59.空の青さが
自分が今聞いた言葉が真実だと、認めたくなかった。けれど、厳しい表情でこちらを見下ろしているアデルハイドさんは、いつまで待っても「冗談だ」とは言ってくれなくて。
……そもそも、テナリオって何処? 一体、何の為にそこへ行くの? どうして急にそう決めたの?
聞きたいことだらけなのに、何も言えない。何か言おうとすると、口から嗚咽が漏れそうになってしまうから。
「テナリオ、はご存知ですか? 魔族の国と国境を接する王国の一つなのですが」
ダイオンさんにそう訊かれて、正直に首を横に振る。
以前、王女様を救出する旅の時に通った国なら、記憶にあるはずなんだけれど。覚えてないってことは、きっとあの旅では通過しなかった国の一つなんだろう。
「この間、軍部の会合で話が出ていただろう? 魔族の国と国境を接する国々が、反転攻勢に出ようとしていると。その中で、テナリオ王国に逃れていた亡国の王子が成長し、祖国の兵を集めて再起を図ろうとしている、と報告があったよな」
当然のようにそうアデルハイドさんに言われたけれど、恥ずかしながら全く記憶にない。以前の旅の思い出に浸りながら聞いていたせいで、知らない国の情報は右から左へ抜けてしまっていたんだと思う。
ポカンと口を開いたまま首を横に振ると、額に手を当てて溜息を吐いたアデルハイドさんは、料理長が持ってきた椅子にどっかりと腰を下ろした。
「その王子というのが、ハイデラルシア王国の第二王子ライルハイド様だ。客分として扱われ、テナリオでは随分と丁重にもてなされていたようだ。戦闘能力の高いハイデラルシアの兵力を取り入れようというテナリオの目論見だろうが」
なるほど。ハイデラルシアの人は平均的に他の民族より戦闘能力が高いのか。でも、まさか、皆が皆、アデルハイドさんみたいに強い訳じゃないよね……?
「ライルハイド様が、テナリオの合意の元に、数年前から生き残った祖国の兵を集めているという噂は耳にしてはいたんだが」
「ハイデラルシア村のことがなければ、アデルハイド様もすぐに駆け付けていたでしょうが」
「……まあな」
ダイオンさんが横から口を挿み、アデルハイドさんは少し不機嫌そうに唸った。
そうだよね。責任感の強いアデルハイドさんは、村の人達を放り出して、その王子様の元に向かうことなんかできなかったんだろう。
「でも、じゃあ、どうして今になってテナリオになんて行くんですか? アデルハイドさんがテナリオに行ってしまったら、村の人達はどうなるんですか?」
ノヴェスト伯爵が、婿養子にならずに異国へ行ってしまうアデルハイドさんの為に、ハイデラルシア村の人達を受け入れてくれるとは思えない。
ヴァルハミルを倒した見返りに、王女様を救出した時と同じようにたんまりと報奨金を貰うとして、それでいつまで村の人々が暮らしていけるの? アデルハイドさんが異国に行ってしまったら、渡したお金が尽きた後、誰が彼らを守るの?
「それは、リザヴェントが」
「……え?」
思ってもいない名前に目を瞬かせると、アデルハイドさんは嬉しいような困ったような、複雑そうな表情を浮かべた。
「ハイランディア侯爵領にある地方神殿が、受け入れてくれるそうだ」
リザヴェント様が……?
首を傾げると、アデルハイドさんは事の経緯を詳しく教えてくれた。
「実は、村の奴らの受け入れについて話が拗れて、ノヴェスト伯爵家との話し合いが暗礁に乗り上げていたのさ。その情報が、宰相閣下を通じてリザヴェントの耳にも入ったらしい。どういうことだと、こっちの詳しい事情まで洗いざらい吐かされちまった。挙句、何故もっと早く相談しないのかと怒られるし、踏んだり蹴ったりだ」
「怒られて当然です」
つい、応じる口調にも腹立たしさが滲み出てしまう。
全く、リザヴェント様の言う通りだ。一人で全部抱えて悩んでいないで、もっと早く頼っていれば良かったんだ。せっかく、この国で身分も地位も高い仲間ができたっていうのに。
「リザヴェントも快く引き受けてくれたし、ハイランディア侯爵領の神殿なら安心できる。リナも、時々でいいから様子を見に行ってやってくれないか。侯爵夫人が気に掛けてくれているというだけで、あいつらにとっては心強い後ろ盾になるからな」
期待に満ちた笑顔を浮かべるアデルハイドさんに、ズキッ、と心が激しく疼いた。
アデルハイドさんは、当然のことのように、私が侯爵夫人になるものと思い込んでいるんだ……。
そう思われていることと、その期待に恐らく応えられないこと。その両方が私の心を押しつぶしそうになる。
「自分で生計を立てられる力がある者は独立させる。世話になるのは、身寄りのない年寄りや、自立できない女子供だけだ。できるだけ早く祖国の地を魔族から奪い返し、復興を成し遂げて迎えに来る。それまで、あいつらのことを頼むな?」
真剣な表情で顔を覗き込まれて、遂に胸の痛みと苦しさが限界を超えて溢れ出した。
「ちょ、……お前、何で泣くんだよ」
戸惑ったようなアデルハイドさんの声が揺れる。
「嫌ならいいんだぞ。無理にとは言わん。貴族のご婦人というものは、それなりに忙しいものだからな。だから……」
「……がう」
違う、違う、違う! そうじゃない。私が泣いているのは、そんな理由じゃなくて……!
嗚咽交じりに噛みつくように反論したけれど、聞こえなかったらしい。
「何だ? 何て言ってんだ。聞こえねぇ……」
私の言葉を聞き取ろうと更に顔を寄せてきたアデルハイドさんの首に必死で手を伸ばすと、縋りつくようにして思わず叫んでいた。
「私も一緒に、連れて行ってくださいっ……!」
「……リナ」
優しく名前を呼ばれる。
必死でアデルハイドさんにしがみ付いていた私は、その声を聞きながら、その時ようやく自分の本当の気持ちに気付いた。
リザヴェント様とは結婚できない。だって、旅の仲間で魔法の師で、私の為に色々と心を砕いてくださった恩人で。でもそれ以上の感情を持つことはできないから。
一人でザーフレムの田舎に引っ込むこともできない。だってもう、人と寄り添う温かさを知ってしまったから。
優しく私の背を撫でる大きな手。そのかけがえのない温もりを知ってしまったから。
……そう。私がいたいのは、この人の傍だ。
「リナ」
不意に、私の名を呼ぶ声の質が固くなる。背を撫でる手の温もりが消え、しがみ付いていた両手が手首を掴まれ引き剥がされる。そのまま、押し返されるように距離を取られた。
驚いて目を瞬かせると、目に溜まった涙が零れ落ちてぼやけた視界が鮮明になる。
その先にあるアデルハイドさんの空色の瞳は、これまで見たことも無いほど冷たく光っていた。
「何言ってやがる。馬鹿か、お前は」
アデルハイドさんの視線が、表情が、声が、全てが私の心を抉った。
「連れていける訳がないだろうが」
何故、アデルハイドさんにあんなことを言ってしまったんだろう。
だって、私はまだ公式的にはリザヴェント様の婚約者なんだから。アデルハイドさんが、大切な旅の仲間の婚約者を奪うなんて真似、するはずないのに。
本当に馬鹿だ、私って。アデルハイドさんの言う通りだ。
「アデルハイド様。その言い方は……」
「おい、いくら何でも酷過ぎるんじゃないか。せっかくお嬢ちゃんがいじらしいことを言ってくれたっていうのに」
すごく遠いところから、ダイオンさんと料理長の声が聞こえる。
「……いえ、いいんです。すみませんでした」
喉の奥からせり上がってきそうな物凄く熱い塊を飲み込んで、無理矢理笑みを浮かべる。涙は止まらないし、口元がヒクヒクと痙攣して、とんでもなく無様な笑みになってしまったけれど、そうやって誤魔化すしかなかった。
アデルハイドさんにとって、私は旅の仲間でしかなかった。
この城に戻ってきたばかりの頃は、仲間と思って貰えていたことが嬉しかった。でも、いつの間にかそれでは満足できなくなっていただなんて。
今、傷心の私にできることは、よろめきながら立ち上がり、部屋まで送るから待てと言われていた言葉を無視して、その場を立ち去ることだけだった。
厨房裏のドアを出ると、裏庭から見上げた空の青さが眩しかった。それはまるで、さっきまで見ていたアデルハイドさんの瞳の色にそっくりで、そう認識したと同時にまた涙が溢れてきた。
……一体、私は何を期待していたんだろう。
まさか、アデルハイドさんが私をリザヴェント様から奪って、一緒に連れて行ってくれると思った? そんな訳ないじゃない。
苦笑しながら、ポケットからハンカチを取り出して涙を拭う。そして、この場所でアデルハイドさんと再会した時も、この裏庭で泣いていたことを思い出して、さらに目蓋が熱くなった。
部屋に戻ろうと裏庭から城内に戻って歩いていると、前方で交差する廊下を通り過ぎようとした数人のうち、一人がこちらを見て驚いたように足を止めた。
「……まさか、リナ?」
一緒にいた人達に一言二言話すと、ファリス様は長い脚であっという間に駆け寄ってきた。
「やっと、リナのドレス姿を見ることができたな。こんなところで何をしているんだ?」
爽やかにそう微笑んだファリス様だったけれど、すぐにその笑顔が消えて厳しい表情を浮かべた。
「どうした。何があった?」
そう問いながら、ファリス様の視線が私を素通りしてその先を見据える。
何だろう? とその視線を追うように背後を振り向いたけれど、そこには誰の姿も無く、ただ何の変哲もない廊下が伸びているだけだった。