32.そして戦いが始まる
崩れ落ちた壁の向こうから現れたのは、一目で魔族と分かる姿の男だった。
人間に近い容姿に、漆黒の長い髪。細く切れ上がった目の奥に光るのは、血の様に赤い瞳。灰色に近い色の肌には薄らと鱗のような模様が浮かんでいて、背中には巨大な蝙蝠のような翼が生えている。
漆黒の鎧の縁を彩っている独特の赤いラインを見た瞬間、この魔族が何者なのか分かってしまった。
魔王軍でも最強と言われ、多くの人間の国を攻め滅ぼしてきた、魔将軍ヴァルハミル。
アデルハイドさんからイラストを描かされた時に教えて貰った。この魔族に遭遇したら、何をさて置いてもとにかく逃げろ、と。
……でも、このまま王女様を置いて逃げろって言うの?
腕の中でぐったりと気を失っている王女様を、ぎゅっと抱きしめる。
それに、王女様と一緒にいる私はすでにヴァルハミルにロックオンされているので、今更逃げようったって無理だ。
そんな私をまるで虫けらを見るように、ヴァルハミルは傲然と見下ろしてくる。
「我が花嫁をこちらに渡せ、人間の小娘。さすれば、命だけは助けてやろう」
……ああ、その言葉に素直に従うことができればいいのに。でも、小心者の私は、ここで王女様を見捨てたらきっと一生後悔するとか、本当にこの魔族が私を見逃してくれるのだろうかとか、色々考えてしまって、どうしたらいいのか分からない。
取り敢えず、気を失った王女様を引き摺るようにして、ジリジリと後退する。その何倍もの速度で、ヴァルハミルは瓦礫を踏み締めながら、一歩一歩距離を縮めてきた。
「……っ」
瓦礫の上を引き摺られる痛みは、分厚い生地のドレスを通しても伝わったのだろうか。小さく呻いて意識を取り戻した王女様は、目の前に迫ったヴァルハミルの姿を見て、盛大な悲鳴を上げた。
悲鳴を浴びせられたヴァルハミルの顔に、残忍な笑みが浮かぶ。
「これはこれは。相変わらず美しいな、我が花嫁よ」
まるで怯える幼児のように私に縋り付いてきた王女様は、震える声で否定する。
「だっ、誰が、……あなたのようなものの、花嫁になど、なるものですかっ」
「何を言う。魔王陛下の元で約束を交わしただろう。次に人間の国を攻め滅ぼして戻ってきたら、そなたを娶ると。よもや、忘れた訳ではあるまい?」
ただでさえ恐ろしい覇気を纏うヴァルハミルが、怒気をちらつかせる。それだけで、軽く意識を飛ばしたくなるほどの恐怖感に襲われる。
「……それはっ、そちらが一方的に」
「そなたに拒む権利があると思うか?」
ぎゅうっと王女様が私の訓練着を握り締める。
「魔王陛下に約束した人間の国の攻略に思いの外時間がかかってしまったが、これでやっとそなたを娶れると喜び勇んで戻ったところが、そなたはとっくに魔王城から姿を消していた。……こんな裏切りがあるか?」
手にしていた黒い長剣を、無造作に床に叩き付ける。それだけで、足元の瓦礫が砕けて飛び散り、こちらにも弾丸のように飛んでくる。咄嗟に王女様を庇うように覆いかぶさると、背中や腕に鋭い痛みが走った。
「本来なら、怒りのあまり八つ裂きにしてやるところだが、そなたの美しい姿を再び見られて気が変わった。大人しく私の元に戻って花嫁となるのなら、今日の所は手勢を引こう。だが、そなたが従わないというのなら、まず手始めにこの城を火の海にしてやる」
ビクッと身体を震わせた王女様は、私の身体を押しやるようにして立ち上がろうとした。慌ててその手を掴んで引き留める。
「……行っちゃうんですか?」
王女様がヴァルハミルについて行ってしまったら、前回の私達の旅は一体何だったというのだろう。
けれど、こちらを振り返った王女様は、見ているこちらの胸が張り裂けそうになるくらい悲しい笑みを湛えていた。
「……行かなければ、多くの者が死んでしまうわ」
崩れた壁の向こうに広がる薄闇の空に、羽の生えた巨大な魔トカゲが何匹も飛んでいて、時折轟音と共に紅蓮の炎を吐いている。城を守ろうと抗う兵士の怒号と、逃げ惑う人々の悲鳴。城は一瞬にして、地獄と化してしまった。
そして、今すぐこの被害を止められるのは、王女の決断だけ。
「でも、それでいいんですか?」
私の手を振り払って立ち上がり、一歩踏み出そうとする王女様のスカートの裾を掴む。
「何を言っているの。わたくしが行かなければ、あなたも殺されてしまうのよ」
王女様は少し苛立ったような声で叱りつけると、スカートを引っ張って私の手を振り払おうとする。
確かにそうだ。国の為、多くの人の為に犠牲になろうという王女様の精神は尊い。でも、リザヴェント様を好きだと言っていた王女様は、あんなに幸せそうだったのに。それなのに、私達を救う為に、この恐ろしい魔将軍の元に行かせていいんだろうか。
そんな犠牲の上に得た平和なんて……、私は素直に喜べない。
「何をしている」
苛立ったヴァルハミルはあっという間に距離を縮めると、王女様の腕を掴む。かなりの力で掴まれたのだろう、王女様が悲鳴を上げて顔を歪めた。
「何だ。お前が邪魔をしていたのか」
血の色のように真っ赤な目が、ギロッとこちらを睨む。
「止めて!」
王女様の悲鳴と同時に、繰り出された黒い長剣。
咄嗟に愛用の剣を掴み、相手の剣を払いながら身を捩る。そのまま床を転がって跳ね起きると、黒い長剣は床に突き刺さり、半径二メートルほどの範囲に亀裂が走った。
受け流しただけなのに、手どころか腕全体に痺れたような痛みが走り、ガシャッと音を立てて、私の剣の鞘が砕け散った。
「……ほう。私の一撃をかわすとは、ただの小娘じゃないな」
こちらを見てニヤッと笑ったヴァルハミルの顔に、全身から汗が噴き出す。
「止めて! 分かったわ、あなたに従うから、どうかこの者や城には手出ししないで頂戴」
必死の形相で叫ぶ王女様に、ヴァルハミルは残忍な笑みを浮かべた。
「手を引くとは言ったが、抵抗する者を見逃すとは言っていない」
「な……」
やっぱり、こいつはこのまま何の危害も加えずに帰るつもりはなかったんだ、最初から。
「酷い。最初から、助ける気なんてなかったのね!」
怒りで顔を歪めながら詰る王女様に、ヴァルハミルは恍惚とした表情を浮かべた。
「フフ、苦しみに歪むそなたの顔が一番美しい」
その言葉に、弾かれたように王女様はヴァルハミルの剣を持つ右腕にしがみ付いた。
「逃げて、リナ!」
叫ぶ王女様をヴァルハミルは後方に突き飛ばし、空いた両手で黒い長剣を振り被る。
やばい、本気の一撃が来る。もう、剣の軌道を変えて受け流す、だなんて手段は使えない。だからといって、魔将軍の本気の一撃を避けられるはずもないし。
最後の抵抗に、と放った炎の魔法は、あっさりと剣で薙ぎ払われた。
……あ、終わった。
死を覚悟して、ぎゅっと目を閉じた瞬間、物凄い力で吹き飛ばされ、左肩から壁に激突する。
猛烈な痛みと衝撃で、頭がクラクラして意識が遠のき、その場にズルズルと崩れ落ちた。
……あー、殺されちゃったぁ。
物凄い痛みと恐怖で悶えていると、ふと耳に飛び込んできた声にハッと意識が覚醒する。
「まさか、こんなところでお前と逢えるなんてな、魔将軍ヴァルハミル」
「何だ、貴様は」
ヴァルハミルの剣を巨大な剣で受け止めているのは、武装したアデルハイドさんだった。重くないのだろうか? と常々思っていたその重厚な鎧姿を見たのは、前回の旅以来だった。
「お前に滅ぼされた祖国ハイデラルシアと父の仇、取らせてもらうぞ」
ヴァルハミルの剣を押し返して距離を取り、そう宣言したアデルハイドさんに、ヴァルハミルは薄笑いを浮かべた。
「フッ、……記憶にないな。いちいち人間の国の名や屠った奴のことなど、覚えてはおらん」
アルデハイドさんの顔に、見たこともないほど強烈な怒気が宿った。
そして、猛烈な剣の応酬が始まった。両者の剣が交わる度に激しい金属音が鳴り響き、空を切った剣が壁や床、天井を掠める度に、石造りのそれらが砕けて飛散する。
こんな近くに転がっていたら、遅かれ早かれ巻き添えを食ってしまう。それは、ヴァルハミルの背後にある瓦礫の傍で腰を抜かしたように座り込んでいる王女様にもいえることだ。
近くに落ちていた剣を拾うと、恐る恐るヴァルハミルの背後に回る。
「……凄い」
やや押され気味ではあるものの、アデルハイドさんは魔族最強と言われているヴァルハミルと互角に渡り合っている。
さすが、グランライト王国随一どころか、周辺国でも最強の戦士と言われているというアデルハイドさんだ。前回の旅では王女救出が目的で戦闘はなるべく避けていたけれど、もしかしたらあのまま魔王の元に乗り込んで、倒すこともできていたんじゃないかと思えてくる。
ともかく、アデルハイドさんが時間を稼いでくれている間にと、瓦礫を乗り越えて王女様の元へ辿り着く。
「……ああ、リナ」
掠れた声で泣きそうに呟いた王女様に縋りつかれて、さっき強烈なダメージを受けたばかりの左腕が悲鳴を上げる。でも、騒いでヴァルハミルに気付かれるのは困るので、口から出そうになる悲鳴は何とか飲み込んだ。
「……王女様、大丈夫ですか?」
「ええ、と言いたいところだけれど、さっき突き飛ばされた時に右足を捻ってしまって」
隙を見て逃げようとしていたけれど、残念ながら一人では立つことも出来ないの、と王女様は首を横に振った。
「せめて、あの戦士が持ちこたえている間に、あなただけでも逃げて、リナ」
「そんなことできませんよ。ほら、肩を貸しますから、立ってください」
王女様が痛めているのは右足だから、自然と貸すのは左肩になる。でも仕方が無いので激痛に堪えながら王女様の身体を支えて何とか二人で立ち上がり、散乱する瓦礫の向こうへ逃れようとした時だった。
崩れ落ちた壁の向こうから、ヌッと巨大な魔トカゲの頭が覗いた。
げっ、と思った時には、その魔物は鋭い牙の生えそろった口を大きく開けていた。
……炎を吐くつもりだ!
氷系の魔法を使って防ぐにしても間に合わない。
せめて、王女様に火傷を負わさないよう、咄嗟にその身体を抱きしめて庇いつつ、しゃがみ込んだ。