54.こんな朝早くから
前の晩、眠いからと理由をつけていつもより早めにベッドに入った私は、明け方、まだ暗いうちに起きだした。
目覚まし時計もないのに起きられるかなと心配していたけれど、早く起きなきゃと気を張っていたせいか、夜中に何度も目が覚めた。お蔭で予定通り起きられたけれど、その代わりちゃんと眠った気がしない。これは昼間、侯爵夫人になる為の授業中に居眠りしちゃうんじゃないかと心配になったけれど、今はそんなことに気を取られている場合じゃない。
カーテンをそっと引くと、外は藍色の闇が薄くなりつつあった。昨夜、ハンナさんが部屋から出て行った後、こっそりクローゼットから引っ張り出してベッドに隠しておいた訓練着に着替える。髪も結ぼうとしたけれど、ヘアゴムなんて便利な物はなく、私がさっと結べるような適当な紐も見当たらなかったので、さっと手櫛で整えるだけにした。
そっと廊下に通じるドアを開けてみると、幸い人の気配はなかった。ドキドキしながら素早く部屋から出て、神殿へと向かう。
こんなに朝早いのに、もう働いている人がいる。洗濯物が入った籠を抱えていく人や、掃除道具を抱えて部屋を出入りしている人達。貴族達が登城してくるまでに、やっておかなきゃいけないことがたくさんあるんだろう。
静かに、けれど慌ただしく動き回る下働きの人達に見つからないように、ビクビクしながら廊下の角に背を着け、そっと向こう側の様子を伺っていた時だった。
「何をしている?」
「ひやっ!?」
不意に背後から声を掛けられて、文字通り飛び上がった。
振り向くと、戦士仕様のシャツにズボンという格好のアデルハイドさんが、愛用の剣を片手に立っている。
「今朝は随分と早起きだな。どこへ行くつもりだ?」
口元は笑っているけれど、目が笑っていない。もしかして、私が城から脱走しようとしているだなんて思っていないよね?
「その、……エドワルド様にお会いしたくて」
隠す必要も無いので正直に答えると、アデルハイドさんの目が大きく見開かれた。
「エドワルド、だと?」
「はい。でも、勉強とかダンスのレッスンとか、やらなきゃいけないことがたくさんあって、会いに行く時間が取れないんです。だから、その……」
「その様子では、あのハンナとかいう侍女には言ってないようだな。もし、お前が部屋を抜け出したことがバレたら、どうなるか分かっているのか?」
「あ、それは大丈夫です。私が戻る前に、ハンナさんが私の姿が無いことに気付いたら大騒ぎするかも知れないので、すぐに戻りますってメモを残してきましたから」
そう言うと、アデルハイドさんは眉間に皺を寄せ、腕組みをして何か低く唸ったけれど、何と言ったのかは分からなかった。
「アデルハイドさんこそ、こんな朝早くからどうしたんですか?」
「俺か? 俺は毎朝、この時間には起きて活動している」
……うっ。何か、「朝寝坊のお子ちゃまとは違うんだ」と言われているようで悔しい。
戦士らしい格好と剣を持っていることからして、どうやらアデルハイドさんはこの時間から身体を鍛えているらしい。なるほど。だから、昼間ずっと厨房の奥で酒を飲んでいても、あの強さを維持できていたんだ。
そうか。早朝トレーニングかぁ。そう言えば、元の世界でもスポーツ系の部活をしている子は朝練をやっていたなぁ。朝からあんなに動いて疲れないかなぁって思っていたっけ。……私も、やってみようかな。
そんなことを考えていると、アデルハイドさんが深い溜息を吐いた。
「分かった。神殿まで送って行く」
「え?」
「一人で行くのは不安だろう?」
ドキッと心臓が跳ねる。もしかして、アデルハイドさん、私が神殿の入り口で怖い目に遭ったことを知っているのかな。
実は、エドワルド様に会って話さなきゃという思いに駆られて、あの時の事をすっかり忘れていた。相当能天気だなぁと自分で自分に呆れてしまう。でも、このまま神殿に向かっていたら、通路の途中であの出来事を思い出して、立ち竦んでいたかも知れない。
「……あの、じゃあ、お願いします」
おずおずと頭を下げると、ニッと口の端を持ち上げて笑ったアデルハイドさんは、空いている右手を上げた。けれど、手を伸ばそうとして、途中でハッとしたように動きを止め、その手を更に持ち上げて自分の頭を掻いた。
あれ? ひょっとして、私の頭を撫でようとしていた? でも、今日は髪を複雑に結ってないどころか結んでもいないのに、何で……?
アデルハイドさんは、私が通ったことのないルートを慣れた様子で進んでいく。すると、誰にも遭遇することもなく、あっという間に神殿に通じる通路までやってきた。
何か用事がなければ部屋から出ない私とは違って、アデルハイドさんは城内を歩き回っているらしく、随分と城の構造に詳しくなっているようだった。それもこれも、不測の事態が起こっても自分の身は自分で守れるアデルハイドさんと、非力で方向音痴な私との違いだ。
アデルハイドさんが守衛に声を掛け、エドワルド様を呼び出してもらっている。
ひょっとしたらこんなに朝早くに押しかけるのは迷惑じゃなかっただろうか、と今頃になって心配になったけれど、神殿にはもう煌々と明かりが灯り、慌ただしく行き交う神官達の姿が廊下の向こうにちらちらと見えている。
「驚いた。一体、何があったんだい?」
神官衣をきっちりと着込み、寝起きの気配もないエドワルド様が急ぎ足でやってきた。
そうか、皆、こんなに朝早くから活動しているんだ。ファリス様も、午前中私が剣の指導へ行く時間には、すでに登城して他の騎士さん達に稽古をつけていたし。
取り敢えずこっちへ、と神殿の広間に付随して並んでいる小部屋の一つに案内される。
「リナが、お前に会いたかったそうだ」
アデルハイドさんにそう言われ、エドワルド様はぎょっとした表情を浮かべた。
「……そういう意味じゃないことぐらい分かっていますが、言い方に気を付けてくれますか? 仮にも、リナはもう婚約者のある身ですから」
「随分とつれない言い方だな」
「まさかとは思いますが、勘違いしていませんか? リナも、いくら旅の仲間だとはいえ、こんな時間に男性と二人で行動していたらどういう憶測を生むか、少しは考えなきゃいけないよ」
そう指摘されて、初めて自分の行動があまりに軽率だったことに気付く。
「すみません」
「そう怒ってやるな。何か知らんが、勉強やらダンスやら色々やる事が詰まっていて、お前に会いにくる時間が取れないんだそうだ」
そう私を庇ってくれるアデルハイドさんに、エドワルド様は眉を顰めた。
「勉強? ダンス? ……まさか、リザヴェントは本気でリナを妻に迎えるつもりなのかい?」
「……そう、らしいです」
そう答えると、エドワルド様は深い深い溜息を吐いた。
「困った人だね、あの人も」
「リナ。嫌ならはっきりと言わなきゃ駄目だぞ。今はまだ、ハイランディア侯爵家の権力に縋らなきゃならんとしても、元々エクスエール公爵に利用されない為の手段に過ぎなかったんだからな。好きな相手が他にいるのなら、そいつと結ばれるように協力してやるぞ」
アデルハイドさんに真正面から真剣にそう言われて、何故かとても切ない気持ちになった。
リナがそれでいいならそうすればいい、だなんて突き放すようなことを言われて、ああ、アデルハイドさんにとって私はそういう存在なんだ、と思っていたけれど、やっぱりちゃんと私のことを心配してくれているんだ。
「そうだよ、リナ。偽装だなんて背中を押すようなことを言って、僕も責任を感じている。リナがこのまま望まない結婚をして、貴族社会で苦労して病むようなことになれば、悔やんでも悔やみきれない。リナは、リザヴェントと結婚したいと本気で思っているのかい?」
エドワルド様にそう訊かれて、首を横に振るべきかどうか迷った。
だって、リザヴェント様は私には勿体ないくらいの男性で。ここで首を横に振ったら、まるで私がリザヴェント様を否定してしまうみたいで嫌だった。そうじゃなくて、ただ、侯爵夫人という重圧に耐えられるか不安で。でも、それってただ重圧から逃げているだけじゃないか。そんな理由で、果たしてリザヴェント様のお気持ちを踏みにじってもいいのだろうか。
何も言えずに固まった私に、左右から溜息が降り注ぐ。すみません、折角心配してもらっているのに。
「まあ、リナが嫌じゃないのなら、こちらがどうこう言う話じゃないけれど」
「えっ。あの……」
「まあ、取り敢えず、今はこの話はここまでにしよう。で、僕に会いに来た理由は?」
急に本題に移されて慌ててしまう。新たな神託については構わないとしても、私が間違って召喚されたんじゃないかって話は、エドワルド様以外にはあまり聞かれたくない。
「その……」
エドワルド様と二人で話がしたいだなんて、アデルハイドさんを追い出すようなことも言えず、困って視線を彷徨わせていると、それを察してくれたのかアデルハイドさんが溜息を吐いた。
「俺は席を外す。話が終わったら呼んでくれ」
「え?」
「部屋には、俺とエドワルド二人で送って行く。王命を果たす為に必要な話し合いをしていたと取り繕うには、その方が信憑性も高くなるだろう?」
「そうですね。じゃあ、話が終わったら声を掛けますよ」
エドワルド様が頷くと、アデルハイドさんは片手を挙げて部屋を出て行った。