6.出会いは突然に
……みんなには内緒。理奈ちゃんだけに教えてあげる。私ね、なるみ君と付き合うことになったんだ。
衝撃のあまり息をすることさえ忘れて目を見開いている私の前で、小学五年生のマリカは天使のような笑みを浮かべている。
小学校一年生からずっと密かに想い続けていた初恋のなるみ君を、転校一週間目のマリカにあっさりとかっさらわれたあの時の衝撃は、何年経っても忘れられない。そう、今でもこうやって夢に見て泣いちゃうくらい。
肩を揺すられて目を開ければ、ハンナさんが心配そうにこちらを見下ろしていた。
「大丈夫ですか? 随分とうなされていましたが」
「ちょっと悪い夢を見ただけです。ごめんなさい、心配かけて」
目元を拭いながら身体を起こし、小さく溜息を吐く。
あの失恋からずっと、誰かを好きになったとしても、またマリカに持っていかれちゃうんじゃないか。そう思うとすっかり臆病になって、恋をしないようにしてきた。男の方から平凡な私を好きになって告白してくれるなんて奇跡も起こらず、常に華やかなマリカとは正反対に、恋愛に消極的な私の青春はとても寂しいものだった。
涙を洗い流すように顔を洗うと、鏡台の前に座った私の髪をハンナさんが丁寧に梳かしてくれた。
「髪、伸びましたね」
「はい。今では後ろで括ることもできるようになったんですよ」
こっちの世界に来た時、ショートボブだった私の髪は、今では肩より少し下くらいまで伸びている。ただ、元の髪型のまま伸ばし続けているので、そのまま垂らすととっても不恰好だ。
出会ったばかりの頃、短かった私の髪を見ては嘆いていたハンナさんは今、とても嬉しそうに髪にオイルのようなものを付け、両サイドを丁寧に編み込んでくれている。その結び目を後ろ髪と一緒に纏め、大きめのリボンで毛先を隠せば、他の女性よりずっと髪が短いなんてことはパッと見ただけでは分からない。
用意されていたシンプルなドレスに袖を通し、テーブルに並べられた朝食をとる。久しぶりに口にする城の一流料理人が作った料理は、唸るほど美味しい。
田舎暮らしの間、集落の奥さん達に教えて貰って、私もそれなりに美味しい料理を作れるようになったとは思っていたけど、やっぱりプロは別格だなぁ、と幸せに頬を緩めつつ思った。
三人兄弟の中で唯一の女の子だった私は、他の二人よりも家事を手伝うことが多かったので、自分では家庭的な方だと思い込んでいた。だから、この世界に来て、あまりにも何もできない自分に愕然とした。
水道を捻れば水が出、コンセントを差してスイッチを入れれば家電が動く元の世界とは違って、ここでは井戸から水を汲み上げて、火打石で火を熾して薪をくべなければならない。野菜と混ぜて炒めれば、なんて便利な調理ソースなんてものもない。
家事の手伝いなんて言っても、料理は専ら母の指示通りに炒めたり揚げたり配膳したりするだけだったから、いきなり野外で見たこともない野菜や生肉の塊を渡されて何か作れなんて言われても、ただ茫然とするしかなかった。
……本当に、足手まといだったよなぁ。
額に青筋を浮かべた騎士のファリス様と、口元だけ笑いながら鋭い眼光を飛ばしてくる戦士のアデルハイトさんに挟まれ、一から旅における料理の仕方を教わったっけ。
できた料理がどんなにまずくても、皆無言で食べてくれた。極限状態の中、どんなものでも食べられるものは食べないと身体が持たないからとはいえ、本当に申し訳ないことをしたと思う。今なら、あの頃と比べたらずっとマシな料理を提供できる。その自信はある。
満たされたお腹をさすりながらそんなことを考えていると、誰かが訪ねてきたようだった。応対に出たハンナさんが、戻ってきて告げた。
「リナ様。ファリス様が訓練場でお待ちしているとのことです」
……出た。騎士ファリス様。高飛車で自信家で、それも当然と言わざるを得ないほどの実力と容姿を兼ね備えた人物。そして、噂によると無類の女好きらしい。
え~? 旅の間、全然そんな女好きなんて素振り見せなかったよ? とその話を聞いて首を捻ったけれど、どうやら彼ほどのレベルの人だと、女性なら誰でもいいって訳じゃないらしい。
訓練場で待つってことは、早速剣の稽古をつけてやるってことだろう。折角着せてもらったドレスを渋々脱いで、持ってきた荷物の中から洗濯済みの訓練服を身につける。旅の間は、この上から皮や金属でできた防具を身につけていた。
そこではたと気が付く。愛用の剣を、自宅の壁に立て掛けたまま持ってくるのを忘れた。全く、リザヴェント様があんなに急かすからこういうことになる。
まあ、訓練場に行けば、訓練用の木刀も貸して貰えるだろう。それよりも、待たせれば待たせるほどファリス様の機嫌が悪くなるほうが怖い。
ついて来るというハンナさんに首を横に振って、私は記憶を頼りに訓練場へと向かった。
汗と泥の入り混じった臭いの籠る訓練場で、やけに目立つ人物が一人いる。同じような訓練着に同じ型の防具を付けているのに、長身でスラリと伸びた手足に洗練された身のこなしは、他の騎士達とは別格だ。
「お久しぶりです、ファリス様」
ご機嫌を損ねないように、努めて自然体で声をかけると、眩しいほどの金髪の持ち主が振り向いた。私に目を止めると、エメラルドグリーンの瞳が印象的な大きめの目がスウッと細くなる。
「田舎に引き篭もって、腕も鈍っただろう。俺が鍛えなおしてやる」
再会の挨拶もなしにいきなり近づいてきたファリス様は、訓練用の木刀を押し付けると同時に私の右の二の腕を掴んだ。
「……ん。筋肉は落ちていないようだな」
そりゃあ、毎日鍬で畑を耕していたからね。っていうか、二の腕を掴んだ手が胸にも当たったけど、ワザと? ……いやいや、不可抗力だよね? すみません、自意識過剰で。
「王命が下った以上、お前は前回以上に危険な任務に就くことになる。死にたくなければ、死ぬ気で己を鍛えることだ」
「はい」
死にたくなければ強くなるしかない。だから、前回の旅の間も、死なないために必死で剣や魔法の腕を磨いたし、知識だって身に付けた。
前回の旅は王女の救出が目的だったから魔物や魔族とは極力戦わない方向でいけたけれど、今回は魔王を倒す若しくは魔王軍のかく乱が目的だから、戦いがメインになる。
正直怖いし、死ぬのは嫌だし、何で私がって思う。でも、この世界では人間と魔族が存在していて、圧倒的な力を持つ魔族に人間はじりじりと住む土地を奪われ続けているらしい。だから誰かが命を張って戦わなければ、いずれ人間はこの世界から滅びてしまうかも知れない。元の世界に帰れない以上、他人事じゃない。それはちゃんと分かっている。
「厳しいな、ファリス。しかし、お前がそんなに真剣な顔をしているのは初めて見た」
不意に背後から、愉快そうに笑う、温かみのある低音の声が聞こえてきた。
「閣下」
驚いた表情のファリス様につられるように振り返った私は、そこに立っている人物を見た瞬間、まるで落雷に打たれたかのような衝撃を受けた。
長身のファリス様よりやや小柄でスラリとしているのに、威風堂々たる空気を纏っている美丈夫がそこにいた。黒に近い焦げ茶色の髪を短めに整え、同じような色の瞳で興味深げにこちらを見つめている、日本人に近い顔立ちの超イケメンさん。
やばい、キュンキュンする。まじでヤバい。……まさか、一目惚れ?
小学校の入学式の日、なるみ君を初めて見た時に感じたトキメキと同じ。胸がドキドキして、顔がにやけて、小躍りしたくなるような幸せな感覚。
誰? 誰? この人。近衛騎士副隊長のファリス様が敬称をつけるってことは、それより偉い人ってことだよね。
「閣下、こちらは例の異世界から召還されたリナです」
今まで見たこともないほど真面目くさった表情でファリスが私を紹介すると、美丈夫はこちらの心臓を打ち抜くような極上の笑みを浮かべた。
「これは、お初にお目にかかる。私は先日将軍位を賜ったトライネル・アルファーヴだ。よろしく頼む」
……将軍!
まだ二十代後半に見えるのに、すでに軍のトップにいるなんて。やっぱり身体から滲み出るオーラが全然違う。不思議だ。何だか、ファリス様が小物に見える。
完全に浮かれ舞い上がっていた私は、トライネル様が訓練場の視察を終えて早々に立ち去った後、手合せでファリス様にコテンパンに打ちのめされてしまった。
……いくら防具を着けているからって、いきなり容赦無しなんて、酷い。