58.行き場所を探して
私が昼寝をしている間に婚約指輪を持ってやってきた日以来、リザヴェント様はぱったりと姿を見せなくなった。
最初は、指輪を素直に受け取る自信が無くて、リザヴェント様が来ないことに内心安堵していた。けれど、時間が経つうちに段々と不安を感じるようになっていた。もしかしたら、私がすぐにハンナさんに差し出された指輪を手に取らなかったことで、リザヴェント様の心を傷付けてしまったのかも知れない。
いやいや、きっと忙しくて会いにくる時間が取れないだけだ。大丈夫、大丈夫。
そう自分に言い聞かせるものの、やっぱり不安な気持ちは消えない。
ハンナさんにそれとなく様子を訪ねると、困ったような表情で「お忙しいのでしょう」と言われた。……そうだよね。本気で結婚する気のない私が、リザヴェント様が会いに来てくれないからってヤキモキするのはおかしいよね。
侯爵夫人になる為の授業で、一日がまったりと過ぎていく。剣や魔法の指導も受けなくなって早半月以上が経つ。これでやっぱり魔王討伐に行かなきゃならなくなるんだったら、こんなことしてる場合じゃないんだけど、と思いつつ、叱られながらダンスを踊っている。
でも、リザヴェント様が訪ねて来ないのには、ちゃんと理由があった。
それに気付いた時には、もう、私の知らないところで全てが終わり、そして動き出していた。
――国王陛下が退位された。
知らせを持ってやってきたアンジェさんの口からその言葉を聞いた瞬間、耳を疑った。
「え、どうして急にそんな……」
狼狽えながら、脳裏を過るのは陰謀の二文字だった。このままじゃ王位を継承できないと焦った王子様が、自分を支持してくれているトライネル様達軍部の協力を得て、国王陛下に退位を迫ったんじゃ……。
「魔族の襲撃以来、御心労のせいで持病が悪化されていたようです。このままでは政務に支障をきたす、とご決断されたそうですわ」
何だ、そんな理由があったのか、と一先ず胸を撫で下ろす。
「じゃあ、次の国王陛下は……?」
「勿論、クラウディオ殿下です」
アンジェさんからその答えを聞いて、盛大に安堵の溜息を吐く。
良かった。侍女さん達の話を聞いていると、何だかきな臭い雰囲気が漂っていて心配していたけれど、平穏に王子様へ王位が継承されたんだ。心配して、何だか損した気分だ。
ということは、魔王討伐の話もこれで無くなったってことでいいよね。王子様は、私達が魔王討伐に出るのを反対していたんだし。城を襲った魔将軍を倒したことで、私達はすでに王命を果たしたと看做されて、お役御免になるんだよね。
そう思って思わず頬を緩めた時だった。
不意にパタンと音がしてそちらに視線を向けると、テーブルの向かい側に座っていた教師が経済学の分厚い教科書を閉じ、その上に手を置いたまま、目を閉じて小さく溜息を吐いた。
「今日はここまでにいたしましょう」
椅子を引いておもむろに立ち上がる教師につられるように、思わず席を立つ。
「ありがとうございました。では、また明日……」
いつものように貴族令嬢式の礼をしようとすると、失笑した教師は冷ややかな表情を浮かべた。
「次、が果たしてあるでしょうか」
「……え?」
何を言われたのか分からなかった。驚いて目を瞬かせる私に、教師は冷たい笑みを浮かべる。
「王子殿下が権力を掌握されたということは、あなたが政治的に利用される可能性が低くなったということです。つまり、ハイランディア侯爵家があなたを庇護する必要も、そう遠くないうちになくなるでしょう。それでも尚、あなたが侯爵夫人となるつもりがあるならば話は別ですが」
その冷たい視線に何もかも見透かされているような気がして、息が詰まった。
「まあ、またご縁があればお会いしましょう」
眼鏡の縁を指でツッと押さえると、教師は呆然とする私に背を向けて部屋を出て行った。
「申し訳ございません、リナ様。あの者がご無礼を」
慌てた様子でハンナさんが頭を下げる。
「……いえ、いいんです」
首を横に振ると、ハンナさんは困ったように眉を八の字にした。
「彼は彼なりに、リナ様が侯爵夫人として成長してくださるのを楽しみにしていたようなのです。それなのに、まさかあのような捨て台詞を吐いていくなんて」
ハンナさんの言葉が胸に刺さった。
侯爵家の跡取りなのに、女性に興味を示さずに結婚する気配もなかったリザヴェント様。侯爵家にお仕えする人達は、ずっと気を揉んでいたに違いない。だから、私のような身分も無い上に出来の悪い女に対しても、それなりに期待してくれていたんだ。
なのに、私はずっと、騙し討ちだ、そんな気はないのに、絶対無理無理、だなんて思って、本気で取り組もうとして来なかった。きっとそれは、口に出さなくても態度で伝わっていたんだろう。
王命から解放されたら、私はお役御免。利用する価値もないだろうから、ハイランディア侯爵家に護って貰う必要も無い。その上、リザヴェント様の妻になるつもりもない私なんて、侯爵家の人々にとっては不要なんだ。……それも、当たり前か。
一瞬、ザーフレムの田舎で一人暮らしをしていたあの小さな家の暖炉が脳裏に浮かんだ。ずっと、いつかはまたそこへ帰るのかも知れないと思っていた懐かしい場所のはずなのに、何故かその光景は私をとても寂しく悲しい気持ちにさせた。
私は、これから一体、どうなるんだろう……。
侯爵夫人になる為の授業が突然お開きになったので、久しぶりに自室を出て城内を歩くことにした。
外の空気を吸いたいと理由を付けて出てきたけれど、本当は、とにかく誰でもいいから旅の仲間に会って、本当に私達が王命を果たしたことになるのか確認したかった。
私の部屋から一番近いのはアルデハイドさんの部屋だけれど、きっと今はそこにいないだろう。厩の裏で身体を鍛えているか、厨房の奥で酔っぱらっているか、……それとも、まだノヴェスト伯爵家への婿入り話が白紙になっていなければ、その手続きで忙しいのかも知れない。
ファリス様は、騎士の訓練所か、副団長の執務室のどちらかにいるだろう。でも、騎馬の訓練で屋外の広場にいるかも知れないし、王族のどなたかの護衛にあたっているかも知れない。
リザヴェント様は、……魔導室の執務室にいるはずだ。でも、どんな顔で会いに行けばいいのか分からない。もう婚約者でいる必要はないのに、その話題をスルーして、王命について相談できるほど私は器用じゃない。
そうだ! エドワルド様に会いに行こう。きっと、エドワルド様なら、私が部屋から出られない間に起こったことを、分かりやすく説明してくれるに違いない。
そう思い立って、神殿に向かいかけてふと足を止める。
……そうだった。今日は訓練着じゃないんだ。
廊下の途中ですれ違った衛兵が、やけに丁寧な礼をしていったのを見て気付いた。と同時に、以前神殿で貴族令嬢に間違われ、アクシデントに見舞われた時のことを思い出す。
「どうしよう……」
立ち止まったまま、途方に暮れた私の脳裏に浮かんだ場所は、ただ一つだった。
「おっ。こいつは驚いた。随分久しぶりじゃないか」
厨房の裏口から入ると、こちらに背を向けて立っていた料理長が驚いたように目を丸くし、嬉しそうに表情を緩める。
「またお会いしましたね」
その向こうから顔を覗かせたのは、いつか西門で呼び止めて話をしたダイオンさんだった。黒髪に空色の瞳という、アデルハイドさんと同じ色合いに、思わず鼓動が跳ねる。
「お久しぶりです。すみません、お話し中だったのに」
明らかに、ダイオンさんと料理長は会話の途中だった。それも、気楽な世間話というよりは、どちらかというと深刻そうな雰囲気で。
「いえ、大丈夫ですよ。それより、今日は以前とは違う雰囲気で、とても可愛らしいですね」
「へっ……?」
目尻に皺を寄せながら微笑むダイオンさんのダンディーな雰囲気に、思わず顔が真っ赤になってしまう。可愛らしいだなんて、お世辞と分かっていても嬉しい。
「今日も、アデルハイドさんに会いに来られたんですか?」
「ええ、そうなんです。以前なら、この時間にはここに来れば大抵いらしたのですが、ここ最近はあまりお姿を見せないそうなんですよね」
「魔物の襲撃があった後ぐらいから、あまりここには来なくなったよ。二日おきに来ていた可愛い彼女が姿を見せなくなったから、ここにいる意味もなくなったのかねぇ」
「えっ! ……そんな彼女がいたんですか?」
料理長の衝撃の暴露が、ぐっさりと胸に突き刺さった。何ということだ。ということは私が指導を受けていた分、アデルハイドさんは彼女との貴重な時間を奪われていたってこと……?
「……もしかして、意味が通じていないのでは?」
「おいおい。あんたのことだよ、彼女っていうのは」
呆れたように笑われて、呆然自失から我に返ると、今度は自分でも訳が分からないくらい慌てふためいてしまった。
「かっ、……彼女だなんてっ、そんなのじゃないですっ!」
「分かってるさ。冗談だよ、冗談」
「フフ、真っ赤になって、可愛いですね」
おじさん達に翻弄されて、思わず涙目になる。
ああ、でも。アデルハイドさんがここにあまり来なくなったってことは、やっぱりまだノヴェスト伯爵家への婿入り話は継続中なんだ。わたしのせいで白紙になっちゃっていたらどうしようと思っていたけれど。……でも、そうかぁ。やっぱり、アデルハイドさん、結婚して貴族になっちゃうんだな。
さっきのとは違う意味で涙目になりそうなのを必死で堪えながら、料理長が引いてくれた椅子に腰を下ろす。ダイオンさんと向かい合う位置だ。
「でも、もう冗談でもそんなこと言っちゃいけないな。お嬢ちゃんには立派な婚約者様がいるんだから」
料理長の言葉に、鈍器で頭を殴られたような衝撃を受けた。
「そうらしいですね。一緒に王女様を救う旅に出ていた魔導師様だとか」
料理長どころか、城下のギルドに勤めているというダイオンさんまで知っているとは。
「しかも、侯爵家のご当主になられる方だとか。良いご縁談で何よりです」
「……はい」
思わず自嘲気味な笑みを浮かべそうになって、頷く振りをして俯く。その婚約話は最初から、王命から解放されるまでの偽装だった。そして、この後は多分……。
「なるほど。それならあの方も安心して……」
ダイオンさんが何か言いかけた時、突然背後でドアが開く音がした。
「リナ? お前、どうしてこんなところに」
その声に、胸がきゅっと締め付けられる。振り向くと、いつもの戦士用のシャツにズボンという格好のアデルハイドさんが、驚いたように目を見開いていた。
「この時間は、まだ勉強の時間だろうが。まさか、辛くなってとんずらしてきたのか?」
「違いますっ」
思いがけず会えた嬉しさと、からかわれた腹立たしさが混じって、気持ちに抑えがきかない。つい拗ねて口を尖らせてしまうと、近づいてきたアデルハイドさんは困ったように溜息を吐いた。
「まあいい。部屋に戻る時は送って行く。だが、俺はこいつと話があるから、それが終わるまでは待っていてくれ」
「今、ここで話をすればいいではありませんか」
突然、そう提案したダイオンさんのほうへ、アデルハイドさんは勢いよく振り返った。
「何だと?」
「リナ様に聞かれて困るようなお話ではありませんし、今後の事をきちんと説明してお別れするのが、大切なお仲間に対する礼儀というものではありませんか?」
「えっ……」
まるで、頭の中にもう一つ心臓ができたみたいに、鼓動が頭の中で鳴り響く。
――お別れする、って、どういうこと?
呆然としたまま何も言えない私の目の前で、アデルハイドさんは小さく舌打ちをすると、勢いよく頭をガリガリ掻くと、やがて射るような視線で私を見据えた。
「俺は、この国を出て、テナリオへ行くことに決めた」