38.黙っておきたい事
「……まさか、リナか?」
綺麗な水色の瞳が、長めの黒髪の奥で丸くなった。
三日ぶりに見るアデルハイドさんは、あの大怪我が嘘のように元気そうだ。顔にも幾つもあった切り傷や擦り傷の痕も残っていなくて、それどころか以前よりも小ざっぱりしているように見える。
「どうしたんだ。その恰好は」
驚かれたけれど、それはこっちの台詞だ。いつもは城内でも旅の時と同じシャツとズボンという格好だったのに、何で急にそんな貴族みたいな恰好をしているの。お蔭で、どこの貴族令息かと思って、一瞬ドキッとしちゃったじゃない。
上等な生地のズボンが汚れるのも構わずに、アデルハイドさんは地面に片膝をついて私の顔を覗きこんでいる。
「しかも、こんなところに座り込んでいたら、せっかくのドレスが汚れてしまうぞ」
優しい表情でそう訊かれて、胸の奥がツキンと痛んで、思わず涙が込み上げてきそうになった。
「まさか、着慣れないドレスの裾でも踏んでコケたのか?」
でも、どんなに貴族のような格好をしても、中身はアデルハイドさんだった。ニヤッと笑ってからかいながら、ほら、と手を差し出して、立ち上がるのを手伝ってくれようとする。
その大きな手を見つめながら、違います、と首を横に振った。
「裾を踏んでコケたりなんかしていないですから」
「冗談だ。怒るな」
「別に、怒ってなんかいないです」
そんな遣り取りをしている間も、一向に手を取って立ち上がろうとしない私に、アデルハイドさんの表情が曇った。
「立てないのか。……あの怪我のせいで?」
眉間に皺を寄せたアデルハイドさんに、苦笑いしながら答える。
「違和感と痺れが少し残っているくらいだったんですけど、動いているうちに酷くなっちゃったんです」
左足を軸足に蹴りを入れたとか、全力で走って逃げたとかいう細かな報告は意図的に省略した。それを話したら、何故そうなったのか説明しないといけなくなるから。
「神殿に行くか。エドワルドに言って治癒術を……」
私を抱きかかえようと手を伸ばすアデルハイドさんの腕を咄嗟に跳ね除けて、全力で首を横に振った
……神殿には行きたくない。
さっき、あんなことがあったばかりの場所に戻りたくない。それに、またあの神官達と顔を合わせるかと思うと、嫌悪感で吐き気がしてくる。
「何があった?」
アデルハイドさんの表情が、みるみる険しくなる。
疑問に思うのも当然だ。立てなくなるほど怪我をしていた足の具合が良くないのに、治癒術を受けに神殿に行くのを嫌がるなんて、誰がどう考えてもおかしい。
でも、言いたくない……。
ぎゅっと口元を引き結んだまま俯いていると、ポン、と頭を軽く叩かれた。
「分かった。一つ確認だが、エドワルドに会いたくない訳ではないんだな?」
コクンと小さく頷くと、突然身体が宙に舞った。悲鳴を上げて、慌てて傍にあるものに縋り付くと、それはアデルハイドさんの逞しい胸板だった。
私をお姫様抱っこしたアデルハイドさんは、大股でずんずんと歩いて行く。
「ここから外を回れば、厨房はすぐそこだ」
ああ、あのいつもの場所に運んでくれようとしているんだ。魔物についての講義を受けたり、一緒に魔物のイラストを作成したりしていた、あの居心地のいい場所に。
アデルハイドさんの腕の中はとても温かくて、まるで自分が赤ん坊に戻ったかのように心地よくて、心の底から安心していられた。あの赤髪の神官に抱きつかれた気持ち悪さも、すっかり忘れてしまえるほどに。
そう。あのピンチを逃れられたのも、アデルハイドさんのお蔭だ。旅に出たら襲ってくるのは魔物だけじゃないと、盗賊対策として人間相手の体術を教わっていて良かった。
あのまま、赤毛の神官に抱きつかれたままの姿を、他の人に見られずに済んだだけでも幸いだった。それに、蹴りを食らわせて悶絶させたことで、少しだけこっちもやり返してやったという気持ちになれたから。
厨房の裏口から入ってきた私達を見て、振り向いた料理長は危うく手にしたナイフを自分の足の上に落とすところだった。
「ど、……どこの誰かと思ったら、お二人さんかい」
貴族のカップルが人目を忍んで密会しようと、隠れる場所を探して入ってきたのかと思った、と訳の分からないことを言いながら、料理長はアデルハイドさんが私を下ろしやすいように椅子を引いてくれた。
途中、巡回中の衛兵にアデルハイドさんが言伝を頼んだのもあって、それから間もなくエドワルド様が裏口から駆け込んできた。
「……リナ」
ああ、エドワルド様だぁ。助かったとは聞いていたけれど、こうして無事な姿を直に確認できて、ホッと安堵する。
正直、瓦礫の隙間からエドワルド様の金糸のような髪が覗いているのを見た時は、もう駄目だと絶望していた。実際、即死しなかっただけで、あと少し救助と治癒術が遅かったら危なかったのだと、私の怪我の治癒をしてくれていた神官さんから聞いていた。
戸口で立ち止まったエドワルド様は、やっぱりまだ体の具合が本調子じゃないのか、フラッとよろめいて壁に手を着き、反対の手で頭を押さえながら何やブツブツと呟いている。
「エドワルド様、大丈夫ですか?」
息が上がっているから、走ってきてくれたらしい。私みたいに、無理をして具合が悪くなったんじゃなければいいけど。
「……全く、もう」
呆れたように嘆息したエドワルド様は、近づいてくると、椅子に座っている私の傍らに膝を着いた。
「大丈夫? は、こっちの台詞だよ」
上目遣いにこちらを見るその表情から、エドワルド様はすでに神殿で何があったのかご存じのようだった。
本当は大丈夫じゃないけど、と思いつつ小さく頷く。本当に? と問いたげな視線に再度頷くと、エドワルド様は一瞬、切なそうな表情を見せた。
「エドワルド、左足だ」
早く治癒しろとばかりに、少し苛ついた声でアデルハイドさんに急かされ、二人揃ってハッと我に返る。
「失礼するよ」
そう声を掛けられた後、エドワルド様の手がドレスの裾を捲って左足に触れる。と同時に、そこからじんわりと温かいものが流れ込んできて、足全体へと広がっていく。
「大丈夫なのか?」
腕を組んだまま、座りもせずに私達を見下ろしてくるアデルハイドさんは、まるで怪我した我が子を心配する父親のようだ。
「ええ、心配はいりません。尤も、同じことを繰り返していたら、後遺症が残ってしまう可能性もあるけどね」
後半部分は、明らかに私への忠告だ。恐縮しながら、その忠告を胸に刻みつける。
「さあ、立ってみて」
ドレスの裾の中に入れていた手を引き抜いて立ち上がったエドワルド様は、私に手を差し伸べる。その手を取って立ち上がり、そっと左足に体重を掛けてみる。さっきあんな忠告を受けたばかりだから怖々だったけれど、そのまま歩いてみても痺れも違和感も特になかった。
「大丈夫そうです。ありがとうございました」
「どういたしまして」
深々と頭を下げると、驚いたことにエドワルド様はそっと私の肩を抱いて引き寄せた。
フワッと、薬草を煎じた時のような匂いが鼻孔をくすぐり、金糸のような髪が私の頬を撫でた。
「ごめんね、怖い思いをさせた」
怒られるかと思っていたのに、アデルハイドさんには聞こえないように耳元で囁かれたその声に、驚きと同時に涙が込み上げてきそうになった。
エドワルドさんは私のことを心配してくれている上に、出来事が出来事だけに、こちらの心情を慮ってくれている。その気遣いがとても嬉しかった。
「後で、忘れ物を届けに行く。いいね?」
囁く声に小さく頷いた時、急にエドワルド様が私から離れた。見れば、エドワルド様の肩にアデルハイドさんの大きな手が乗っている。
眉を顰めたアデルハイドさんから、威圧的な空気が流れてきた。
「それは治癒の一環か?」
「いいえ。……ふふ、面白いですね、アデルハイド。まるで、年頃の娘にやきもきしている父親みたいな顔をして」
からかわれたアデルハイドさんの顔に、一瞬血が上る。
「そんな訳ないだろうが」
「勿論、そうでしょうね」
アデルハイドさんに睨まれているエドワルド様は、まるで狼に飛びかかられそうになっている茶虎猫のように見えるのだけれど。
「それより、アデルハイド。そのような服装をしているということは、例の話を受けることになったのですか?」
恐れるどころか、主導権を握って話題を変えたエドワルド様に、アデルハイドさんは小さく舌打ちをした。
……え? それって一体、何の話ですか?