50.立ち塞がる壁
「困った女だ」
困った奴だ、と言われ慣れてはいたけれど、その言葉にこれほど悪意を込められたことはなかったと思う。
立ち尽くす私の目の前で、シザエルが身を屈めて花束を拾い上げる。そして顔を上げた時、彼は見たこともないほど見下した目で、刺すように私を見下ろしていた。
「勘違いするなよ。私だって、お前のような女を妻にしたくはない。しかし、これは父の命令だからな。お前に拒否するという選択肢はない」
そう言うと同時に、再び花束が押し付けられた。というより、最早花束で叩かれたと言ったほうがいい。ドレスに覆われていない腕や首元に、チクッと痛みが走る。きっと、薔薇の棘が刺さったに違いない。
恐怖で身体が竦む。私は本当に、この人と婚約することになってしまうんだろうか。
もう決まったこと、ということは、エクスエール公爵が根回しを終えて、国王陛下の許可も得たってことなんだろう。つまり、リザヴェント様が打とうとしていた対抗策は間に合わなかったんだ。せめて、昨日のうちに私が決心していれば、先手を打てていたかも知れないのに。
ガクガク震える脚に力を入れ、真っ白になる頭で必死に考える。……とにかく、どんなことがあったって、この人を受け入れるのなんか真っ平御免だ。
薔薇に罪は無いけれど、こちらの拒絶の意志を伝える為に、思いっ切り床に花束を投げつける。床に跳ねて転がった花束は、シザエルの爪先に当たって止まった。
それを見たシザエルの顔がみるみる真っ赤になり、怒りで醜く歪んだ。
「お前、本当に私を怒らせたいのか」
というか、すでに怒ってるじゃないか。
旅のメンバーから怒られている時は、私の為を思って叱ってくれているという思いが伝わってきて、申し訳なさでいっぱいになったものだ。でも、このシザエルは、怒りに任せてこっちに危害を加えてきそうで、ただただ恐怖しか感じられない。
ふと、シザエルの顔から怒りの表情が突然消えると、不意にニヤリと意地の悪い笑顔が浮かんだ。
「私を拒否するのはいいが、果たして他に誰がお前を守ってくれるというのだ? 王命を果たせば、用済みとばかりにまた城から放逐される身だろうが」
ズキッ、と胸に痛みが走った。それは、リザヴェント様をはじめ旅の仲間が……、と反論する心の奥で、前回城から去る時に、誰一人として私の事を気に掛けてくれなかったという辛い過去が胸を過る。もしかしたら、全て終わった後、またあの時と同じように放置されるんじゃないか、という不安がみるみるうちに大きくなっていく。
「大体、神託がなければ、そもそもお前はこの城にいることさえできない下賤の者だ。それを、次期公爵家当主たる私が貰い受けるなどと、本来なら有り得ないことなのだぞ」
「……そんなの、結構ですから」
辛うじて、拒絶の言葉を絞り出す。この人と結婚するくらいなら、また元の田舎暮らしに戻った方がマシだ。
けれど、そんな強がりもシザエルは鼻で笑い飛ばす。
「ならば、覚悟しておくのだな。以前のような国からの保障も当てにするな。言っておくが、私はこの私をコケにした者を、只で許すほど寛容ではない。今後、今までの様にこの国で暮らしていけると思うなよ」
これは脅しだ。私を不安にさせて、自分の意に従わせようとしている。そう分かっているのに、不安に駆られて気持ちが揺らぐ。
王命を果たした後、また元の様にザーフレムの田舎に戻って暮らすことになるのか、それとももっと待遇のいい場所を提案されるのかも知れないと思っていた。けれど、シザエルとの婚約を拒否したら、エクスエール公爵の圧力で無一文で国内を彷徨うことになるか、国外に追放されてしまうことになるかも知れない。……若しくは、最悪、用済みになった私は秘密裏に始末される……、とか。
サーッと血の気が引いていく。
立っていられなくて、ストンとその場に座り込んだ私に、面倒くさそうに花束を拾い上げたシザエルは、ポイとそれを投げて寄越した。床の上に広がったスカートの上に、グシャグシャになった花束が転がる。
「何が自分にとって一番いいのか、よく考えておくんだな」
そう捨て台詞を残して踵を返したシザエルの足が止まったのが、視界の片隅に見えた。
「……何だ、貴様は」
「いえ。別に」
シザエルの問いに応じたその声に驚いて顔を上げると、そこには恐ろしく無表情なアデルハイドさんが立ち塞がっていた。
シザエルはあまり背が高い方ではないので、至近距離に立っているアデルハイドさんはまるで壁に見えるだろう。現に、首の角度からみてかなり見上げているようだ。
「どけ」
吐き捨てるようにそう言われ、すぐに大人しく脇に避けたアデルハイドさんは、素早く私のスカートの上から花束を拾い上げた。
「シザエル様、お忘れ物です」
「何?」
振り向いたシザエルの腕を掴むと、無理矢理その手に花束を握らせる。シザエルの表情が思いっ切り歪んだところをみると、アデルハイドさんは力を加減しなかったようだ。
「……っ。貴様、異国人とはいえ、この行為が何を示すのか分かっているのだろうな」
「勿論、存じております。しかし、これは自分ではなく、この場にいない仲間の代理としてやったことです」
「代理だと? フフン、それは一体、誰の事だ。誰が、こんな女とそういう関係だというのだ。馬鹿らしい」
「リザヴェントです」
しれっと答えたアデルハイドさんの前で、シザエルの表情が凍り付き、みるみるうちに青褪めていく。
「な、んだと?」
「明日にも婚約を発表する段取りだと聞いております」
愕然とした表情を浮かべたシザエルは、不意にわざとらしく大きな笑い声を上げた。
「また、よくもそのような作り話を咄嗟に思いつけたな」
「いえ、作り話などでは」
「嘘に決まっているだろう。リザヴェントが、この女と? そんな嘘、誰が信じるというのだ」
喉を鳴らして笑い続けたシザエルは、再びニヤッと気持ちの悪い笑みを浮かべた。
「……そうだ。貴様、確かノヴェスト伯爵の養子になるそうだな。だが、彼の伯爵は我がエクスエール公爵家と繋がりのある方だ。貴様のような者は養子に相応しくないと進言しておくことにしよう」
「どうぞ、ご随意に」
全く取り乱す様子もなく、恭しく頭を垂れながらも、アデルハイドさんは半端ではない威圧感を発している。それに気圧されたように、シザエルは床を蹴って部屋を出て行った。手に、グシャグシャになった花束を握ったままで。
「大丈夫か? リナ」
傍にしゃがみ込んで、心配そうに顔を覗きこんでくるアデルハイドさんの腕に、思わず縋りつく。
「アデルハイドさん、どうして……?」
どうして、養子縁組を破談にするという脅しに、勝手にしろなんて答えたのかと聞いたのに、アデルハイドさんは私の問いを違う意味に捉えたらしい。
「部屋に戻ろうとしたら、リナの部屋で何か異常が起きたようだったんで、覗いてみたのさ。それより、何故はっきりと、リザヴェントと婚約するのだと言わなかった?」
「だって、まだ宰相様の許可を得ていないって言っていたから。不確定なことを他人に言っちゃいけないかなって思って……」
「馬鹿か。こういう時は、不確定どころかハッタリでも堂々とかますもんだ」
そう言うと、アデルハイドさんは頭を撫でようとして、手を宙に泳がせた。きっと、私がいつもよりもずっと手の込んだ髪の結い方をしているから、崩れるんじゃないかと遠慮してくれたんだ。
「あの、……そのお話は本当ですか? リナ様とリザヴェント様が、婚約というのは」
シザエルが去った後、扉にしっかりと鍵をかけて戻ってきたハンナさんが、目をキラキラさせながら訊ねる。
「ああ。まだ正式にという訳ではないが」
「何ということでしょう!」
ハンナさんは、パッと満面の笑みを浮かべると、まるで十代の少女の様にはしゃぎ始めた。
「ああっ、遂にこの時がっ……! 亡くなられた旦那様も、さぞかしお喜びのことでしょう」
浮かれたように室内をウロウロし始めるハンナさんを後目に、アデルハイドさんは床に落ちた制服のブレザーを拾うと、その上に落ちていた薔薇の残骸を払い落とした。
「確か、リナがこの世界に来た時、この服を着ていたな」
こくっと頷くと、アデルハイドさんから渡された制服を受け取る。
……この世界に召喚されることがなければ、こんな怖い思いをすることも、将来どうなるかという不安に押しつぶされそうになることもなかった。きっと、普通に高校に通って、短大か専門学校に進んで、二十代は遊んで、三十になるまでには結婚して。そんな普通の未来が待っていたはずなのに。
そう思うと、ボロボロと涙が零れてくる。やっぱり駄目だ。制服を見ていると、考えないようにしていたことがどんどん胸の中に溢れてくる。
今頃、私はもう死んだことになっているのかな、とか。私が突然いなくなって、家族も友達も学校も、どれだけ大変だっただろうか、とか。もう二度と戻れないのだから、考えないようにしようと思っていたことが、堰を切ったように流れ出てくる。
何故、私だったの? 本当は、マリカだったんじゃないの?
「……カ」
もし、この世界に召喚されたのがマリカだったら。美人で器用で人気者のあの子だったら、どんな困難でも軽々と乗り越えられたはずだ。きっと、今回も。少なくとも、あんな悪意に満ちた言葉を浴びせられることはなかっただろう。
でも、私じゃ駄目なんだよ、やっぱり。一人では何もできなくて、仲間に随分と骨を折らせて、それでもやっぱり困難から抜け出せなくてまた迷惑を掛けて。こんな駄目駄目な自分が情けなくて嫌になる。
「駄目だな。こんな時、己の非力さを痛感させられる」
まるで私の心を読んだかのような言葉が、アデルハイドさんの口から洩れた。
驚いて顔を上げると、太くて長い指が私の涙を拭った。悲しそうにこっちをじっと見つめるアデルハイドさんの空色の瞳に、思わず吸い込まれそうになる。
ドキン、と心臓が跳ねた。
私の涙で濡れた手をグッと握り締めると、アデルハイドさんは不意に立ち上がる。
「すまないが、使いを頼まれてくれないだろうか」
ハンナさんにそう声を掛け、いろいろと指示を出しているアデルハイドさんの後ろ姿を見つめながら、何故か切ないような苦しさを感じた。
きっと、アデルハイドさんは泣いている私を見て、亡くなった妹さんのことを思い出したんだろう。幼い頃に祖国を失ったアデルハイドさんと妹姫は、私には想像もつかない苦労を重ねて来たんだろうな。
彼らがこれまで乗り越えて来た辛い過去を思えば、私の苦しさなんて屁みたいなものだ。だから、こんなことくらいで、いちいちへこたれてちゃいけない。
……強くならなくちゃ。この世界で生きていく為に。