55.そして、セリル村では……ファリス視点②
リナが逃げ惑っている。
その後ろを、笑いながら煽りつつ追いかけているのはフェルゼナットの王弟サムエルだ。
その光景をただ見つめていることしかできない。声も上げられず、どんなにもがいても近づくことができない。
壁際に追い詰められたリナに、下卑た笑みを浮かべるサムエルの手が伸ばされ――。
「リナ――!!」
叫んで飛び起きれば、真っ暗な部屋の中、ベッドに半身を起こして荒い息を吐いていた。騎士の制服は脱がされていて、シャツが冷たい汗で肌に張り付いてる。
「ファリス様?」
ノックと共に、驚いたような部下の声がドアの向こうから聞こえてきた。
黙って息を整えていると、断り文句と同時にドアが開いた。明かりが差し込み、手燭と食器の乗った盆を手にした部下が入ってくる。
「お目覚めでしたか」
「ああ。俺はどのくらい眠っていた?」
問いながらベッドから降りようと身体を捻った瞬間、腹部に痛みが走る。……魔導師のくせに、まさか力づくの手段に出るとはな。
顔を顰める俺を気遣わしげに眺めながら、部下は食事を載せた盆をサイドテーブルの上に置いた。
リザヴェントに当て身を食らわされて気を失った俺は、半日以上眠りこけていたようだ。まだ朝だったはずが、目が覚めたら日付が変わろうとする時刻になっていて、周囲は静まり返っている。
リナがフェルゼナットの領内に入ってすでに丸一日が経過している。だが、今から追いかければ、リナを乗せた馬車がフェルゼナットの王宮へ辿り着くまでには追いつけるはずだ。
部下が持ってきた食事を素早く平らげ、制服の上着を手に取り羽織ろうとして手を止める。
……そう、俺は騎士を辞めるのだ。この制服に腕を通す資格などもう無い。
再び上着を椅子の背に掛け直した時だった。ノックの後、こちらが返事をする前にそいつらはズカズカと部屋に入り込んで来た。
「短慮は起こすな、との陛下の御命令だ。馬鹿な真似はするな、ファリス」
先に立つリザヴェントが、俺の決意を打ち砕く言葉を吐きながら目の前に立ち塞がった。
陛下の御耳に入れたのはお前だろうが。
恨めしさを抑えきれずにこちらを見下ろす美しい顔を睨みつけると、観念して大きく溜息を吐く。
「陛下にそう言われてしまっては、諦めざるを得ないな」
王命に背いて身勝手な行動を取れば、それはもう俺一人の問題では済まない。デュラン侯爵家全てに累が及んでしまう。それでも構わない、と思えるほど俺の決意は固くなかったのだな、と悔しさを噛み締めながら思い知った。
「たっぷり寝たからもう眠くはないだろう」
リザヴェントはそう勝手に決めつけて、室内の椅子をベッドの近くへ移動させて腰を下ろした。それと向かい合うようにベッドに腰を下ろすと、さっきから部屋の入口付近に立ったままの男に声を掛ける。
「それより、何故聖女家の執事がここにいる?」
「お言葉ですね。主がフェルゼナットへ連れ去られてしまったというのに、何事もなかったように安穏と日々を過ごしている訳にはまいりませんでしょう」
聖女家の執事ウォルターは冷ややかに目を細めると、銀縁の眼鏡を指で押し上げた。
「陛下の御命令で、部下がここまで連れてきたのだ」
リザヴェントに視線を移せば、そう説明された。
陛下の御命令? 何故、この男をここへ?
沸き上がってきた疑問が脳内を巡るうち、一つの記憶を引き出す。リナが自宅から持参した茶葉に、予め薬物が混入されていたとしたら。……こいつなら、それができる。
元々、この男は聖女家の執事になったのは本意ではないという態度を垣間見せていた。トレウ村でリナが行方不明になった時、駆け付けた時にも執事たるに相応しくない厳しい言葉をリナに投げかけていた。自らの不注意で骨折し、それを恥じて反省したのか、それ以降はリナの心情に配慮する様子だったが、果たして内心はどうだったのか。
「もしかして、私を疑っておいでですか?」
こちらの心の内を読んだかのように眼光を鋭くしたウォルターを睨み返す。
「疑われるような心当たりでもあるのか?」
「ハッ、ご冗談を。寧ろ、こちらこそ不信感を抱いております。今回も、あなた様が同行されているにも関わらず、主がこのような事態に陥ってしまったのですから」
棘だらけの言葉をぶつけられ、事実であるが故に返す言葉も見つからない。
険悪な雰囲気になった俺達の間に割って入ったのは、本来こういう雰囲気など全く意に介さず、人間関係に疎いはずのリザヴェントだった。
「ウォルター、ファリスに怒りをぶつける為にここへ来た訳ではあるまい? ファリスもだ。何が気に障ったのか知らんが、この男はリナの執事だろう。何故そのように敵愾心を剥き出しにせねばならんのだ」
「大体予想はつきます。リナ様が持参した茶葉自体に薬物が混入されていたと疑っておいでなのでしょう? 午前からずっと眠っておいでだったのなら、調査の結果をご存じなくても致し方ございません」
ウォルターの小憎たらしいほど冷静な物言いに腸が煮えくり返るが、茶葉から薬物が検出されなかったことを暗に仄めかされて、素直に非礼を詫びる。
「その通りだ。すまなかった」
「こちらこそ、胸の内にとどめておこうと決めておりましたのに、つい本心をぶつけてしまいました。非礼をお許しください」
あくまであれは本心だったと言われて、謝られている気が全くしない。しかし、このまま険悪な雰囲気が続けば話が進まない。リナの為に、ここは自分が折れてやることにした。
やれやれ、と呆れたように首を一つ横に振ると、リザヴェントは俺が眠っている間の出来事について語り始めた。
「フェルゼナット領に入ってしまったリナの行方は依然として掴めない。すでに陛下は、外交交渉によってリナの身を取り戻す方針を固めている。同時に、フェルゼナットを威嚇するに国境へ軍を派兵することになった。調査隊の騎士は、その軍と合流するまでセリル村に留まるよう命令が下っている」
「分かった。となると、文官は王都へ帰すのか」
「いや。軍が到着するまでの間、樹海の調査は続行することになっている。樹海の魔物問題は、どちらにしても解決しなければならないのだから」
リナはいないのに、樹海の調査は予定通りに進められて行く。それが無性に虚しく感じられて思わず溜息が漏れた。
「やどりぎ亭で使われた薬の調査も進んでいる。リナ以外の七人のカップから、麻痺を伴う強力な眠り薬が検出された」
「……リナ以外の」
「ああ。その他からは全く検出されていない。リナのカップからも、茶を淹れたポットからも、勿論茶葉からも」
それでは、やはりリナが犯人だというのか。
愕然とする俺に、非難めいた視線を突き刺しながらウォルターが咳払いをする。
「仮に、リナ様が犯人だとしましょう。お茶を淹れた後、ご自分の分以外の七杯に薬を盛ったとしますよね? それをリナ様がご自分お一人で配られたのならば、薬が入っていないカップをご自分に回すこともできるでしょう。ですが、魔導師のレイチェル様が盆に乗せて運んできたカップを配るのを手伝っているのです。レイチェル様の証言では、盆に残った最後の二つをレイチェル様がご自分とリナ様の席に置いたのだそうです。つまり、リナ様には薬の入っていないカップを選ぶことはできません」
言い淀むことなくそう喋り終えたウォルターは、満足げな表情を浮かべている。それを見る限り、この男は以前とは違い、リナのことを大切な主だと思っているようだ。
「なるほど。つまり、犯人は別人だというのだな?」
「はい。犯人は全員を薬で昏倒させた後、リナ様のカップを洗い、リナ様のカップにだけ薬の入っていない茶を注ぐという手の込んだ工作をしたと思われます」
「一体何の為に?」
「リナ様がフェルゼナットの王弟に懸想し、かの国へ逃げる為、同行者に毒を盛って逃走した、という嘘を真実にする為でしょう」
怒りのあまり思わず立ち上がった俺の腕を、リザヴェントが痛いほど強い力で掴んで引き寄せる。
「落ち着け、ファリス」
「これが落ち着いてなどいられるか。フェルゼナットめ、手の込んだ厭らしい真似を!」
「しっ。声を落とせ。どこで誰が聞いているか分からない」
リザヴェントの不穏な物言いに思わず眉を顰める。
「まるで、このやどりぎ亭に犯人がいるかのような物言いだな。今、ここにはお前達以外に、俺の部下である騎士達しかいないのだぞ」
掴まれた腕を振り払って再びベッドに腰を下ろす。すると、リザヴェントは深刻な表情を浮かべながら低い声で話し始めた。
「ファリス。お前が眠っている間に、私は随分とリナに関する不愉快な噂話を耳にした」
「何だと?」
「事件からさほど時間も経っておらず、事件の詳細は伏せられているというのに、王城内にもセリル村一帯にもリナについての謂れのない噂が広まっているのだ。不自然なほどにな」
「残念ながらその通りです」
確認するように視線を移すと、不本意そうな表情で頷いたウォルターは淡々とした声でその噂話の内容を語った。
――聖女様は、フェルゼナットの王弟を追いかけて隣国へ逃げた。
――二人は城内で度々逢瀬を交わしていたが、聖女様は事が露見して引き離されるのを恐れて、人前ではつれない態度を装っていた。
――聖女様は逃げる際、同行していた同僚や魔術師に毒を盛り、拉致に見せかける為に宿屋の主人にまで暴行を加えて工作した。
「その噂を信じた者達が、その上に憎しみの感情を上書きしていくのです」
――これは、グランライトに対する裏切りだ。
――だから異世界人など信用できない。
――あんなどこの馬の骨とも知れぬ者に、貴族の位を与えたりなどするから。
――許せない。反逆罪に問うべきだ。
「これまでリナに対して特に負の感情を抱いていたようには思えない者達まで、噂を信じてそのような怨嗟の声を漏らしているのだと陛下は嘆いておられました」
ウォルターの声は平静を保っていたが、握り締めた拳は怒りを堪えるように小刻みに震えていた。
「フェルゼナットお得意の情報戦だ、振り回されてはいけない。そう分かっていても、どうしても人というものは己の信じたいものを信じてしまいます。リナ様は聖女という貴族位を与えられてはおりますが、こちらの世界には身内も誰一人いらっしゃらず、残念ながら潔白を信じてくださるだけの強い結びつきを持った方も少ないのが実情です」
悔しいが、確かにウォルターの言う通りだ。だからこそ、フェルゼナットはこのような汚い手段を使ってきたのだろう。
「リナ様は今頃、フェルゼナットに、自分には帰るところはないのだと刷り込まれていることでしょう。グランライトでは大罪人扱いになっているのだと吹き込まれ、酷く傷ついていらっしゃるに違いありません。その心情を思うと……」
いつもは小憎たらしいほど冷静沈着な執事が、不意に言葉を詰まらせる。思わずもらい泣きしそうになってしまい、灯火の明かりに照らされた薄暗い天井を見上げる。
「そんなことはないと、無実だと分かっている、何としてもフェルゼナットから取り戻そうとしているのだと、せめてそれだけでも伝えてやりたい」
そうすれば、リナの心は少しでも楽になるだろう。救いの手が届くまで、あの汚らわしい王弟に抵抗する気力も湧くに違いない。
「フェルゼナットに潜入している者が、いずれ隙を見てリナ様と接触することになっております。ただ、現時点でまだリナ様の居場所を突き止めたという報告は入っていないようです」
貿易商や傭兵を装って他国の情勢を探っている間者はどこの国にもいる。我が国がフェルゼナットを含め各国にそういう間者を放っていると同時に、他国もまた我が国に同様の間者を潜り込ませている。
そして、フェルゼナットはその間者を通じて自国の利益になるよう甘い言葉で誘い、弱みに付け込んで脅し、そうやって他国の人間を取り込んでいくのだ。
「やはり、この村にも内通者がいると考えた方がいい。ただ単に騎士達がリナに不信感を抱いているだけにしては、余りにも噂に悪意があり過ぎる」
リザヴェントの言葉に、ふとある男の声が脳裏に蘇り、ハッと息を呑む。
俺の表情の変化を見逃さなかったウォルターが、獲物を発見した肉食獣のごとき鋭い眼光を眼鏡越しに寄越した。
「ファリス様。どなたかに心当たりでもございますか?」
「……ああ。しかし、まさかあいつが」
「そのまさかと思われる人物を取り込むのがフェルゼナットなのです」
まさか、信じたくない、という気持ちから、次第にフェルゼナットと手を組みリナを窮地に追いやろうとするその悪意に怒りが込み上げてくる。
今頃、リナは不安で泣いているだろう。眠れない夜を過ごしているに違いない。それなのに、今、自分にあてがわれた宿の部屋で熟睡しているであろう男を想像すると殺意すら湧いてきて、剣を手に立ち上がったところをまたリザヴェントに制止された。
「何故止める?」
「落ち着け。犯人は一人とは限らない。だから、ファリス。お前には酷な話だとは思うが、これからリナのどんなに酷い話を耳にしても怒るな」
「何だと?」
「同調しろとまでは言いません。惑わされる振りをして、噂の出所を掴んでください」
内通者を炙り出す為には我慢するしかない。それは分かっているが、いざその場面に遭遇した自分が感情を押し殺して演技できるかと言えば、そんな自信はない。
そんな俺の心情を見透かしたように、ウォルターは詰め寄ってきて至近距離から鋭い眼光を飛ばしてくる。
「王城の方は、すでにジュリオス様が対応に乗り出しておられます。その情報で大体の予想はついておりますが、証拠を掴むまでは自重してくださいね。白を切られたり、逃げられたりしては元も子もありませんから。よろしいですね?」
「……善処する」
その勢いに負けてそう答えたものの、目の前でリナの悪口を言われて激昂せずにいられるだろうかという不安は拭いきれない。
……リナの為だ。
そう自分に言い聞かせながら、窓から空を見上げ、夜空に輝く月を見上げる。
リナも今頃、どこかであの月を眺めているだろうか。