60.その後、神官は……エドワルド視点
「……リナ」
呼びかけながら、掛布から右手を取りだしてそっと握り締める。以前は小さくも女性らしく丸みを帯びていたその手は、すっかり骨が浮いて血管が透けて見えるほど白い。
握り締めれば壊れてしまいそうなその手を両手でそっと包み込んで、治癒術を発動する。ほんの僅かでも、リナの命を長らえさせるために。
ハイランディア領の小さな神殿に突然リザヴェントが現れたのは、夜も明けきらない時刻のことだった。
早朝の祈りの時刻に合わせて神殿に足を踏み入れた途端、魔法陣から現れたリザヴェントを目にして、思わず入り口の扉に背から張りついた。
「……どうしました。何かあったのですか?」
杞憂だ。きっと大丈夫だ。そう自分に言い聞かせながらも、問う声が震えてしまうのを抑えることができなかった。
リナの身に異変があったことは、遠く離れたハイランディア領の片田舎にあるこの神殿にまで届いていた。ただ、入ってくる情報は酷く曖昧で、しかも本当にリナが起こしたとは思えないその内容をとても鵜呑みにすることはできずにいた。
真相を知りたいという気持ちは日毎に高まっていたけれど、僕はこの神殿で唯一の神官だ。育てている薬草も、面倒を見ているハイデラルシアの民のことも何もかもほったらかしにして、勝手に王都へ赴く訳にはいかない。
それに、しがない一介の神官が加わったところで、他国の手に渡ったリナをどうすることもできない。それより僕は自分にできることをしなければ。それが巡り巡ってリナの為になるのだから。リナの事が気になって仕事に手が着かない状態の己にそう言い聞かせていた。
だから、薄暗い神殿の中でも分かるほど青ざめたリザヴェントの顔を見た瞬間、膝から崩れ落ちそうになった。
……まさか、リナの身に何か。
「王城へ戻ってきてくれ、エドワルド」
「どういうことですか。まずは事情を説明してください……」
最後まで言い終わらないうちに、リザヴェントは僕の手を掴んで魔法陣の中に引っ張り込もうとする。
「説明は後だ。兎に角今は時間がない」
その尋常ではない様子に、これはいつものマイペースとは少し違うと感じた僕は、抗うのを止めて大人しく移動魔法で王城へ運ばれたのだった。
しばらくぶりの中央神殿は、王女殿下が魔王の手の者に攫われた時よりももっと重苦しい雰囲気に包まれていた。
久しぶりに顔を合わせた神官達は、僕を見ると驚いたように目を見開いた。
先日、中央神殿からの追放命令が取り消されたけれど、僕はハイランディア領の神殿に残ることを選んだ。そのせいで、神官達の中には僕の事を気に食わないと思う人もいるだろう。
だが、周囲の人々の思惑や、久しぶりに戻った中央神殿に懐かしいと思いを馳せている場合ではなかった。リザヴェントは僕の腕を掴むと、迷うことなく広間を横切り、神殿内にある一室のドアを開けた。
決して広いとは言えないその部屋に、幾人もの人々がひしめいている。神官長をはじめ、五人の神官は僕の記憶にある限り治癒術の使い手として優れた方ばかりだった。
「エドワルド」
そのうちの一人が振り返って驚いたように目を見張っている。彼は以前と全く変わらないけれど、向こうは僕の変わりように唖然としているようだ。
「ルーカス。これは……」
彼に近づいて覗き込んではじめて、神官達が取り囲んでいるベッドに横たわっている人物がリナであることに気付いた。その顔を見て思わず息を呑む。
「大丈夫だ、リナちゃんは生きているよ」
僕の受けた衝撃を察してくれたルーカスが、そう否定する。けれど、すっかり血の気が失せたリナの顔は、まるで死人のようだった。
「……でも、怪我は全て治癒したはずなのに、目を覚まさないんだ」
悲痛な声で呟いたルーカスを振り返り、悲し気な表情で目を伏せる彼の両肩を掴んでどういうことだと問い詰めると、背後から神官長の厳かな声が聞こえてきた。
「説明しよう、エドワルド。ついてきなさい」
リナが寝かされている臨時の救護所の隣にある部屋で、神官長がリナの身に起きたことを説明してくれた。僕の精神的なダメージを心配したのか、ルーカスも一緒についてきて隣の席に座り神官長の話を補足してくれた。
リナはフェルゼナットの王弟の策略で攫われ、自力で樹海を突っ切って戻って来ようとしていたが、崖から転落して大怪我を負い、今もなお意識不明の状態にあるのだという。
「怪我は完治しているのに、目を覚まさないとはどういうことですか?」
魔将軍との戦いでは、僕もリザヴェントも落ちてきた建物の下敷きになり、かなり危険な状態にあった。頭部もかなり強打していたはずだが、それでも治癒術で翌日には起き上がれるほどに回復したのだ。
それなのに、リナの意識が戻らないとはどういうことなのだろう。
「それが分からないから困っておるのだよ」
神官長が皺だらけの目尻に疲労の色を濃く浮かべながら溜息を吐いた。
「今は、内通者の処罰やフェルゼナットへの報復措置等に追われていらっしゃるが、いずれ陛下にもこの異常な事態をお伝えせずにはいられなくなるだろう。それまでに、意識が戻られることを祈るばかりだが」
力及ばぬ責任を問われるのを恐れているかのようなその言葉に、胸の奥から静かな怒りが沸き上がってくる。中央神殿の上層部に蔓延している事なかれ主義は相変わらずのようだ。
「エドワルド。リナちゃんについてあげてくれ」
ルーカスにそう声を掛けられて振り向くと、いつも余裕の表情を浮かべている印象しかなかった彼が真剣な眼差しで僕の手を取った。
「お前が治癒術でリナちゃんの体力をもたせてくれている間に、俺達はリナちゃんが目覚める方法がないか調べる。だから頼む」
そうして、僕は王城の一室に移されたリナの傍につくことになった。
リナは意識がない為、何も口にすることはできない。下手に薬を飲ませて誤嚥を起こせば、肺を病んで逆に命を縮めてしまうかも知れない危険があった。
僕は思考錯誤しながら数々の香を調合した。最初は、目覚めてくれればいいと祈るようにミントや柑橘系の香を焚いてみた。けれどそれも全く効果がないようなので、今はせめて少しでも眠っているリナの心が安らぐようにと薔薇やラベンダー等を使うようにしている。
床ずれを起こさないように体位を変えたり、シーツや寝間着を交換したりなどの看護をしている侍女達の中には、以前城でリナの世話をしていたハンナという女性の姿もあった。彼女は聖女の位を与えられたリナと距離を置いて王城へ残っていたが、その決断を悔いているようだった。
「リナ様。こんなことになるのなら、お側にいればよかった。……嫌ですよ。このままなんて、絶対に嫌ですからね」
濡れた布でリナの顔を優しく拭う彼女の泣き声を、壁際に立ったまま聞こえないふりをする。
彼女の嘆きが日に日に切実になっていくのを聞きながら、その時が迫っているのを肌身で感じていた。
僕を中央神殿に連れてきたその日の夜、リザヴェントはファリスを連れて王城へ戻った。
リナを連れ帰る為に移動魔法を発動した直後、樹海の中にいた騎士達は魔物の襲撃を受けた。それまで驚くほど少なかった魔物は、それまでの反動のように樹海の中に溢れ返り、騎士達は同行していた村人達を護りながら必死で脱出したのだという。
負傷者は出たものの、幸い死者はおらず、中央神殿や周辺の神殿から派遣された神官に治癒術を施されて全員が回復した。今日も部下を率いて周辺の村まで溢れ出た魔物の掃討に当たっていたファリスは、夕刻村に戻って初めてリナがまだ意識不明であることを知ったのだという。
「何故だ。何故リナは目を覚まさない?」
魔物との戦いで所々破れ、自身と魔物の血で汚れた格好のまま、血走った目で掴みかかってきたファリスは、僕が黙って首を横に振ると、呻きながら膝から崩れ落ちた。
無責任に、大丈夫、もうすぐ目を覚ますだろうと楽観的な推測を語って慰めても、後々余計に彼を傷付けてしまうことになりかねない。
そのまま項垂れて肩を震わせていたファリスは、やがてふらりと立ち上がった。真っ青なその顔には、ファリスとは思えないほど恐ろしい悪魔のような表情が浮かんでいる。
「ファリス、どこへ……?」
そのただならない様子に思わず声を掛けると、押し殺した低い声が返ってきた。
「あいつを殺してやる」
彼が言うあいつとは、フェルゼナットに内通していた主犯と目されているクラウスという男のことに違いない。
クラウスは、昨晩のうちに王城から派遣された複数の騎士と魔導師によって移送され、今は城の地下牢に投獄されている。陛下の命令の元に取調官という名の拷問吏の手で取り調べが続いていると聞いていた。
咄嗟に、まるで幽鬼のような形相で扉へ向かうファリスの腕を捕らえ、振り払われないように力を込める。離せ、と無言で睨みつけてくるファリスの恐ろしい目を、逆に全力で睨み返した。
「止めてよね。きみに一思いに殺されて終われるほど、あいつの罪は軽くないからね」
声が震えないように挑発的にそう言い放つと、ファリスの表情が微かに揺らいだ。
「それこそ、生きている方が辛いと思えるほどの拷問の末に、大勢の人たちの前で恥辱に塗れながらむごたらしい死を迎えてもらわないと。聖女を慕う者の手に掛かったとなったら、下手をしたらあいつは被害者になるよ」
僕の言葉は、神に仕える神聖な職にある者として相応しくないだろう。けれど、復讐に駆られたファリスを止めるには、こう言って私刑は逆にクラウスを利することになるのだと説得するしかない。
ファリスの凍ったような表情が崩れ、エメラルドグリーンの瞳が人間らしい光を取り戻し、やがてそこから大粒の涙が溢れて頬を伝った。
「……だが、俺は、リナに何もしてやれない」
「そんなことはないよ。魔物を狩って、住民を守ってくれたんだろう? 誰一人犠牲を出さずに。それを知ったらリナは喜ぶよ」
リナが樹海にいる間、魔物の出現が異様に少なかったのは『神の涙』の力ではないかと神官達の間で囁かれている。そして、『神の涙』が樹海から消えるや否や反動のように湧き出てきた魔物によって犠牲が出たとなれば、リナは感じる必要のない罪悪感に苛まれるだろう。全力を尽くして魔物を狩り、人命が失われるのを阻止してくれたファリスに、リナはきっと感謝するに違いない。
ファリスは力なく頷くと、ベッドの傍へ戻り、指先でそっとリナの頬を撫でた。
しばらくじっとリナの寝顔を見つめていたファリスの視線が動き、ふとサイドボードの上に置かれた指輪を捉えた。
「……リナは、まだあいつのことを」
リナがペンダントの鎖に通して身に付けていたこの指輪の存在を、ファリスは知っていたのか。驚きを隠せずにいると、ファリスは自嘲するように息を吐きだした。
「崖下でリナを発見した時、ブラウスのボタンの間からこれが出ていた。きっと、崖から落ちる前に、取り出して眺めていたんだろうな。あいつのことを想って」
そう語る乾いた声は、ファリスの受けたショックの大きさを表しているようだった。
しばらくリナの寝顔を見つめていたファリスは、迎えに来た騎士達に付き添われて部屋を後にした。
翌日、ファリスがセリル村に戻ったことを知らされた。
樹海とその周辺には、まだ魔物が出没している。その掃討の指揮を執り、その後は派遣される軍と合流して国境まで赴くのだと、後にリザヴェントがそう教えてくれた。
リナがこの部屋に移されると、様々な人が面会を希望してやってくる。
大半は見舞いに来たという体裁を取り繕いたい貴族達で、さらにその殆どがリナの容態を知りたいと興味津々なのを隠さないふざけた人々だった。そういう方々には、予断を許さない容態であると告げて面会を丁重にお断りしている。
だが、本当に心からリナを案じて見舞いに来てくれる人達もいる。その中でも、特に王妹殿下は頻繁に見舞いに訪れてくださっている方の御一人だ。
「まあっ。まだ眠ったままですの? リナ、あなたはいつまで眠ったままでいるつもりですのっ?」
毎回責めるような口調でリナにそう呼びかける王妹殿下の眼差しは、言葉とは裏腹にとてもお優しい。口に出されていることは本心ではなく、ただ心の中にある焦燥感や悲壮感を表に出さないよう、努めて明るく振る舞っているのだということは見ていて分かる。
だが、一度だけ、リナの耳元に口を寄せて、悔いるように呟いた事があった。
「リナ、ごめんなさいね。ヴァセラン伯爵令嬢の言葉に踊らされて、わたくしあなたに酷い事を言ったわ。心に想っている人がいるのに、別の人と添うよう強要されることがどれほど辛い事か、わたくしが一番分かっているというのに」
リナが王妹殿下に何を言われたのかは僕には分からない。だが、きっと王妹殿下は、リナに誰かと結婚するように迫ったのだろう。リナがアデルハイドの瞳の色と同じ石の指輪を肌身離さず身に付けていたことを知って、後悔の念に囚われているようだった。
ヴァセラン伯爵令嬢と言えば、クラウスの従妹に当たる。今回の事件に関わっていた容疑で、父親の伯爵共々取り調べを受けたという話は聞いている。例えヴァセラン伯爵が無実だったとしても、血縁関係のあるシトラン家の子息が主犯であるとなれば、伯爵家も只では済まないだろう。
「早く目を覚ましてちょうだい。でないとわたくし、そろそろお嫁に行ってしまいますわよ」
王妹殿下の婚約発表は、調査隊の帰還と同時に執り行われることになっていた。それに加えて、我が国と東の国々との同盟や、魔法回廊の完成など、魔族と対抗する為にこれまで陛下が心血を注いで取り組んでこられた成果がお披露目されるはずだったのだ。西に憂いを抱えることになって、それらは停滞、いや、後退してしまうかもしれない。
改めて、フェルゼナットへの怒りがまた沸々と湧き上がってきた。
五日目。聖女家に仕えているという執事と侍女が、使用人達の代表としてやってきた。二人とも、リナの看護を自分達にやらせてくれと願い出たけれど、リナの傍にいたいという理由なら治療の妨げになるから遠慮して欲しいと断った。
ハンナをはじめリナが王城で暮らしていた時に仕えていた侍女達が看護をしたいと希望していて、人手は充分足りている。それに、聖女家の使用人では勝手の分からない王城で逆に足手纏いになりかねない。可哀想だとは思ったけれど、僕は敢えて非情に振る舞った。
肩を震わせて泣き出したノアという侍女は、リナに縋り付き、許可された面会の時間一杯喋り続けた。
「皆、リナ様のお帰りをお待ちしております。お庭の薔薇はますます綺麗に咲き誇って、庭師も是非リナ様に見ていただきたいと言っておりますよ。そうそう、また料理長が新しい料理のレシピを手に入れたのですよ。南方で採れた苦い豆に砂糖とミルクを加えて作る、とろけるような美味しさの飲み物だそうです。どうやらそれが、リナ様が向こうの世界で大好きだったというチョなんとかというお菓子に似ているのではないかという話になっているのですよ。ですから、ね? 戻りましょう。皆、待っていますから。……お願いですから、目を開けてください、リナ様……っ」
泣き伏したノアの肩を抱くように立たせて慰めながら、執事は悲痛な表情を浮かべてリナを見つめていた。
よろめくノアを扉の所まで連れて行くと、引き返してきた執事はベッドの傍に膝を着き、胸に手を当ててリナに頭を垂れた。
「リナ様。俺に上着をかけてくださったその意味を、あなた様が分かってそうしたとは思っていません。ですが、俺はあの時から、あなた様を唯一無二の主だと思っているのですよ。それをまだお伝えできていないのに、このまま二度と目を開けてはくださらないつもりですか? ……それは、あんまりではありませんか」
この執事は、ジュリオス様に仕えていた関係で、リナの状態がいかに厳しいかを知っているのだろう。もしかしたら息がある状態のリナに会えるのはこれが最後かも知れない、と覚悟しているかのようなその言葉に、痛いほど胸が締め付けられた。
七日目。神官長が陛下にリナの深刻な状況をお伝えしたその日の夜、リザヴェントが訪ねて来た。
まるで従軍でもするのか、と思われる立て襟の軍服に分厚い黒のローブを纏った彼は、日頃は持ち歩かない魔導師の杖まで手にしていた。王女救出の旅の時や魔将軍の襲来時に持っていたその杖には、魔力を増幅させる特殊な石が填め込まれている。
「どうしたのですか? まさかあなたも国境の軍に加わることになったのですか?」
ファリスは今、トライネル様率いる一万の軍と合流し、国境地帯に展開しながらその一部を率いて樹海周辺の魔物を狩っている。その援護に行くのか、それともいよいよフェルゼナットへの軍事行動を開始することになったのか。
けれど、リザヴェントは僕の問いかけに黙って首を横に振った後、屈みこんでリナの耳元に口を寄せた。
「私が戻るまで持ちこたえるのだぞ、リナ」
……まさか。
目を見開いた僕に顔を上げて振り返ったリザヴェントは、それまで見たことがないほど清々しい笑みを浮かべていた。