59.その後、王城では……クラウディオ王視点②
真夜中、神殿から『神の涙』の反応が樹海の中央付近に現れたという報告を受けた時には耳を疑った。
……まさか、右も左も分からぬ異国の地であるにも関わらず、リナが自分を連れ去った犯人の手から逃れ、樹海に逃げ込んだとでも言うのか?
「……信じられない。何という馬鹿な真似を」
もしその憶測が事実だとすれば、無謀としか言いようがない。呆れて果てると同時に、あの一見非力なリナがそこまでやってのけたのだと思うと、自然と口の端に笑みが浮かんでくる。
リナはそうまでして我が国へ戻って来ようとしている。……私の元に。
ジュリオスがフェルゼナットに放っている密偵からは、まだリナを王宮へ移送している者達を発見したという報告は入っていない。それでも密偵か、と彼らを無能者扱いし今の今まで罵っていたのだが、犯人は逃げたリナの行方を追って樹海周辺を探し回っているのだろうから、王宮へ向かっているそれらしき馬車を密偵達が見つけられないのも当然だったのだ。
しかし、異国で誰も頼る者もいないにも関わらず、よりにもよって魔物が跋扈する樹海に逃げ込むなど、あいつのやることは馬鹿過ぎて言葉も出て来ない。
「このことをすぐにセリル村へ伝え、樹海を捜索させよ」
真夜中を過ぎた時刻であるにも関わらず、呼び出しに応じて即座に駆けつけてきたジュリオスにそう命令を出しながらも、すぐに別の考えが脳裏を過る。
『神の涙』は、すでに他者の手に渡ったのではないか? リナが落としたか、あるいは奪われて他人の手に渡ったか。あるいは獣が飲み込んで樹海の中をうろついているだけなのではないか。
そうでなければ、フェルゼナットの手に捕らえられたリナが、このような明け方に近い時刻に樹海の中央部にいるはずがない。いや、そんなところまでリナが到達できるはずがない。
だが、例え空振りに終わる可能性が高くても、命じずにはいられなかった。『神の涙』の場所を示すその光が差す所にリナがいて、必死に我が国へ戻ろうとしている。
……結局、私がそう信じたかったのだ。
フェルゼナットと内通している疑いが濃厚だと捜査線上に浮上したのはカシュクロール伯爵だった。その娘ロザリッタは、正妃候補の筆頭として以前から名が挙がっている。
ロザリッタは幼い頃からネリーメイアの取り巻きだった。恐らく、ネリーメイアが女王になるのを見越して取り入っていたのだろう。だが、私が即位したことと、ネリーメイアがリナを可愛がっていることが気に入らなかったのが理由だろう。最近は王妹と距離を置き、まるで自分がすでに正妃であるかのように振る舞い、他の正妃候補達に威圧的な態度を取っていた。
カシュクロール伯爵を王城に呼び出したのは昨日の朝のこと。嫌疑が掛けられていると追及すると、最初は滅相もないと完全否定した。発覚すれば一家諸共身の破滅だ、そう簡単に自供するはずもない事は承知している。
宰相やジュリオスの手の者を使って集めた証拠を突きつけると、ようやく観念した伯爵は自供を始めた。娘が正妃になる為に邪魔な聖女を排除してくれるならと、資金を援助する等の協力をしたと。だが、自分は主犯ではない。話を持ち掛けてきたのは聖女と同じ部署にいる若い官吏だと、そこだけは頑として譲らなかった。
これまでの捜査に加えて、カシュクロール伯爵の証言を交え、フェルゼナットと内通していると思しき数名の若い官吏や騎士達の名が挙がった。その中には、先王の時代には実力を認められずに埋もれていたところを、私の代になって引き抜いた優秀な者達もいた。
特に、主犯と目されるクラウス・シトランは、今後魔王軍との戦いに際して大陸の東にある国々と連携するため、対魔情報戦略室という組織を更に拡大する、その為に必要不可欠な人材だった。その働きを期待していただけに、奴の裏切りはかなりの痛手だった。
クラウスはまだセリル村にいる。捕縛と尋問はファリスに一任し、昨日のうちに完了して報告が上がってきている。一夜明け、本来なら今日、クラウスともう一人の容疑者が移動魔法で送られてくる予定だったのだが、『神の涙』の反応が樹海の中に現れたことで捜索を優先させているのだろう。王城へ身柄が送られてきたという報告はない。
夜明けとともに開始された樹海内部の捜索だったが、昼を過ぎてもリナが見つかったという知らせはない。執務室で政務をこなしていても気が気でなく、全く仕事が手につかない。
昼から夕刻に近い時間になった頃、ジュリオスが伝書鳩によってもたらされた情報を持ってやってきた。フェルゼナットに潜入している密偵からのものだった。
ようやく聖女を王都に移送していた者達らしき一団を発見したが、何故か彼らは樹海に程近いザグという村から動いておらず、そこに昨日からフェルゼナットの兵が百名ほど集結して、樹海やその周辺を捜索しているというのだ。
これでもう間違いない。リナは樹海の中へ逃げ込み、そのまま樹海を突っ切って我が国に戻って来ようとしているのだ。何という無謀で大胆なことをしてくれているのだろう、あいつは。
だが、日が傾く時刻になっても、まだリナを発見したという報告はない。
さすがに苛立ちが頂点に達しようとしていた時だった。神殿から、リザヴェントが移動魔法で戻り、神官三名を連れて再び樹海へ発ったという報告があった。
「神官を? ……まさか」
その理由は一つしか考えられない。誰かが怪我を負ったのだ。
それがリナだと考えたくもなかったが、リザヴェントがそんな行動を取るとしたら負傷者はリナとしか考えられない。
すぐに神殿へと駆けつけると、広間には大勢の神官が集まっていた。
「何事だ」
「これは陛下。実は、リザヴェント様が治癒術の使える神官をここへ待機させておくよう言い残されていかれましたので」
神官達を掻き分けるようにして現れた神官長が恭しく頭を下げる。
「三名も連れて行った挙句、まだ必要だというのか」
「そのようです。本来なら、怪我をされた方をこちらへお連れ頂いた方が早いと思うのですが、そうなされなかったということは、動かすのも危険な状態であると考えられます」
神官長の言葉に愕然として言葉を失う。
樹海は、魔物が跋扈する危険な場所だ。その中を、リナは武器も持たずに一人で彷徨いながら、必死に我が国へ戻って来ようとしていたのだ。
『神の涙』の反応が動いていたから、無事であると単純に思い込んでいた。樹海の危険性をもっと切実に捉えて、捜索態勢を拡大させるなどの措置を講じなければならなかったのだ……!
ぎゅっと拳を握り締めた時だった。不意に魔法陣が光を放ち、そこに人影が現れる。
「……リナ!」
リザヴェントと三名の神官に囲まれ、魔法陣の中に横たわった状態で現れたリナは、まるで人形のように青白い顔をしたままピクリとも動かない。
……生きているのか?
一瞬、そんな縁起でもない思いが脳裏を過るほど、リナには生気が感じられなかった。
「応急処置は施しましたが、頭を強く打っておられます。その他の怪我もまだ治癒が必要です」
駆け付ける神官達に、魔法陣の中にいる若い神官が説明しながら場所を空ける。その足元が覚束ないのは、治癒術を使い続けて疲弊しているからだろう。他の二人の神官達も疲弊しきった表情で、仲間に支えられながら歩いている。
「陛下、こちらへ」
その光景を呆然と眺めていると、不意にジュリオスに腕を引かれた。そのまま壁際に寄れば、さっきまで私が立っていた場所を、神官達が担架にリナを載せて走り抜けていく。
その時、目の前を通過していくリナの上着の左胸に『神の涙』が光を放っているのが目に入った。そのまま、神殿の一画に設けられた救護所に運び込まれていくその姿を呆然と見送る。
……リナを護ってくれとあれほど祈ったのに、何故護ってくれなかったのだ!
怒りと、神に見捨てられたのだという絶望に似た悲しみが突き上げてくる。
けれどすぐに、いや、護ってくれたからこそリナは息のある状態で戻って来られたのかも知れないと思い直した。ならば、そのまま『神の涙』をリナから離さない方がいいだろうと、神官長に駆け寄ってそう命じる。
城内から神殿内に通じる扉を通って、布や水の入った盥を手にした侍女達が救護所に駆け込んでいく。男ばかりの神官では憚られる世話を行うために呼ばれたのだろう。
そんな光景を半ば放心状態で見つめていると、ジュリオスが歩み寄ってきて、気遣うようにそっと耳元で囁いた。
「陛下。我々がここにいても、何の役にも立てません。それよりも、他にやるべきことがございます」
「……そうだな」
リナを救う為にと打った数々の布石は、そのほとんどが必要なくなってしまった。だが、リナが戻ってきたからといって、このままフェルゼナットの悪行をなかったことにするつもりはない。
帝国からの協力を得ながら、フェルゼナットの非道を追求する。フェルゼナット王が自ら責任を取るのも良し、弟を切り捨てるも良し。こちらが只では済まさない意志を示す為にも、国境には予定通り軍を派遣する。そのついでに樹海で大規模な魔物討伐の訓練を行えば、フェルゼナットへの威嚇にもなるだろう。何なら、奴らの妄想通り、こちら側からあちらに魔物を追い立ててやろうか。
そして、リナの意識が戻ったら、すぐにあの計画の事を話してやろう。
――元気になったら、お前が本当に望んでいた願いを叶えてやる。
そう言ってやったら、リナはどんな顔をして喜ぶだろうか。
それを想像するだけで、ここ数日の疲れが吹っ飛んでしまうほど気分が高揚してきて、胸に温かいものが広がっていった。
……だが、翌日になっても、二日経っても、……七日が経過してもリナは目を覚まさなかった。
「どういうことだ? 何故リナの意識は戻らないのだ」
リナが戻って五日目の夕刻、とうとう痺れを切らして神官長を問い詰めた。
「外傷は全て癒えております。頭部を強く打たれておりましたが、特に念入りに治癒術を行いまして、本来ならもうとっくに目覚められてもよろしいはずなのですが」
恐縮する神官長の説明を聞きながら、その皺だらけの顔を睨みつける。
救護室から城内に移されたリナは、広いベッドの中央で眠っていた。
その顔には、戻ってきたばかりの時にはあった擦過傷や、血や泥の汚れはすでにない。丹念に身体を清められ、髪も洗われて丁寧に梳かれ、清潔な衣服に着替えさせられて横たわっている。今は掛布の下になって見えないが、着ている寝間着の胸には『神の涙』が取り付けられている。
堅く目を閉じて眠り続けるその顔色は透き通るばかりに青白い。ふんわりと丸みを帯びていたはずの顔の輪郭は日に日に肉が削げていき、目は窪み、瞼は閉ざされたままピクリとも動かない。ほんの少しだけ開いた唇は血の気が薄く乾燥していて、ほんの僅かに胸が上下していなければ生きているようには思えない。
室内には、神官長の他に一名の神官と三名の侍女がいた。
壁際に控えているその神官は、ハイランディア領の神殿から呼び戻したエドワルドという者だ。以前は長かった金糸のような髪を肩の下まで短くし、神官とは思えないほど日に焼けた顔をしている。
リナがかの戦士を追って城を抜け出した際、その行動を唆したと全ての泥を被って中央神殿から追放されたこの神官を、私はファリスの騎士団副団長復帰と同時に呼び戻すつもりだった。ところが、本人がハイランディア領で製薬の研究を続けたいと強く希望したため、追放処分は解除したものの、配属先はそのままになっていたのだ。
リナが神殿に戻ってきた翌日の朝、リザヴェントがエドワルドを移動魔法で王城へ連れ帰った。それからエドワルドは、ずっとリナの傍についているらしい。治癒術を施し、少しでも目覚めるきっかけになればと香を調合して焚き、献身的な看護を続けている。意識がなく食事がとれないリナは、外傷が癒えても痩せ衰えていく一方だ。それを治癒術で少しでも遅らせているのだという。
「……リナ」
ベッドの傍らに膝を着き、掛布の下から手を取り出して握り締める。その手も今では傷一つないが、触れてみると冷たいと感じるほどに体温が低い。
「いい加減に起きろ、リナ。皆、そなたが目覚めるのを待っている」
その手を唇に持っていき、軽く口付ける。
こんなことをしたら、いつものリナなら真っ赤になって慌てふためくだろうに。
ピクリとも反応しないリナを見つめていると、胸を刺すような痛みが走り目頭が熱くなってくる。
「リナ。目を覚ましてくれたら、そなたにいい事を教えてやる。そなたが泣いて喜ぶような事だ。だから……頼む、目を開けてくれ」
両手でその手を温めるように包み込み、額に当てて祈るように呼び掛ける。だが、私の声はリナには届いていないようだった。
しばらくそのままリナを見つめていたが、遠慮がちな侍従の声で顔を上げた。どうやら、次の会議の時間が迫っているらしい。
立ち上がって踵を返そうとした時、ふと、サイドボードに置かれたペンダント用の鎖と、その鎖に通された指輪が目に入った。
これをリナが身に付けていたと、リナの看護をしているハンナという侍女に教えられた時には愕然とした。その指輪に填められている石が、リナが忘れられずにいる戦士の瞳の色そのものだったのだから。
今も、まるで至近距離からかの戦士に睨まれ、己の罪を断罪されているような気がして息が詰まる。
「……どうすればリナは目覚めるのだ?」
それが分かるのなら、神官らはとっくに実行している。それが分かっていても、そう問わずにはいられなかった。
「申し訳ございません。全力は尽くしておりますが、あとは聖女様の生きる気力のみかと」
つまり、何も打つ手はないということだ。
予想していたにも関わらず、絶望的な回答にただ呆然とする。そんな私の目を見た神官長は、見ていられないと言わんばかりにそっと視線を外した。
「……治癒術にも限界がございます。このまま目覚めなければ、数日のうちに聖女様の体力は尽きてしまいましょう」
このまま栄養も水分も補給できなければ、いずれ身体が限界を迎える。多少治癒術で持ち堪えさせられているとしても、それは僅かな時間稼ぎに過ぎないのだ。
……誰か。誰でもいい、リナを助けてくれ。
縋るように視線を走らせると、壁際に畏まっているエドワルドと視線が合った。
こんな絶望的な状況だというのに、この男の目は光を失ってはいない。リナは必ず目を覚ますと信じている、そんな目をしている。
どこからそんな自信が生まれるのだろう。自分が治療に携わっているからこそ、できること全てに手を尽くしているからこそ、そんな風に心を強く持てるのだろうか。
……では、私には何が出来るだろう。リナの為に、何が。
執務机の上に両肘を付き、頭を抱え込んだまま、その人物がやってくるのを待ち続けた。
やがて、扉が叩かれた。顔を上げ、居住まいを正して、侍従の案内で入室し目の前に立ったその人物を迎える。
長身の魔導師は、やつれたせいでその美貌にさらに艶やかさが加わったように見える。だが、その双眸は暗く、表情は硬い。
「すまぬな。多忙なところを呼び立てて」
「身に余る御言葉にございます。恐れながら、私も陛下にお願いがございます」
リザヴェントが頭を垂れると、長い紫色の髪が揺れる。
「そうか。だが、その願いを聞いてやるのは後回しだ。早急に、そなたにやって貰いたいことがある」
「どのようなことでしょう」
平静を装ってはいるが、リザヴェントの表情からは焦燥感が透けて見える。よほど急いで私の許しを得たい要件があるらしい。
だが、私にも先にリザヴェントの願いを聞き届けてやれるほどの余裕はなかった。
「魔法回廊はすでに開通し、試験的な運用が始まっていると報告を受けている」
「……はっ」
肯定したリザヴェントの瞳が揺れ、まさか、と目を見開く。
その美しい顔にはっきりと喜色が浮かぶのを目にして、彼が望んでいることと、私がこれから命じることが同じであることが同じなのだろうという予感がした。