58.その後、樹海では……リザヴェント視点②
樹海の入り口に作られた魔法陣から足を踏み出すと、我々に気付いて振り返った副官代理の騎士の表情が盛大に引き攣った。
「ふぁ、ファリス様? どうされたのですか。逃げた内通者達は……」
「捕らえた。尤も、一人は死んだがな」
え……、と驚きの声を上げる副官代理の横を通り過ぎ、ファリスはそのまま足を止めずに樹海の中へ入っていく。
そのただならない殺気に、呼び止めようとして伸ばした手をそのまま力なく下ろした副官代理が、こちらに物問いたげな視線を送ってくる。
「行かせてやってくれ。魔物相手に暴れたら、少しは落ち着くに違いない」
そう答えた私自身も、出来ることならこの重苦しい気持ちを暴れて発散したい。しかし、私の場合、樹海を破壊しかねないので自重することにした。
クラウスを縛り上げたままやどりぎ亭の一室に閉じ込め、複数の騎士に見張らせる。ルドルフの遺体も回収し、村人達の手も借りて現場となった家の原状回復を進める。人質となっていた女はかなりのショックを受けているが、幸い縛られた箇所が擦過傷になっているくらいで大きな怪我はない。近所の親しい者の家に預け、夫が戻ってくるまで精神的に支えてもらう。
部下に指示を出してそういった後始末を速やかに行った後、ファリスは私の部下である魔導師のルイスを捕まえ、樹海まで移動魔法で送っていけと迫っていた。
ルイスは樹海の入り口に魔法陣を作成し、そこから移動魔法でファリスを村まで連れ帰っていた。確かに樹海に戻るには移動魔法を使うのが一番早い。だが、ファリスの様子がいつもと違ってどこか危うげだった為、私も共についていくことにしたのだ。
セリル村から樹海までは目と鼻の先とはいえ、馬を駆るよりも移動魔法を使った方が格段に早く着く。リナを発見した時、王城まで速やかに連れて帰るには私自身が樹海にいた方がいい。そう思い、元々内通者らを王城まで移送し終わった後に樹海まで赴くつもりだったのだ。奴らに逃亡されて、その予定はすっかり変わってしまったが。
副官代理にルドルフが死んだこと、逃亡はクラウスがこの樹海捜索を妨害する為に仕組んだらしきことを話して聞かせると、彼は悲痛な表情を浮かべながら頷いた。
「なるほど。ファリス様のあの怒りようも分かります。私だって許せません」
「早くリナが見つかってくれればいいのだが」
今朝からの騒ぎで、クラウスは『神の涙』の反応が樹海の中に現れたことを耳にしたのだろう。だが、それを知って妨害しようと実行するまでに至ったのは、リナがフェルゼナットの手を逃れてグランライトへ戻ろうとしているという情報を、何らかの形で掴んでいたからではないのか。
だとしたら、確実にリナは樹海の中にいる。これまで半信半疑だったファリスが自ら樹海の中に分け入ったのも、そう感じているからでもあるのではないのか。
定時になると、各班から一名、定時報告に戻ってくる騎士がいる。
「ファリス様は、一体どうされたのですか?」
彼らは樹海の中で尋常ではない状態のファリスに遭遇したのだろう。困惑した表情でそう訊ねてきたが、副官代理に事情を聞くと、納得した表情で割り振られた捜索場所へ戻っていく。
「相当荒れているのだろうな」
「……でしょうね」
副官代理と顔を見合わせてしみじみと頷き合っていると、突然樹海の奥から村の青年が必死の形相で走り出てきた。
リナが見つかったのか、と身構えた私達に、その青年は深々と頭を下げる。
「申し訳ございません。人質にされていたのは俺の妻のようなのです。ファリス様に、家に戻っても良いとおっしゃっていただけましたので、失礼させていただきます」
体格のいい日に焼けた好青年だった。無事だと聞かされているだろうに、泣きそうな表情を浮かべているところをみると、愛する妻の事が心配で堪らないようだ。
その気持ちは分からないことは無い。そう思えるようになる日が来るとは、以前の私からは想像もできなかったことだった。
「そうか。早く戻ってやるといい。ああ、部下に送らせよう」
「えっ、そんな。魔導師様のお手を煩わせるなどとんでもございません」
「気にするな。不手際でそなたの妻に恐怖を味あわせてしまったこと、申し訳なく思っている。せめてもの償いだ」
魔法陣の近くで放心したように樹海の木々を眺めていたルイスを呼び寄せ、青年をセリル村まで移動魔法で送って行くよう命じる。ルイスは一見頼りなげな男に見えるが、樹海からセリル村間ぐらいの距離なら、日に何度も往復できるほどの魔力を有している。
「了解しました~。ささ、どうぞどうぞ~」
相変らずの間の抜けた声で青年を魔法陣へ誘導するルイスを横目に、再び樹海へ視線を転じる。
陛下は、先王までの体制を一新し、実力主義で若い騎士や官吏を積極的に登用していた。あのクラウスもそうだ。優秀ながらも王城の日の当たらない部署に置かれていたあの男を、新設した重要部署の中心人物として抜擢したのは陛下だ。
一体、何が不満だったのか。このままいけば、我が国の外交・防衛の中核となる対魔情報戦略室で、統括する宰相閣下に次ぐ立場を手に入れられるのは確実であっただろうに。
クラウスの目的は、フェルゼナットにリナを渡すだけだったのだろうか。いや、それならば、リナに罪を着せ、ここまで悪い噂を流す必要はないはずだ。例えそれがフェルゼナットからの指示だとしても、リナを憎んでいなければそこまでできないはずだ。
……あの子の何が気に入らないというのだ。
不意に怒りが込み上げてきて、近くにあった木の幹に拳を叩き付ける。
王女救出の旅に出た時のリナを見ていれば、彼女が異世界で何不自由ない生活をしていたことは一目瞭然だった。こちらの世界では一人で生きていくこともできないほどの生活水準で暮らしてきたリナが、突然この世界に連れて来られてどれだけ苦労してきたことか。
我が国を救って欲しいという、我々の身勝手な願いの為に、リナはそれまでの全てを失ったのだ。親も兄弟も友も、何もかも。
同じ旅の仲間だったにも関わらず、私達はそんな彼女を思いやることもしなかった。唯一、あの男だけだ。本当にリナことを気に掛けていたのは。あれだけのものを背負ってさえいなければ、あの男はリナを離しはしなかっただろう。
あの男は、王城から去る際、まるで脅すような目をして私の手を痛いほど固く握った。
――リナのこと、頼んだぞ。
その時は、まだリナとの婚約が解消される前であったから、あの男は私とリナが結婚するものと疑いもせずにそう言ったのだろう。まるで視線で人を殺せるなら殺してやろうとしているような目をしていた。
ただ、私はリナに、あの男と一緒にテナリオへ行きたいと言われて振られた後であったから、嫉妬されて逆に腹が立った。私とリナは結婚などしない、そんなことを言われても困ると言って、あの男の決心を揺るがせ困惑させてやろうかとも思った。
だが、逆に勘違いさせたまま放置しておいて、しばらく嫉妬で悶えさせてやろう。それが私にできるせめてもの仕返しだと、余裕のある笑みを浮かべて「勿論だ」と答えたのだった。
……あの時、真実を伝えていたら、あの男はどうしただろう。
リナがあの男を追いかけてギルドへ行った時、ドアを開けてリナを迎えていたのではないか。テナリオへは連れて行かなかったにしても、自分の正直な気持ちくらいは伝えたのではないか。そうしていれば、リナもその後、消化不良の想いを抱え続けることはなかったのではないか。
今になって、あの時復讐心に駆られて馬鹿な真似をした自分の行いを後悔する。
例え私が本当の事を伝えていたとしても、あの男は己の未練を断ち切るためにリナには会わなかっただろうとは思う。だが、それは私がそう思いたがっているだけではないのか。もしかしたら、リナは愛する男と結ばれていたのではないか……?
……私はいつも、リナから幸せを奪ってばかりだ。
「……リザヴェント様、大丈夫ですか?」
副官代理の声で我に返ると同時に右手に痛みが走った。見れば、無意識のうちに木の幹を叩き続けていた右手の拳に血が滲んでいた。
「ああ。少し考え事をしていた」
私の返答に、副官代理の顔に心配そうな表情が浮かんだ時だった。
「大変です!」
樹海の奥から息を切らして戻ってきた騎士が叫んだ。
「聖女様が見つかりました!」
「何だと!? それで、無事なのか? 今、どこにいる」
騎士が走ってきた方角に視線をやるが、リナはおろか誰一人後に続いて戻ってくる者の姿はない。どういうことなのだと眉を顰めると、騎士は乱れた呼吸を整えながら説明する。
「それが、どうやら我々をフェルゼナットの追手と勘違いされたようで、走って逃げてしまわれて。今、他の者達がその後を追っているところです」
その瞬間、頭の中が真っ白になった。
背後から投げかけられる副官代理の戸惑うような声を無視して、長いローブの裾を蹴飛ばすように木々の間を走る。
本当にリナは樹海の中にいたのだ。どうやってフェルゼナットの手の者から逃れたかは分からないが、これほど険しく魔物の跋扈する樹海を潜り抜けてでも私達の元へ帰ろうとしていた。
……それなのに、何故逃げる?
報告に来た騎士の言った通り、私達をフェルゼナットの追手だと勘違いしたのか? しかし、そんなもの、捜索隊の姿を目にすればすぐにグランライトの騎士だと分かるだろう。
まさか……。
嫌な予感で背筋が凍る。
ウォルターが言っていたように、リナはフェルゼナットに囚われている間に、自分が罪を着せられていると吹き込まれていたのではないか。だから、騎士の姿を見て、自分を捕えにきたと思い込んでいるのではないか。
「……違う。リナ、違うぞ!」
すでに樹海の中では、騎士達がリナの姿を追って連携した動きを見せている。同じ方向へ向かって各所から集まってくる騎士達に、乱れて苦しい呼吸の中から必死で叫んだ。
「追うなっ。追い詰めるなっ……!」
だが、私の言葉が彼らに届くより早く、前方から叫び声が上がる。
「いたぞ!」
「本当か?」
その声に導かれるように駆け出した私の耳に、狂ったように何かを叫ぶ男の声が聞こえた。
「――リナ!!」
狂乱したように連呼されるその名と、聞き覚えのあるその声に、全身から血の気が引いていく。
……まさか。
半ば呆然としながらも木々の間を駆け抜けていくと、不意に体格のいい騎士に腕を掴まれた。
「リザヴェント様、お気を確かに。足元にお気を付けください」
そうやって制止されていなければ、私も無事では済まなかっただろう。あと一歩踏み出していれば、二階建ての高さの建物ほどもある崖から転落していた。
眼下に横たわっているリナのように――。
「リナッ! リナッ!! 頼む、目を開けてくれっ!」
叫び続けるファリスを、騎士が二人がかりで左右から取り押さえている。
「ファリス様! 駄目です! 頭を打っておられるのですから、不用意に動かしては!」
「離せっ! リナッ! ……リナァッ!!」
狂ったようなファリスの声が樹海の中に響き渡る。
崖の下に降りられる獣道を案内してくれた騎士を追い抜いて駆け寄ると、横たわったままピクリとも動かないリナを呆然と見下ろす。
……これは、もう。
血の気を失った顔は、血と泥で酷く汚れていた。乱れた髪が濡れているように見えるのは、頭部からの出血のせいだろう。汚れて所々破れた衣服を纏って力なく横たわったその身体は、まるで壊れた人形のようだった。その胸元で輝きを放っている『神の涙』の存在が、更にリナの生気のなさを際立たせているように見える。
そして、リナのブラウスのボタンとボタンの間から引っ張り出されたかのように覗いているのは、ペンダント用の鎖に通された指輪だった。その指輪に填め込まれた石を見た瞬間、胸に楔を打ち込まれたような衝撃を受けた。
……リナ。お前はそれほどまでにあの男を。
その時、リナの傍らに片膝をついて脈を取っていた騎士が、泣き出しそうな表情で私に縋り付いてきた。
「リザヴェント様。聖女様は微かにですが、まだ息はあります」
「……何だと?」
騎士を押しのけるように首筋に触れると、微かにだが脈が触れた。
「ですが、頭を酷く打っておられるようで、ここから移動させることもできません。下手に動かせば、それが命取りになる可能性もあります」
「分かった。私がここへ神官を連れてくる」
そう答えると、その騎士はホッと表情を緩めて頭を垂れた。
……一刻の猶予もない。
ここから樹海の入り口にある魔法陣まで戻り、神官を連れてまたここまで戻ってくるまでの余裕はない。
立ち上がると、木々の間にある地面に手を当てて魔力を込める。そのまま意識を集中して魔力を練り上げていくと、降り積もった落ち葉の上に光り輝く魔法陣が現れる。
物理的に魔法陣を作成する猶予がない時に魔力を練り上げて作る、一定の時が経過すれば消えてしまう移動魔法用の魔法陣だ。これを作り出せる魔導師は、我が国には私ぐらいしかいない。
そのまま移動魔法を発動して王城の神殿へと戻ると、複数の神官達がこちらに背を向けて鏡から祭壇に置かれた地図に落ちる『神の涙』の反応に釘付けになっていた。
ふと気配を感じたように振り返り、私が戻ったことに気付いた神官ルーカスが、驚いた表情を浮かべて駆け寄ってくる。
「リザヴェント様!? 聖女様は……」
「治癒術を使える者を呼べ。取り敢えず三名、あとはこの広間で待機させろ」
緊迫した私の口調で、皆まで聞かずとも察したのだろう。顔色を変えたルーカスは、数名を呼び寄せて素早く支持を出すと、左右一人ずつ神官の手を引いて駆け戻ってきた。
詳しい事情を語る時間も惜しい。彼らが魔法陣に足を踏み入れるやいなや、無言で再び移動魔法を発動させた。
「これは……」
ルーカスを含め三名の神官は、リナの惨状を目にして呆然と立ち尽くした。だが、すぐに気を取り直したようにリナを取り囲み、頭部を中心に治癒術を施し始める。
その時には、すでにファリスは叫ぶのを止めていた。やや離れた場所で部下達に囲まれながらがっくりと膝を折り、項垂れて肩を震わせている。
近づいていって肩に手を置くと、ゆっくりと顔を上げたファリスは今にも壊れてしまいそうな表情をしていた。
「リザヴェント。……リナは」
「大丈夫だ。助かる。助けてみせる」
実際にここからリナを救えるのは神官の治癒術だ。だが、彼らがリナを救う為に必要なことは何でもする。
「……俺は、何もできなかった。……いや、リナがこうなったのは俺のせいじゃないか」
呻くように吐き出されるその言葉に胸が詰まる。
リナが騎士達をフェルゼナットの追手だと勘違いしたように逃げているという報告を思い出す。騎士達からしてみれば、自分たちは助けに来たのになぜ逃げるのだという気持ちだっただろう。だが、フェルゼナットから自分が罪人となっていると吹き込まれていたリナは、彼らは自分を捕まえに来たのだと思い込んでいたに違いない。追われて恐怖に駆られ、そしてあそこから足を滑らせた。
見上げるような高さの崖を睨みつける。
……フェルゼナットめ。
奴らの手を逃れ、樹海という未開の地を通ってここまで逃げ延びてきたというのに、その呪いのような悪意に絡めとられるようにリナは崖から落ち、死の淵を彷徨っている。
日が落ちて、樹海の中は急激に暗くなってきた。夜になれば、日中とは違い魔物の動きも更に活発になるだろう。迷わないようにと施した目印も見えにくくなり、騎士達の身にも危険が及ぶ可能性がある。
「しっかりしろ、ファリス。お前はここにいる騎士達の指揮官なのだぞ。自分を助ける為に誰か一人でも犠牲者が出たと知ったら、リナは悲しむ」
ハッと顔を上げたファリスは、顔をくしゃくしゃにして涙を堪えるように下唇を噛んだ後、そうだな、と呟いて立ち上がった。
「リザヴェント様」
呼ばれて振り返れば、薄暗い中でも濃い疲労の色を浮かべているルーカスがよろめきながら立ち上がった。
「応急的な治癒は終わりました。脈や呼吸も安定しましたので、今なら移動魔法で神殿に運ぶことも可能と思われます」
「分かった」
数人がかりでそっとリナの身体を持ち上げ、魔法陣に移す。私と神官達が入れば、もう魔法陣には他には誰も入ることはできない。
「ファリス」
彼は、ずっとリナの傍についていてやりたいに違いない。だが、今ファリスを一緒に王城へ連れ帰ってやることはできない。
リナを王城まで連れて行ったらまたすぐに迎えに来ると言おうとした時、先にファリスが口を開いた。
「リザヴェント、リナを頼む」
「ああ。お前もすぐに……」
「いや。俺はここに残る。撤退命令はまだ出ていないから、軍が到着したら合流して国境に向かわなければならないからな」
リナが戻ってきた以上、陛下はフェルゼナットに強硬な態度を示す方針を転換する可能性はある。……しかし、このリナの惨状を目にすればどうだろう。恐らく、報復措置に踏み切るのではないか。
魔法陣の外からリナを見つめているファリスの表情を見れば、片時も傍を離れたくないと思っているのは一目瞭然だ。しかし、ファリスはその思いを抑え込んで、己の為すべき事を為そうとしている。
「分かった。任せろ」
魔法陣に魔力を注ぎ込んで移動魔法を発動させる。
……死なせはしない。絶対に。
視界が光に覆われる寸前、魔物だ、と叫ぶ声が聞こえ、光のカーテンの向こうに身構える騎士達の背が見えた。