51.声を聞かせて
……助かった。
斜面の上にいるのは、グランライトの人達だ。陛下の命令で、私を探しに来てくれたんだ。
ああ、諦めずにここまで逃げてきて本当によかった!
嬉しさと安堵のあまり涙が込み上げてくる。と同時に、立ち上がることも声を上げることも億劫なくらいの疲労感が襲ってきた。
斜面の上にいる人達は、私がすぐ近くにいることに全く気付いていないようで、仲間同士で話しながら周辺を動き回っているようだ。
「どうだった、そっちは」
「いないな。いるとしたら、もっとフェルゼナット側かも知れない」
「こんな広い樹海で人探しなんてある意味無謀だな。しかも、魔物まで出る」
「それこそ、これまでの訓練の成果を発揮するいい機会だろうが」
この人達は騎士なんだ。ファリス様と一緒に魔物と戦う訓練をしていた、調査隊の騎士さん達だ。
力の入らない足を叱咤するように拳で叩いて、私がここにいると騎士さん達に知らせようと立ち上がるべく斜面に縋り付いた時だった。
「おい、見つかったか?」
遠くからそう呼びかける声が聞こえてきた。
「まだだ」
「……そうか」
「どうした。えらく疲れた顔してるじゃないか」
「どうもこうも。ファリス様のお怒りが凄まじいのなんの。宥めるのに一苦労さ」
「仕方ないだろう。あんなことを仕出かしちゃったらさ」
「勿論、只では済まないんだろう?」
「当り前さ。反逆罪だぞ。処刑されるに決まっている」
「陛下もお辛い立場だろうな。何かと目を掛けられてきただけに……」
――反逆罪だぞ。処刑されるに決まっている。
ガタガタと身体が震え始め、崖にへばりつくように身を寄せながら、必死に悲鳴を飲み込んだ。
やっぱり、アグリスの言った通り、私はあの大部屋にいた人達に薬を盛って、フェルゼナットへ逃げたことになっているんだ。この人達は、私を助ける為に探しているんじゃない。捕えて、処刑する為に探しているんだ。
その私がすぐ足元の斜面の下にいるとも知らずに、騎士さん達は話し続けている。
「それより俺は、王都に連行する前にファリス様が直接手を下さないか心配だ」
「そんなにお怒りか?」
「お怒りなんてもんじゃないよ、あれは」
「おい、喋ってないで行くぞ。日が暮れるまでに何が何でも探し出すんだ!」
リーダー的な人の指示が飛び、返答と共に足音や物音が遠ざかっていく。
斜面の上から人の気配が去っても、私はその場からしばらく動けなかった。
陛下もファリス様も、私が犯人だと思っている。私の事を信じてくれているはずだって思っていたけれど、そんなものは私の勝手な思い込みだったんだ。
アグリスの言った通り、グランライトに戻れても、私は処刑される運命だった。私に帰る場所なんてどこにもなかったんだ。
涙が一気に溢れ出した。
これまで、グランライトに辿り着きさえすれば助かる、それだけが心の支えだった。それが呆気なく砕け散って、絶望で頭の中が真っ白になる。
丸一日以上碌に食べていないし、昨夜は魔犬に襲われてほとんど眠れなかった。魔法を連発した上に、険しい樹海の中を歩き続けて、正直もう心も体も限界だった。
そして、やっと助かったと気を緩めた直後に突きつけられたこの現実。完全に止めを刺されてしまった。
……私、本当に処刑されちゃうの?
無意識のうちに、縋りついた斜面の表面に爪を立てていた。
違うって訴えたら。全部サムエル殿下とその部下の仕組んだことなんだって、私は被害者なんだって説明したら、陛下もファリス様も信じてくれる?
私の帰りを待っていてくれる、聖女家に仕えてくれている皆も。リザヴェント様も、宰相閣下も、トライネル様も。私の淹れたお茶で倒れてしまった皆も。
信じてもらうしかない。……でも、もし信じて貰えなかったら。
ファリス様も陛下も、フェルゼナットが流した嘘を信じて物凄く怒っている。私が、それは違うと言ったところで、グランライトの人達に信じて貰えるだろうか。
信じて貰えなかったら、処刑される前に逃げなくちゃいけない。でも、果たして逃げられるだろうか。
それに、そもそも、逃げてどこへ行くの……?
絶望で胸が張り裂けそうだった。苦しくて苦しくて、両手でぎゅっと胸を押える。
その時、鎖骨より少し下の肌に固い物が押し当てられる感触があった。ハッとしてブラウスのボタンの隙間からそれを引っ張り出して、両手で包み込むように握り締める。
アデルハイドさんの瞳の色と同じ、空色の天然石がついた指輪。それが、まるで私に語り掛けてくるように思えた。
……そうだ。アデルハイドさんのところへ行こう。
そう思うと、すとんと心があるべき所へ落ち着いたような感じがした。
ここはもう、グランライトの国内だ。何故か陛下は私が樹海の中にいると知っていて、騎士さん達に捜索させている。その捜索の手を何とか掻い潜って、国境沿いに北か南へ向かってフェルゼナット以外の国へ出る。そこからひたすら東へ向かって旅をして、どうにかしてテナリオまで辿り着く。
頭で考えるだけなら簡単だけれど、とても成功するとは思えないプランだと自分でも思う。でも、もし捕まったらそこで私の人生は終わってしまうのだ。
こんなことになるのなら、あの時、オレアさんと一緒に山を越えてテナリオへ向かえばよかった。
自暴自棄になってそう自嘲する。あの時は、そんなことをしたらオレアさんやその家族まで巻き込んでしまうと思って諦めたのに。
……ううん、それだけじゃない。あの時には、あのまま貴族として暮らすという選択肢が残されていた。結局、私は自分の望みの為にお世話になった人たちを裏切るという痛みを伴う選択を取らず、漫然と不満のある安定した生活を続ける方を選んだ。
……その結果がこれだ。
悔しくて情けなくて涙が止まらない。
あの時、こうなるって分からなかったのは当然だ。未来は誰にも分からないから。でも、もし別の選択をしていたらってどうしても後悔してしまう。
ううん、今はメソメソ泣いている時じゃない。逃げなきゃ。
そう自分に言い聞かせ、疲れ切った身体に鞭打って立ち上がると、斜面に沿って進み始める。
とにかく、今は騎士さん達に見つからないように樹海から出て、グランライト国内のどこかの村なり街なりに辿り着かなくちゃ。そこで、陛下から預かったブローチを売って、平民の服を買って別人に成りすまして旅の支度を整える。
大丈夫。フェルゼナットの村からここまで逃げて来られたんだ。きっと何とかなる……。
「おい、いたぞ!」
不意に上がった声に振り向いた私の目に、木々の向こうからこちらを指さして叫ぶ騎士の姿が見えた。
……見つかった!
ぎゅっと心臓を鷲掴みにされたような感覚と同時に、言い知れない恐怖に駆られて頭の中が真っ白になる。
咄嗟に騎士さんがいるのとは反対方向に全速力で駆けだした。
……逃げなきゃ。……逃げなきゃ!
背後から怒鳴るような声が追いかけてくる。その声は、どこまで逃げても聞こえてくる。
……嫌だ。……お願い。……助けて。
泣きべそをかきながら必死にそう心の中で叫ぶけれど、勿論助けなんて来る訳がない。
樹海のあらゆる場所から追手が湧いて出て迫ってくるような感覚に襲われ、恐怖の中をただひたすら全力で走り続けた。
落ち葉が降り積もった緩やかな斜面には、ところどころに石が隠れている。
疲れ切った体で闇雲に走り続けていたせいで足がもつれ、石に躓いてつんのめった先が、急な崖になっていた。
あっと思った時には、身体が宙に舞っていた。
咄嗟に手を伸ばす。指の先が僅かに崖の縁に生える木の幹に触れたけれど、その枝を掴んで身体を支えることはできなかった。
ガツン、という凄まじい衝撃と共に、目の前が真っ暗になった。
ふと目を開けると、木々の枝葉の隙間から青い空が見えた。
まるで、アデルハイドさんの瞳の色のような、透き通った空色だ。
ブラウスの下に鎖に通して身に付けている指輪に触れようとしたけれど、右手も左手も全く動いてくれない。
どこもかも痛すぎて、どこが痛いのか分からない。こんなにいい天気なのに、寒くて仕方がないのはどうしてだろう。
……こんな終わり方って。
人間には、必ず最期が来る。元の世界に帰る方法がない以上、私もいずれこの世界のどこかで死ぬんだって覚悟していた。
でも、まさか、自分をこの世界に召喚したグランライトに反逆の疑いをかけられたまま、こんな樹海で一人死ぬことになるとは思ってもみなかった。
……結局、アデルハイドさんには会えなかった。
もう二度と会えないかも知れないってことは頭では分かっていた。けれど、本当に会えないまま終わってしまうなんて思っていなかったんだなぁって、この時になって初めて気が付いた。
目を閉じると涙が溢れる。
この歳で、こんな理不尽な理由で死んでいくなんて悲し過ぎる。
私が何をしたって言うんだ。この世界にいきなり召喚されて、王女救出の過酷な旅に駆り出されて、その後も田舎で一人暮らしさせられて、城に連れ戻されたかと思ったら魔将軍と戦う羽目になって、その後は政治的な駆け引きに利用されそうになって振り回されて、挙句にアデルハイドさんに振られて黙って置いていかれて。
小説のヒロインみたいな万能とはほど遠いけれど、これでも私なりに頑張ってきたんだよ。それなのに、結局行き着くところはコレ? マリカじゃなかったからって酷過ぎない?
ねえ。神様って本当にいるの? いるんなら、ちょっとぐらい哀れんでくれてもいいんじゃない? せめて最期に、願いを一つ叶えてくれるとか。
また夢でもいい。どうせ、もう目覚めることなんてないんだから。
だから、最期に声を聞かせて。
リナ、って呼んでくれる、あの低くて優しい声を。
――リナ。
ああ、と息を吐く。
神様は、最期に私の願いを叶えてくれたんだ。やっぱり神様はいたんだね。本当は少し疑っていたんだ。ごめんなさい。
「……リナ」
まるで、本当にアデルハイドさんが呼びかけてくれているように思える。
優しく頭を撫でてくれているような感じがする。
「リナ」
……さよなら、アデルハイドさん。