65.夢じゃなかった
ベッドの脇に置かれた椅子に項垂れるように座っているファリス様が、深い深い溜息を吐く。
背中にフカフカのクッションを幾つも当ててもらってベッドの上に半身を起こしている私は、そのあまりに情けなさそうな声と表情に、ようやく飲み終わろうとしていたエドワルド様特製の超絶苦い薬湯を噴き出すところだった。
さっきから、ファリス様は不貞腐れたような表情のままこっちを見ようともしない。そんなに怒らせてしまっあたのかとも思うけれど、本当に心底怒っているのならこの部屋から出て行くだろうし、そうしないってことはそこまで怒っている訳じゃないみたい。
舌がおかしくなりそうな薬湯の苦みに顔を顰めつつ、横目でファリス様の様子を窺いながらつくづく思う。
……本当に、勘違いでよかった。
ファリス様に斬り捨てられる、と思い込んでいた私は、盛大に悲鳴を上げて気を失った。勿論、それはとんでもない勘違いだったんだけど。
しばらくして意識を取り戻した私は、エドワルド様やハンナさん達に寄って集って何故ファリス様にあんなに怯えたのか問われ、泣きながら自分の無実を切々と述べた。まだ声が掠れていたから、エドワルド様に差し出された柑橘系の香りがする甘い飲み物を少しずつ飲みながら。その結果、私がとんでもない思い違いをしていたことが明らかになった。
侍女さんに呼ばれて再び部屋にやってきたファリス様にエドワルド様が事情を説明してくれて、私も勘違いして怯えてしまったことを謝ったんだけれど、ファリス様は寂し気な笑顔を浮かべた後、椅子に腰を下ろし、それからずっと溜息を吐いている。
……いきなり悲鳴を上げて気を失うくらい怖がられたら、誰だって気分悪いよね。ファリス様に酷い事をしてしまったな。
「リナは……」
不意に顔を上げたファリス様は、私と目が合った瞬間にフイと視線を逸らせた。何だか拗ねているみたいに見えるんだけど、気のせいかな。
すると、ファリス様が続きを口に出す前に、別の場所から声が上がった。
「リナは、俺が本気でリナが犯人だと信じ込んでいると思っていたのか?」
「俺の言葉を勝手に代弁するな!」
ファリス様の口調を真似て先に言葉を発したのはエドワルド様だった。ファリス様に怒鳴られても、しれっとした表情で受け流し、逆に忠告めいた口調で詰め寄る。
「いつまでもウジウジしていないで、言いたいことがあるならさっさと言う事。リナも目覚めたばかりで体力も戻っていないんだから、そう長くは起きていられないよ。それに、リナが目覚めたって情報を聞いた人達が、これからどんどん会いにくる。そうなったら、落ち着いて話せる時間なんてなくなるからね」
エドワルド様のきっぱりとした口調に息を呑んだファリス様は、気持ちを切り替えるように頭を一つ振ると、ようやくこちらに視線を向けた。
「癪に障るが、エドワルドの言ったことは俺の気持ちそのものだ。リナは、……俺がリナを疑うとでも思っていたのか?」
うっ。そんな、犬みたいなまっすぐな目でそんなこと言われたら、心が痛い。
最初は、フェルゼナットの嘘なんかに騙されずに私の無実を信じてくれていると思っていたよ。でも、信じて疑いもしなかったかといえば、そうは言い切れない。ひょっとしたら、もしかしたら。そんな不安は常に心の片隅にあった。
だから、フェルゼナットの追手から逃げながら樹海の中を彷徨い続けて、心身共に疲れ果ててしまった時、自分を探しに来てくれた騎士さん達の言葉の端々から、最悪な答えを導き出してしまった。それは、誰が悪いわけでもない、仲間を信じ切れなかった自分の弱さが招いたことだ。
「……ごめんなさい。本当にごめんなさい、ファリス様」
心配してくれて、樹海の中を探し回ってくれたのに。目覚めたって聞いて会いに来てくれたのに。殺されるなんて勘違いしてしまうなんて、本当に失礼なことをしてしまった。
申し訳ない気持ちが込み上げてきて再度謝ると、ファリス様はまた寂し気な笑みを浮かべて溜息を吐いた。
「いや、いいんだ。こっちこそ、あんな酷い目に遭って死の淵を彷徨い、ようやく目覚めたばかりのリナに責めるようなことを言って、大人げないよな」
「だから、勝手に俺の代弁をするなと……!」
またも声色を真似て先に言葉を発したエドワルド様を睨みつけたファリス様は、一つ息を吐くと、気を取り直したようにこちらに向き直った。
「しかし、リナが目覚めてくれてよかった。もしあのまま……だったら、と思うと、俺は……」
不意に声を詰まらせ、エメラルドグリーンの瞳を潤ませたファリス様の強烈な色気に、眩暈がしそうになる。イケメンの凄まじい破壊力は相変わらず健在だ。というか、何だかいつもより窶れて見える分、色気が増しているように思える。
そんな私の動揺を体力の限界だと勘違いしたのか、エドワルド様が支えるようにそっと私の肩に手を置いた。
「さ、少し横になろうか。疲れただろう?」
確かに、ただベッドの上に座っているだけなのにすぐに疲れてしまう。樹海の中を彷徨っていた時間を含めて十日近く何も食べていない上に、ずっと眠ったままだったので筋力も落ちてしまっているらしく、目覚めて意識がはっきりしている今でも自分の身体が心許ない感じがする。
崖から落ちた怪我は治癒術で完治していたのに、それから何日も目が覚めなかったのだとエドワルド様から聞かされた時は驚いた。自分ではそんなに長い間眠っている感覚はなかったんだけど、暗くて深いところにゆっくりと沈んでいくような感覚がしていたのは覚えている。
私、どうしちゃったんだろう。頭を打ったって聞いたけれど、大丈夫かな。これからリハビリしたら、ちゃんと動けるようになるんだろうか。
「焦ることはないよ。ゆっくり養生すれば元通りになるから」
私の不安を察したようにエドワルド様がそう声を掛けてくれた。よかった。エドワルド様にそう言われたら安心できる。
ハンナさん達に助けてもらいながらベッドに横になると、そのタイミングでファリス様が腰を上げた。
「じゃあ、俺はこれで失礼する。リナ、また来るからな」
「樹海に戻るのかい?」
「ああ。知らせを聞いて、任務を抜けてきたからな。今度はいつ帰って来られるか分からないが……」
ファリス様、任務中だったのに急いで帰ってきてくれたんだ。ありがたくて胸がジンと熱くなると同時に、悲鳴を上げて気絶した自分を省みて改めて羞恥で涙が出そうになる。
「そんな顔をするな、リナ。必ずまた来るから」
「……え? あ、はい」
いきなり近づいてきて私の手を握るファリス様に首を傾げながら頷くと、エドワルド様が遮るように割り込んできた。
「はいはい。分かったからいってらっしゃい」
「何だ。邪魔するな」
肩を掴んで回れ右させようとするエドワルド様にファリス様が切れ気味な声を上げた時、侍女さんがドアを開けた。一瞬、そこまで丁重にファリス様を追い出さなくても、と思ったけれど、そうじゃなくて誰かが訪ねて来たようだ。
「ようやく起きているリナに会えた」
これまた眩しいぐらいの笑顔を浮かべながらやってきたのはリザヴェント様だった。その神々しい美しさに、侍女さん達もうっとりしちゃっている。
「先程は、目覚めたという報告を受けて駆け付けたのに気絶してしまっていたからな。この者のせいで」
「悪かったな」
リザヴェント様に厭味を言われたファリス様は、ばつが悪そうに肩を竦める。
「すみません。私の勘違いのせいで……」
「リナが謝る必要はない。大体、リナが誤解をしているらしいことは樹海で捜索隊から逃げたことからみても明らかだった。それを知っていながら、その認識を正す前に先走ったこの者が悪い」
リザヴェント様に断罪されたファリス様は、うっと息を詰まらせて項垂れてしまった。
「まあ、何にせよ、意識を取り戻してくれてよかった。いつまで経っても目覚めないから心配していたのだぞ」
「すみません。皆さんに随分とご心配をおかけしてしまって」
「なに。リナが目覚めてくれたことが嬉しくて、疲れも何もかも吹っ飛んでしまった」
そう言って笑顔を浮かべたリザヴェント様の頬が少しこけているように見える。ファリス様がさっきまで座っていた椅子に腰を下ろす仕草も、どこか億劫そうだ。
どうしたんだろう、どこか具合でも悪いのかなと心配になった時、突如リザヴェント様は胸の前で腕組みをすると、真面目くさった表情で言い放った。
「しかし、他の者がどんなに手を尽くしても目覚めなかったというのに、あの者が呼びかけたら目を覚ますとは。やはりこれが愛の力ということか」
ブッ、とファリス様とエドワルド様が同時に噴き出した。
「……ま、……まあ、そうかも知れませんが、まさかあなたがそんな言葉を口に出すとは思いませんでしたよ」
エドワルド様が目元に浮かんだ涙を指で拭いながら笑い、ファリス様は面白くなさそうに「偶然だろ」と口を尖らせて呟いた。
その一連の流れが全く理解できずに一人蚊帳の外の私が首を傾げていると、リザヴェント様が嬉しそうな笑顔を浮かべながら何か期待するように私の顔を覗き込んできた。
「え……?」
「…………え?」
意味が分からずに困惑していると、リザヴェント様の顔から笑みが急速に引いていった。
「どういうことだ」
地を這うようなリザヴェント様の問いかけに、エドワルド様が困惑した表情を浮かべる。
「どう、と言われましても。ああ、そう言えば、リナが目覚めたと知らせてくれた時、何か様子が変だとは思っていましたが……」
「変、とは?」
「リナはどうやら自分のことが誰だか分かっていないようだ、と。それで、記憶障害を疑ったのですが、リナはこの通り、そんな懸念は必要ありませんでした」
何の話だろう、とリザヴェント様とエドワルド様の会話を聞きながら目を瞬かせていると、こちらに向き直ったエドワルド様が言い聞かせるように口を開いた。
「リナ。きみが目覚めた時、アデルハイドがいたよね?」
「…………え?」
――ア・デ・ル・ハ・イ・ド、がいたよね?
その言葉を理解した瞬間、ゾクッと全身に鳥肌が立った。
「だから、……うーん、確かに苦労しているのか少し風貌も変わったし、顔に大きな傷もできたから、もしかしたら分からなかったかも知れないけれど」
恐る恐る、私を気遣うように言葉を選ぶエドワルド様を見つめながら、ワナワナと自分の唇が震えるのが分かった。
…………いた。
……いたよ。
確かにいた。アデルハイドさんがいた。
でも、あれって、あれって夢じゃ…………
「…………夢じゃなかったのーーーっ!?」
「ま、待て、落ち着け、リナ!」
「そうだよ。そんなに慌てなくても、あの人はこの城にいるんだから」
そんなファリス様やエドワルド様の制止の声は耳には入っていても、突き上げてくる衝動は止まらない。 さっきまで誰かの支え無しでは全然動けなかったのに、火事場の馬鹿力というやつなのか、もがくように起き上がるとベッドから出る。そこを慌てて駆け寄ってきたハンナさんに押え込まれるように阻止され、必死にもがきながら何度も行かせてくださいと叫んでいると。
「……すまない、リナ」
リザヴェント様が掠れた声で呟いた。
その声はとても小さかったのに、何故かやけにはっきり聞こえた。嫌な予感がしてゆっくりと振り向くと、リザヴェント様はまるで叱られた子供みたいに神妙な顔で俯いた。
「リナが目覚めてくれて安心したが、残してきた部下達と魔王軍の動きが気になる。……と言うので、先程あの男をアフラディア城塞まで送ってきたところだ」
ショックのあまり、再び目の前が真っ暗になった。