49.もう、決まったことだから
いくらこの場で偽装婚約の話がまとまっても、ハイランディア侯爵家当主である宰相閣下のお許しを得なければいけない。それに関しては、リザヴェント様が責任を持ってちゃんと説得してくれるらしい。
「私としては、偽装でなくても構わないのだが」
「まだそんなことを。その異常過ぎる反応が治らない限り、あなたにリナを任せる訳にはいかないな」
まだ不服そうなリザヴェント様に、ファリス様は厳しい視線を送る。
「だが、私はザーフレムの若者にも、リナの事を幸せにしてやってくれと頼まれているのだ」
「一体、何時誰にそんなことを頼まれたんだ」
なおも言い募るリザヴェント様に、呆れかえったようにファリス様は溜息を吐く。
きっと、忘れ物の剣を取りに行ってくれた時に聞いたんだと思うけれど、誰だろう、そんな花嫁の父みたいな台詞を言ったのは。冗談でそう言ってくれるオジサン達には何人か心当たりはあるけれど、若者って一体……。
エクスエール公爵の企みに関しては、ひとまずこれで一安心として。
さて、問題は王女様だ。……はっきりと、リザヴェント様ご本人から気持ちを聞いてしまった上は、ちゃんと私から王女様に事の成り行きを説明しないと。
それにしても、主人公マリカじゃないのに、王女様の好きな人を奪ってしまう展開になってしまうとは、何という運命の悪戯だろう。
正式に婚約が決まったら、当然王女様の耳にも入る。そうなってから、怒った王女様が乗り込んでくるのを待ち構えて謝るより、事前にこちらからきちんと事情をお話ししておいた方が絶対にいい。
宰相閣下のお許しを得ないうちに、しかも本当は『偽装』なのだと第三者にバラすのは良くない。でも、王女様ならきっと、秘密を守ってくれるに違いない。
部屋に戻り、早速ハンナさんに王女様と会えないか訊ねてみる。
「そうでございますね。夕食のお時間までにはまだ余裕がありますし。ご都合をお聞きしてみましょう」
そして、返事が返ってくるまでの間に、素早く訓練着からドレスへと着替えさせられ、髪型を整えられてメイクも直される。さすがに、王女様を訪ねていくのに、訓練着に侍女さん仕様の薄化粧とまとめ髪ではマズいらしい。
丁度支度が整った時、王女様側からの返事を持った侍女が戻ってきた。
「……そっか。こんな突然じゃ、さすがに無理だよね」
残念なことに、王女様は今、所用で手が離せないので、会うのは難しいという返事だった。
王女様がこちらへ訪ねて来るのはいつも突然なのに、いざこちらから会おうとすると無理だなんて。不条理にも思えるけど、相手が王女様だから仕方が無い。
せっかく着替えて支度したのに、無駄だったな……。
私の突発的なお願いを実現しようと、慌ただしく動いてくれたハンナさんをはじめ侍女さん方には大変申し訳ない。
そう思って謝ると、ハンナさんはとんでもないと首を横に振った。
「私どもは、本当はリナ様にいつもそのように着飾っていていただきたいのです。使命を果たされる為には、そういう訳にはいかないと分かっているのですが」
少し寂しそうに笑うハンナさんの顔を見ていると、胸がジンと熱くなった。何だか、あったかい毛布に包まれているような安心感に、自然と笑顔が零れる。
何故か不意に涙ぐんだハンナさんは、誤魔化すように「そうそう」と手を叩くと、クローゼットから何かを取り出した。
「半壊した前のお部屋から、ようやくこれを持ってくることができたのですよ」
それは、私が以前この城から田舎に移った時、そしてその後田舎から城に戻ってきた時に使っていた大きな鞄だった。
以前与えらえていた部屋からは、私の訓練着や寝間着など普段使っていたものを持ち出すのが精一杯で、その他の物はそのまま置きっぱなしになっていた。いつ崩れるかも知れないからと立ち入り禁止になっていたけれど、ようやく残してきたものを回収する許可が下りたらしい。
「それから、こちらを」
ハンナさんに手渡されたのは、指貫だった。
そうだ。この指貫をくれた集落の人達は、私がリザヴェント様の愛人だと勘違いしていたらしい。けれどまさか、本当にリザヴェント様と婚約することになるなんて。
……いやいや。偽装だから、偽装。
慌てて首を横に振りながら、机の引き出しに指貫を仕舞う。いつか、本当にお嫁に行く日まで、これは大切に持っておくんだ。
それから、少しひしゃげて埃っぽい鞄に手を伸ばし、開いてみる。田舎から城に戻ってきた時に大半は鞄から出したものの、入れっぱなしになっていたものもある。それは、田舎暮らしをしていた時に手元に残っていたお金と、この世界に来た時に着ていた制服だった。
なぜ、制服を鞄に入れっぱなしにしていたのかというと、見る度に嫌でも元の世界のことを思い出してしまうのが嫌だったからだ。帰れないと分かった以上、無駄に心を揺るがせるようなものはなるべく視界に入れたくない。でも、だからといって思い切って処分することも出来ない。だから、普段開くことはない、けれどどこかへ移る時には必ず持っていくこの鞄に入れっぱなしにしていた。
「……何か」
黴臭い。やっぱり、通気性のいい場所でちゃんと手入れしないといけないな。
でも、無事に手元に戻ってきて良かった。もし魔トカゲの吐いた炎で火事にでもなって燃えていたらと思うとゾッとする。私にとって、元の世界にいたという証は、この制服ぐらいしかないんだから。
ブレザーの肩部分を持って、目の前に翳してみる。
この世界でも、虫食い穴ってできるんだろうか。防虫剤をクローゼットに吊るしてあるのを見たことないけれど、それに代わるようなものってあるのかな。
そう思いながら、虫に喰われていないか丹念に調べていると、ハンナさんが少し困惑した表情を浮かべながら近づいてきた。
「リナ様。お客様でございます」
「えっ」
もしや、王女様が用事を終えて訪ねてきてくれた? と一瞬期待に胸を躍らせたものの、もしそうならハンナさんがこんなに浮かない顔をしている訳がない。
「どなたですか?」
「それが、……エクスエール公爵の御子息、シザエル様でございます」
「えっ!」
驚きの余り、文字通り飛び上がってしまった。
えっ、何で何で? ……っていうか、ヤバイよね。これは非常にヤバい。だって、お互い面識はあるかも知れないけど、直接言葉も交わしたことのないシザエルがいきなり部屋まで訪ねて来るってことは、その目的は一つしかない。
「リナ様。シザエル様と親しくなされているのですか?」
恐る恐るといった様子で探りを入れてくるハンナさんに、全力で首を横に振る。
「とんでもない! お話したこともありません」
「左様でございましたか」
ホッと胸を撫で下ろした後、ハンナさんは再び不安げな表情を浮かべた。
「では、シザエル様は何故、突然あのような……。それに、未婚女性の部屋に何の前触れもなく突然訪ねてくるなど、非常識ですわ」
……あれ? 以前、リザヴェント様が突然、私の忘れ物と預かった荷物を持って部屋に訪ねて来た時があったけど、あれはハンナさん的には大丈夫だったんだろうか。
「ですが、シザエル様のご身分を考えると、易々とお断りする訳にも参りませんし。ともかく、このお部屋に入室していただく訳にはまいりませんので、近くの客間をご用意いたします」
「あの、……具合が悪いって、お断りする訳にはいきませんか?」
制服を握り締めながら、ハンナさんの顔を窺う。
きっと、明日になれば、リザヴェント様が宰相閣下と話をつけて、私達の偽装婚約が成立するに違いない。それまでは、エクスエール公爵側との接触は避けたい。でも、それを正直にハンナさんに話す訳にはいかないし。
案の定、全く具合が悪そうにない私を見て、ハンナさんは首を傾げた。
「……そう、でございますか? まあ、リナ様がどうしてもお会いしたくないと言われるのであれば、そういうことにいたしましょう」
そう言いながら、パッと表情が明るくなったハンナさんは、踵を返して扉の方へと向かっていく。
ああ、良かった。だって、まだ宰相閣下の許可を得ていない今の段階で、どうやってエクスエール公爵からの後見人話を断ったらいいか全く分からないし。
ホッ、と胸を撫で下ろしたものの、すぐに自分の認識は甘かったと実感することになった。
「失礼するよ。具合が悪いのなら猶の事、様子を確かめないといけないからね」
突如、制止するハンナさんを振り切って現れたのは、クリーム色の髪をした色白の青年だった。
「何故なら、君は私の婚約者なのだから」
青年、つまりシザエルは、何故か手に大きな赤い薔薇の花束を抱えていた。ううん、理由ならさっきこの人が言ったじゃない。私が、この人の婚約者なんだって。
よく元の世界でもプロポーズに花束を贈る光景はドラマなんかで見たことがあるけれど、この世界でもそういう風習があるんだ。……って、感心している場合じゃない。婚約者なのだから、って、いつの間にそんなことになったの?
「驚いたかい? でも、これはもう、決まったことだから」
微動だにできずに固まっている私の腕に、花束を無理矢理押し付けるシザエル。
色白といっても、リザヴェント様のような石膏のごとき白さではなく、赤ら顔と言ったほうがいい。さすが大貴族の子息なだけのことはあり、立ち居振る舞いには品が感じられるけれど、どこかフニャフニャした印象を受ける。鍛えられていない細身の身体のせいだろうか、体幹がしっかりしていない感じだ。
こんなに至近距離でシザエルを見たことは無かったけれど、これが王女様の元婚約者? と目を疑ってしまった。確かに整った顔立ちではあるけれど、見ていてどこか癪に障るというか、目を逸らしたくなる気持ち悪さを感じる。
……というか、今、この人は何て言った? もう決まったことって、じゃあ、私達の対抗策は間に合わなかったってこと?
呆然とする私の耳に、ハンナさんのやけに大きな声が届いた。
「ちなみに、赤い薔薇の花束を異性から受け取るという行為は、相手からの好意を受け入れるという意味がございます」
「……げっ!」
ぎょっとして思わず叫び声を上げ、咄嗟に花束をシザエルに突き返した。
けれど、シザエルがそれを受け取るはずもなく、バサッと音を立てて二人の間に花束が落ちる。
……一瞬、静まり返った室内に、シザエルの深い溜息が落ちた。