伏した状態でも政務を執り続けられただろう。それに、王女殿下を女王にと主張する勢力もいるからな」
リザヴェント様がぱったりと姿を見せなくなったのは、ハンナさんが言う通り、本当に忙しかったからなんだ。それも、私の為に……。そう思うと心が揺れそうになるけれど、そんな優柔不断なことでは余計にリザヴェント様に失礼になると、心の中で必死に首を横に振る。
「言っておくが、リザヴェントだけではない。俺やエドワルドも、騎士や神官の中で味方に引き入れられる者達を募って王子殿下を支援した。シザエルがリナに横暴な真似をしたことが知れ渡って、エクスエール公爵に批難が集中していたのもあって、思ったより多くの支持者を集めることができた」
そうなんだ。私の知らないところで、皆さん頑張ってくれていたんだ。でも、シザエルにあんな仕打ちを受けたことが結果としていい結果をもたらしたんなら、私も少しは役に立ったってことかな。
と言うことは、もしかしたら私達は、結果として、この国が内側から分裂し瓦解するのを防いだのかも知れない。王子様が言う通り、全員が揃っていなくとも、私達はそれぞれがこの国の危機を救える存在なんだってことになるのかな。
あの時、シザエルの前に立ち塞がったアデルハイドさんの頼もしい姿を思い出して、胸の中に熱いものが込み上げてくる。
……よし。ちゃんとリザヴェント様とのことに決着をつけて、改めてアデルハイドさんに、一緒に連れて行ってくださいって頼もう。ファリス様、私を一緒に連れていくようアデルハイドさんに口添えしてくれないかな。
ファリス様にお願い事をするなんて、少し前までは考えられないことだった。でも、最近はお互いにいい師弟関係を築けているし、きっと爽やかな笑顔で快く応じてくれるだろう。
と思っていたのに……。
「俺の事はともかく、リザヴェントとの婚約まで取り止めて、お前は一体どうするつもりなんだ?」
ファリス様の不穏な口調に、喉から出かかっていた言葉が詰まる。
「例え、エクスエール公爵が手を出してこないとしても、世間知らずのお前がたった一人で渡っていけるほど、この世界は甘くない」
「え。でも、ザーフレムでは一人で……」
「領主の庇護下で、領主一族の所有する家で、国から生活費を支給されて、田舎の良心的な住民の支援を受けていたからこそ、成り立っていた生活だろうが。それも、たまたま三カ月、危険な目に遭わずに済んでいただけのことだ」
指摘されてたことは一々ごもっともで、返す言葉もなかった。
ファリス様の目つきも声色も、まるで以前の旅の時に戻ってしまったみたいに厳しい。こんなことになるのなら、一人暮らししたことありましたけどアピールなんてしなきゃ良かった。
「リナ。俺はお前のことを心配しているんだぞ。リザヴェントと結婚する気がないのなら、俺の所へ来い」
ローテーブル越しにファリス様の手が伸びてくる。思わずそれを振り払って、逃れるようにソファの後ろに回った。
小さく舌打ちをしながらファリス様が立ち上がる。
また言いくるめられ、思い通りにさせられちゃうのか!
という恐怖から逃れようと、さながら追い詰められた仔犬が必死で吠えるみたいに言い放った。
「……私、ついていきたいんです」
「は?」
「アデルハイドさんに、ついていきたいんです!」