61.アフラディアの砦にて……アデルハイド視点
胸騒ぎがしていた。
魔将軍ヴァルハミルを失い、混乱していた魔王軍がこのところ一つに纏まろうという動きを見せている。魔将軍の次席にいた三人の魔族のうち、比較的穏健な一人が他の二人を懐柔して魔王軍を纏め上げようとしているらしいという情報が斥候によってもたらされていた。
グランライト王城の強襲で、魔王軍は魔将軍ヴァルハミルと、自慢の飛空部隊の一部を失った。とは言え、残された者達が互いに軍の覇権を狙って牽制し合っている状況だったからこそ、我々人間が反転攻勢に打って出ることができたのだ。奴らが纏まれば、せっかく奪還したこのテナリオ東部からハイデラルシアにかけてのこの一帯を再び魔王軍に奪い返され、果てはテナリオ自体が蹂躙されて滅亡しかねない。
……だが、この胸騒ぎは、魔王軍の動きが気になっているだけのようには思えなかった。
何だ。俺は何を気にしているというのだ。
舌打ちをしながら視線を移した時、その視界を黒髪が過ぎった。
「……っ!」
ぎょっとして振り返ると、風に靡く黒髪を手で押さえながら外壁の階段をこちらに昇ってきたケイトが、俺の顔を見るなり呆れたように溜息を吐いた。
「また、何を考えていたんですか?」
「別に……」
「ま、深くは問い詰めませんけどね」
そう言って俺の横に立ったケイトは、地上から人三人分ほどの高さのある外壁から遥か彼方まで広がる荒野を見渡した。
テナリオの東、アフラディアの砦。
ハイデラルシアの侵攻を食い止める為にテナリオが築いた砦だ。そこに今、ハイデラルシア人が集い、魔族から国土を取り戻す為に戦っているとは、何とも不思議な感覚を覚える。
荒野の先には川が流れており、その対岸にはかつてのハイデラルシアがある。国境地帯であるこの辺りは穀倉地帯だったが、魔物や流れ込んでくる瘴気の影響で今は見る影も無い。
この一帯を占拠していた魔王軍を攻め立て、この砦と荒野を奪還してからもう半年以上になる。今では、川向うのハイデラルシアの国土からも少しずつ魔王軍を押し返すことに成功している。
だが、この一帯には今も魔物が多数棲息している上に、ハイデラルシア国内に拠点を移すにはまだまだ不安要素が多過ぎる状況だ。その後も幾度となく魔王軍の襲来があり、撃退はしているものの、その度に少なくない犠牲が出ている。
それに、例え魔王軍から奪還したところで、魔物が跋扈し瘴気に汚染されたハイデラルシアの地で人が暮らしていけるようになるには長い年月がかかるだろう。しかし、このままアフラディアの砦に拠点を置いたままでは、せっかく奪還したハイデラルシアの国土は容易く魔王軍の侵入を許してしまう。実に悩ましいところだ。
「今のところ、魔王軍に動きはないようですね」
「ああ。だが、斥候からは良くない情報がもたらされている。こちらの状態はどうだ?」
「あのキラキラした扉ができてから、物資が安定的に届くようになって、皆の表情にも余裕が出てきていますね。やっぱり、食糧や医薬品の心配をしなくてもいいってのは大きいですよ」
ケイトはやや癖のある黒髪に囲まれた丸顔に笑みを浮かべた。
全体的にハイデラルシア人は他の民族と比べて大柄だが、女性でありながらも戦士として男と見劣りしない働きをするケイトは肉食獣のようなしなやかな逞しい体格をしている。目つきも鋭く、性格も男勝りで、ハイデラルシアのまだ軍とも呼べない戦闘集団を率いる俺の右腕を務めるだけの器量もある。
「ですけど、気は抜かないでくださいね」
笑うと女性らしい笑窪が浮かぶその顔を突然キリッと引き締めると、ケイトは俺の額に残る傷痕を指さす。
「ああ、分かっている」
「どうだか」
疑わし気にこちらを睨みつけるケイトに肩を竦めてみせてから、瘴気の靄でけぶる地平を眺める。
この眼下に広がる荒野で行われた魔王軍との三度目の戦闘では、それまでにない被害が出た。押し寄せた魔王軍を何とか押し返すことはできたが、その残党が荒野周辺に散らばり、その襲撃を受けてテナリオ中心部からの補給が断たれ、食糧や医薬品が不足する事態となった。情けない事に、俺自身も魔族との戦闘で額に傷を負い、その傷が元で高熱を発して死の淵を彷徨うことになってしまった。
その時だ。あの男が現れたのは。
――何たるザマだ。待っていろ、神官を連れてくる。
そう言い残すと部屋を出たリザヴェントは、移動魔法であっという間に本国グランライトに戻り、神官を連れて戻ってきた。もしあの時、あの男が来てくれなかったら、俺は今頃この世におらず、その後の戦闘でこの砦も陥落していたかも知れない。
グランライトからテナリオまでの直線上にある全ての国に特殊な魔法陣を作り上げ、それぞれに魔導師を配置して魔力を注ぐことで人や物資の往来を可能にする魔法回廊。そんな夢のような便利なものが近々できるかも知れないという話は耳にしていた。
だが、まさかこのタイミングでリザヴェントが魔法陣作成の為訪れたテナリオ王都から、最前線であるアフラディアの砦まで足を延ばしてくれるとは思ってもみなかった。
リザヴェントは神官だけでなく、その後も食糧や医薬品などを本国からこの砦に運んできてくれた。彼一人が一度に運べる量などたかが知れていると言っていたが、それでもテナリオ王都からの補給路が復活するまでの間、我々が命を繋ぐのには充分だった。
俺は、リザヴェントが連れてきた神官に、敢えて額の傷痕を残してもらった。
己の力量不足で多くの仲間を死なせてしまった。危うく、全ての犠牲を無に帰すところだった。その戒めの為に。
リザヴェントが突然現れたあの日からふた月ほどが経った。
今、アフラディアの砦の内部にある魔法回廊の扉からは、グランライトをはじめ各国からの支援物資が届き始めている。今はまだ試験運用の段階だそうだが、それでも砦内の環境は飛躍的に改善し、武器や防具も充実し、加勢してくれる兵も増えている。
魔法回廊を完成させる為には、各国に魔法陣を作る必要がある。その実現には、並々ならぬ外交努力が必要だった。それを成し遂げてくれたのは、グランライトの若き王だ。
今後、魔族の勢力拡大によって人間の土地が侵され、それによって人間同士の生き残りをかけた戦いも熾烈になっていく。今はまだ魔族の勢力から遠く離れているとしても、決して対岸の火事ではないことはグランライトが身をもって体験している。それを食い止めるには、今、魔族に戦いを挑んでいるハイデラルシアの残存勢力を支援しなければならない、とかの御方は各国を説き伏せてくださったのだ。
勿論、諸手を上げて賛同してくれた国ばかりではない。最後まで首を縦に振らなかったテナリオの西の隣国には、王妹が嫁ぐことを条件にようやく同盟が結ばれたのだという。
だから、絶対に負けるわけにはいかない。
あの日、リザヴェントはこう言い残した。
――リナが、お前にもう一度会いたいと言っていた。その言葉がなかったら、私は今日、ここに足を運ぶことは無かった。
移動魔法が使えたら、私でもテナリオまで行けますか? リナはそう言ったのだという。
今届いている医薬品も、大半がグランライトやその周辺国の市場で流通している物だ。リナは、そんなありふれた品の中にも魔物との戦闘での傷病に効果がある物を調べてくれていたらしい。
こんなに遠く離れていても、俺はリナをこんなにも近くに感じられる。
だからこそ、ここ七日ほど続く胸騒ぎに、どうしても嫌な予感が脳裏を過る。
いや。グランライトはここほど危険な場所ではないし、傍にはリザヴェントもファリスも、エドワルドもいてくれている。クラウディオ陛下も、リナに貴族位を与えると言っていたから、リザヴェントとの婚姻に向けて何の障害もない。
……それどころか、俺の耳に入っていないだけで、すでに二人は結婚しているのではないか?
俺は、リナがグランライトで幸せに暮らせるよう、ここで魔族を食い止める。それが、リナにしてやれる俺の全てだ。
テナリオへ一緒に行きたいと言ってくれたリナの言葉は正直嬉しかった。だが、同時に、それを受け入れそうになる自分が恐ろしかった。
俺が向かうのは、生きるか死ぬかの戦場だ。敵は魔族だけではない。恐怖に駆られた人間は、時に常軌を逸した行動に出る。そんな地獄のような場所で、リナが生きていけるわけがない。そして、リナの傍を離れて戦場に立つ俺は、彼女を護り切ることはできない。
今でも、ギルドで背にした扉越しに聞こえるリナの声と、扉を叩く振動がはっきりと記憶に残っている。
何も言わないと、何も伝えないと決めた。そうすることで、リナは俺の事を嫌いになる。そして、冷酷な俺の事などすぐに忘れて、他の男と幸せになる。
俺は、遠く離れたテナリオの地でその幸せを護る。この命を掛けて魔族の侵攻を食い止め、魔族がこれ以上人間の土地に侵攻できぬよう叩きのめす。ハイデラルシアを復興できれば、その国土はそれより西の国を護る防波堤となる。
それを実現させる為にも、俺は負けるわけにはいかないのだ。
「アデルハイド様!」
外壁から階段を降っていると、一人の若者がこちらに向けて駆け寄ってくる。その肩には、大型の鷹が止まっていた。
「斥候からの知らせか」
「はい」
差し出された紙に目を走らせながら舌打ちする。
「どうされました?」
「懸念していた通りになった」
紙を背後から問いかけてきたケイトに渡しながら指示を出す。
「出撃準備だ。あちらはアゲイルを新たな魔将軍の地位に据えたようだ。これからは、今までの戦闘のようにはいかんぞ。覚悟してかかれ」
声を張り上げてそう呼びかけると、望むところだ、とばかりに歓声が上がり砦の内部に響き渡る。
それは虚勢でしかない。本当は、皆恐ろしくて仕方がないのだ。ここから逃げたいという自分の心の声を、耳を塞いで聞こえないふりをして、勇ましい事ばかりを口に出し、本心に気付かぬふりをしている。
とうとう、内部で争っていた魔族が手を結び、魔王軍が一つになった。
ふと、かつて魔王軍の猛攻の前に脆くも崩れ去ったハイデラルシア軍を率いていた父の後ろ姿が脳裏を過る。
……俺は、あなたのようにはならない。
あの別れの日から、俺はその言葉を胸に生きてきた。父が守り切れずにバラバラになったものを拾い集めるように民を率いてグランライトまで逃れ、彼らが生きる為に必要な場所を得て、ギルドで稼いだ金を与えて命を繋いできた。
それだけでは駄目だという思いはずっと抱いていた。こんなやり方はいつか破綻する。だが、それが分かっていても、根本的な解決方法を見出せずに悶々とする日々が続いた。魔将軍を倒した功を認めたグランライトの貴族の養子にという話もあったが、その貴族の土地にハイデラルシアの民を移住させ面倒をみるという条件に難色を示されて、その縁談もご破算になった。
そのハイデラルシアの民を受け入れてくれたのはリザヴェントだ。その上、この砦の危機に現れて、俺の命を救ってくれた。
グランライト内部の政治的な事情があったとはいえ、その機会を利用し、まるで抜け駆けのようにリナと婚約を結んだことは今でも許せない。だが、彼には返しきれない大きな恩がある。それに、彼はグランライト王国宰相の甥であり、魔導室長の座にある天才魔導師だ。少々変わった所はあるが、リナを護れるだけの身分も地位も実力もある。
「……ん?」
思わず目を瞬かせる。
何故か、そのリザヴェントが兵を掻き分けながらこちらに近づいてくる姿が見えるのだ。自分の思いに囚われ過ぎて、ついに幻が見えるようになってしまったのだろうか。
だが、俺の腕を掴んだその男は幻などではなかった。
魔法回廊が試験的な運用を開始して、グランライトの魔導師だという者も時々ここへ現れるが、魔導室長という立場にあるこの男が現れたのは俺が命を救われたあの日以来だった。
「来い」
そう言うなり、いきなり俺の腕を掴むと、リザヴェントは俺をどこかへ引っ張って行こうとする。
武官ではない魔導師とは思えない力に呆気に取られ、弾みで二三歩よろめいてしまったが、慌てて踏みとどまりその手を振り払った。
「お、おい。ちょっと待て。どこへ連れて行くつもりだ」
「グランライトだ」
当然のように言い放たれたその言葉に呆気に取られ、思わず間抜けな面になってしまう。
「何でまたいきなりそんなことを……」
「リナが危ない。もうあと数日もつかもたないかの命なのだ」
……何を言われたのかすぐには理解できなかった。いや、頭が理解することを拒否したのか、思考が追いつかない。
呆然としながら首を傾げる俺の腕を、リザヴェントは苛立たし気に再び掴んだ。だが、そのリザヴェントの手首を掴んで俺から引き剥がしたのはケイトだった。
「何なの、あんた。いくらグランライトの偉い魔導師様だからって、うちの隊長に好き勝手されたら困るんだよ」
「……離せ」
リザヴェントの赤に近い紫色の瞳が妖しく光る。これはまずいと、慌てて二人を引き離した。
魔法での攻撃を食らわされそうになったと分かっているのかいないのか、ケイトはリザヴェントを睨みつけると、俺に食って掛かってきた。
「隊長、何なんですかこの人は! 第一、魔王軍が攻め込んでくるって時に、隊長に何処かへ行かれてしまったら困るんですよ!」
「という訳だ、リザヴェント。俺は今、ここから離れる訳にはいかんのだ」
向き直ってそう答えると、リザヴェントは喉の奥から絞り出すような声で問いかけてきた。
「……リナに、もう二度と会えなくてもいいのだな?」
嫌に決まっているだろう、と心の中で叫んだ後、不意に強烈な怒りが込み上げてきた。
……何故、リナを手に入れたこの男に俺がそんなことを言われなくてはいけないのだ。
怒りで頭の中が沸騰しそうになる。それを必死で押し殺して、努めて冷静に振る舞った。
「仕方あるまい。もしそうなるのなら、それが運命というものだ」
「リナはずっと、お前の事を想い続けていたとしてもか?」
思いがけない言葉に、驚きのあまり目を見開いてリザヴェントを凝視する。
俺の目の前で、リザヴェントは懐から何かを取り出すと、俺に向かって突き出してきた。反射条件で掌を差し出すと、その上に何かが落とされる。
それは、まるで俺の瞳を取り出したかのような綺麗な空色の石が埋め込まれた指輪だった。
「リナはそれを、肌身離さず身に付けていた」
息が喉の奥に詰まって、吐くことも吸うこともできないほどの衝撃だった。
「……まさか」
「私との婚約は、リナがお前をギルドまで追っていった日に解消された。それからずっと、リナは独りだ」
それを聞いて、身体から力が抜けていくのを感じた。
知らなかった。リナはとっくにこの男と幸せになっていると思っていたのに。
「何があった。リナはどうして……」
「隣国の王弟に目を付けられ、攫われて国境の樹海に逃げ込んだ。そのまま我が国へ戻って来ようとして、……崖から落ちた」
ヒュッ、と自分の喉の奥から悲鳴に似た音が漏れるのが聞こえた。
「神官の治癒術で一命は取り留め、すでに怪我は癒えているが、何故か目を覚まさない。このまま意識が戻らなければ、もう長くはもたないだろうと言われている」
……リナが、死ぬ。
目の前が真っ暗になったような気がした。
グランライトにいれば、リナは幸せになれると思っていた。俺は、その幸せな日々を守る為に戦っているのだと。それなのに……。
「リナは言っていた。お前にもう一度会って、ちゃんとお別れがしたかったのだと。陛下は、その願いを叶えてやりたいと仰せだ」
あの若き王が、それを望んでいる。我々の為に魔法回廊を完成させ、遠く離れた地から最大限の支援をしてくださっているあの御方の望みを無視する訳にはいかない。
その時、不気味な咆哮が遠くから響いてきた。
見上げれば、小さな黒い点のように見える魔鳥が空を舞っているのが見える。あれ自体が攻撃してくる訳ではないが、魔王軍の諜報を担っているその魔鳥の飛来は、魔王軍がこちらに向かっていることを示している。
「……リナ」
無意識のうちに、震えるほど強く拳を握り締めていた。
本当にリナが死んでしまうのだとしたら、息のあるうちにもう一度会いたい。例えもう二度とあの笑顔が見られないのだとしても、会って詫びたい。
ギルドまで追いかけてきてくれた時、会うこともせず、何一つ言葉も発しなかったことを。お前の顔を見たら、言葉を交わしたら、そのままグランライトに置いていける自信がない。テナリオへ連れて行ったら、必ずお前を不幸にしてしまう。そう自分勝手に判断して、お前を拒否した。
言葉が届かなくてもいいから、お前に謝りたい。
だが……。
周囲が慌ただしくなる。隣国で開発された魔法砲弾の砲台を門の外へ押し出す音、厩から引き出された馬の嘶き、訳もなく己を鼓舞する為に喚く兵の声。
「リザヴェント、俺は……」
俺は、行けない。
魔王軍が迫りつつある今、俺の存在を頼りにこの地で命を掛けて戦おうとしている者達を置いては行けない。
身を裂かれるような思いでそう続けようとした時だった。
俺の言葉を制するように、リザヴェントが手にした杖の先を勢いよく地面に突き刺した。
「よろしい。加勢しよう」