50.絶望的な状況
樹海は奥へ行けば行くほど険しくなり、私は自分が今どの辺りにいるのか完全に分からなくなっていた。
せめて空が見えれば、傾く日の方向や空の星の位置である程度の方角くらいは掴めるのにと思うけれど、木々が生い茂っている樹海の中からは枝葉が邪魔をして空もほとんど見えない。
だからと言って立ち止まる訳にはいかなかった。
さっきのニアミスでは、フェルゼナットの兵士に気付かれた様子はなかった。けれど、誰からも姿を見られていなかったとは言い切れない。私がほんの少ししか離れてない所にいたって分かったら、魔蝙蝠が飛び去った後、すぐに引き返して追いかけてくるだろう。
必死に緩やかな斜面を駆け上がる。息が切れて心臓がバクバクして、喉が焼けるように痛くなる。それでももがくように走り続け、地面を這う木の根に躓いた。走っていた勢いのまま地面にダイブして、咄嗟に手を着いたけれど、顔にも焼けるような痛みが走る。
「……逃げなきゃ」
痛みと恐怖で動けなくなりそうな自分に言い聞かせるように呟いて、起き上がるとまた必死に足を動かす。
突然、ガサッ、と近くの茂みが音を立てて揺れた。
ヒッと息をを呑んで立ち止まり、恐怖に慄きながら振り返ると、茂みから小さめの魔鹿が現れた。地面を嗅ぎまわっていた魔鹿は、ふと顔を上げ、私に気付いて驚いたように目を瞬かせている。
フェルゼナットの追手じゃなかった、という安堵感と同時に、寿命が縮むかと思うほどの恐怖を与えられた怒りが込み上げてきた。
「驚かせんなよ!」
癇癪を起してそう叫ぶと、掌の上に浮かべた炎の玉を魔鹿めがけて投げつける。冷静さを失っていたせいか、炎の玉はほんの少し逸れ、魔鹿を掠めて苔むした岩の上で爆ぜた。
火の粉を浴びて驚いたように飛び跳ねた魔鹿は、脱兎のごとく逃げ去っていく。
荒い息を吐きながらその後ろ姿を見送った後、私はその場にがっくりと膝を着いた。
湿気を含んだ風が頬を撫で、遠雷が轟く。雨音はするけれど、木々の枝葉に遮られてまだ雨粒はここまで落ちて来ない。
「動かなきゃ……」
そう自分を鼓舞するように呟いたけれど、身体が動いてくれなかった。
どこまで行けば、私は助かるのだろう。ねえ、お願い。誰か教えて。
助けを求めるように見上げた私の頬に、大きな雨粒が一つ落ちて弾けた。
ゾクッと背筋に寒気が走る。
……ううん、そもそもこの先、私に助かるという未来は用意されているのだろうか。
ここで希望を失ったら、何もかもが終わってしまう。
挫けそうになる自分を叱咤して、雨に濡れる前に荷物を下ろして毛布を体に掛ける。その上から鞄を背負い、更にその上に鞄から取り出した雨具を着込んだ。
その格好で雨の中を歩き続けていると、巨大な岩と地面の間が空いている場所を見つけた。高さは二メートルほどで幅は五メートルくらいありそうだ。ただ、何かの魔物の巣になっている可能性もある。
恐る恐る近づいていって中を覗き込む。炎の玉を右掌に浮かべて掲げて中を照らしてみると、奥行きはそれほどなくて内部がほぼ見渡せた。確認できる範囲で、魔物の姿も、魔物が棲みついている証拠の体毛や排泄物なんかも見当たらない。
ホッと溜息を吐くと、身を屈めてその空間に入り込んで座り込む。雨具も脱がず荷物も背負ったまま、降りしきる雨にけぶる樹海を呆然と眺めた。
鞄の中にはまだ食糧は残っていたけれど、それを取り出して食べようという気にはなれなかった。もし、フェルゼナットの兵士に追いつかれたら魔法でかく乱しつつ逃げなければならないし、第一食べたいという気にもなれなかった。
こんな雨の中、あんなに魔物に怯えていたフェルゼナットの人達がこんな樹海の奥まで追いかけてなんか来ないんじゃない?
そんな希望的観測が脳裏を過る。けれど、災難はこちらの思惑通りに逸れてくれるものじゃない。
雨は降り続き、やっとあがった頃には辺りが暗くなっていた。ようやく、今日はもう追手は来ないだろうと思えて雨具を脱いで荷を下ろす。
火を焚こうか。どうしようか。
濡れた枝葉を集めて炎の魔法で乾かせば、焚火ができないこともない。でも、焚火の明かりは私がここにいると知らせているようなものだ。もしフェルゼナットの兵士がその明かりを見つけたら。けれど、魔物除けには火を焚いていた方がいいに決まっている。
散々迷った挙句、焚火はしないことにした。火を焚いていてもどうせ弱い魔物を近寄らせないくらいの効果しかないし、フェルゼナットの兵士に見つかるリスクを考えたら焚火なんてしない方がいい。
パンと干し肉を少しだけ齧って鞄に仕舞い込む。辺りが真っ暗にまる前に、鞄を枕に毛布に包まって横になる。手には、鞘に収めたナイフを握り締めて。
――逃げろ。
その声に押されるように駆け出す。どこをどう走ったのか、すっかり迷ってしまって深い森の中をウロウロと歩き回った。
皆はどうなってしまったのか。それより、私はここに一人取り残されてしまったんじゃないか。
込み上げてくる涙を手の甲で拭いながら歩き続け、魔物と遭遇しては魔法でかく乱して逃げ回り、何とか森を抜けて小さな村に辿り着いた時には日が傾きかけていた。
――リナ。
魔物のものとは違う血の匂いに塗れた大きな身体が目の前に立ち塞がる。
――お前、今まで一体、どこにいたんだ!
雷が落ちるような声で怒鳴ったその人は、ヒクッと嗚咽を漏らした私の前に膝を着き、赤黒い汚れがこびり付いた大きな手で私の頬を撫でた。
――無事だったんだな。良かった。
その細められた目を、涙を堪えるように歪んでいた口元を、絞り出すようなその声を、今更ながらに思い出した。
……アデルハイドさん。
王女救出の旅の途中、魔族の国に程近い国で、私達は山賊の襲撃を受けた。他のメンバー四人は山賊を迎え撃ち、私は森を抜けた先の村まで逃げるように言われてひたすら走り続けた。
けれど、途中で森の中で迷ってしまい、ようやく村に辿り着くと、すでに他のメンバー達は村にいた。しかも、私が村に辿り着いていないことを知って山賊に捕まったと勘違いした彼らは、山賊のアジトに乗り込んで壊滅させた後、再び村に戻ってきていたのだ。
私を助けようとそこまでしてくれたんだ。
あの旅の間も、旅から戻ってからもしばらくの間、私は自分が旅のメンバー達にとってお荷物でしかないと思っていた。神託を無視する訳にもいかないから仕方なく同行させているけれど、本当はいない方がいいと思われている。小説のマリカのように熱の籠った視線を向けられる訳でもなく、ちやほやされる訳でもなく、生き延びる為に強くなれと鍛えられ、泣き言も許されない日々だった。
でも、ちゃんと守ってくれていたんだ。
今になって、そのありがたみが身に沁みる。
――だから言っただろう、山賊に捕まった訳じゃなくてどこかで迷ってるだけなんじゃないかって。それなのに、こいつは一人ででもアジトに乗り込むって聞かなかったんだからな。全く、山賊にとってはとんだ災難だったな。
不機嫌極まりない表情のファリス様がそう吐き捨てながらアデルハイドさんを睨む。一瞬、グッと何かを堪えるような表情をしたアデルハイドさんは、不意にニッと笑顔を浮かべて私の頭を撫でた。
――ま、無事だったんだからいいさ。腹減ってないか? 山賊を一掃してくれた礼だって、村の人達がもてなしてくれるってさ。
森で迷ったせいで無駄骨を折らせてしまったことが申し訳なくて委縮している私の背を優しく押して、村人達の所へ連れて行ってくれたアデルハイドさん。
……会いたい。
自分の気持ちに気付くまで、私はアデルハイドさんが事ある毎に差し伸べてくれる優しさを気に留めることもなかった。そのかけがえのないものに気付いた時には、もうアデルハイドさんは遠い所へ行ってしまった後だった。
……この状況から逃げ切って、またアデルハイドさんに無事で良かったって言って欲しい。あの大きな手で、優しく頭を撫でて欲しい。
でも、アデルハイドさんは、私がこんな状況に置かれていることを知らない。トレウ村の山で迷った時も、何度も助けてって心の中で呼びかけたけれど、アデルハイドさんが助けに来てくれることはなかった。当然だ。アデルハイドさんはテナリオで魔族と命を掛けて戦い続けている最中なんだから。
「……っく」
目尻から溢れた涙が、こめかみを伝って流れ落ちていく。
いつも、私の前に壁のように立ち塞がって守ってくれたアデルハイドさん。その壁がなくなって、アデルハイドさんがいなくても頑張らなきゃいけないんだって何度も何度も決心して、他の人達に支えて貰いながら、なんとかここまでやってきた。
けれど、それでも願ってしまう。もし、アデルハイドさんが傍にいてくれたらって。
駄目だ、リナ。自分で頑張らなきゃ。もっと、強くならなくちゃ。いつかアデルハイドさんに、こんなに立派になったんだよって胸を張れるぐらいに。
だから、こんなところでくたばる訳にはいかないんだ。
何かの気配を感じて目を開ける。
目を閉じているのと変わらないくらい真っ暗な闇の向こうから、何かがひたひたと近づいてくるような気がして、ぎゅっとナイフの柄を握り締めている手に力を込める。
毛布を跳ね除けて起き上がると同時に、右掌に炎の玉を発生させる。ぼんやりと浮かび上がった景色の向こうにいた黒い塊が、地面を蹴ってこちらに飛びかかってくるのが見えた。
ギャウッ!
咄嗟に投げつけた炎の玉と黒い塊が、空中でぶつかって火の粉が舞う。地面に横倒しになって落ちた黒い塊は、身体についたままの炎を消そうとするかのように地面を転げ回っている。
……魔犬。
魔族の国でよく遭遇していたのよりは随分と小さいけれど、それでも大型犬ほどの大きさがある。真っ黒な身体に燃えるような赤い目。捲れ上がった唇からはみ出している鋭い牙。
この樹海にも魔犬が出るってことはギルドで聞いていた。けれど、大体中型犬くらいの大きさだって話だったから、まさここまで大型のものが生息しているだなんて思ってもみなかった。
……やばい、とにかくやばい!
パニックで泣きそうになりながら、まだ地面に身体を擦りつけている魔犬にこれでもかと何度も何度も炎の塊を投げつける。けれど、炎に包まれながらも魔犬はなかなか動きを止めてくれない。
この! このこのっ!
狂ったように炎の塊を投げつけていると、不意に魔犬が体勢を変えて身構え、こっちに向かって飛びかかってきた。
悲鳴を上げ、無我夢中で地面を転がりながら避け、空間の壁にぶち当たるまで転がって、慌てて体勢を整えて顔を上げる。
魔犬は、さっきまで私がいたところに立っていた。炎に包まれたまま立ち尽くしていた魔犬は、苦しそうに唸り声を上げ、不自然な角度に首を捻って恨めしそうな顔でこっちを睨んだ。
……え。
そのまま魔犬は崩れ落ちるようにその場に倒れ、燃え上がっていく。下敷きになっている私の荷物や毛布と一緒に。
……ちょっ、ちょっと待ってよ。
ファリス様から貰った髪飾りと引き換えに手に入れた、私がこの樹海で生きていく為に必要なものが燃えていく。黒く焼け焦げ、灰になっていく。
そうだ、水の魔法!
呆然自失の状態から我に返ると、掌に魔力を集中させて、湧き上がってくる水を感じる。それを燃え盛る炎に向かって放つと、一瞬で水が蒸発する音と共に、大量の水蒸気が立ち上った。
火が消えたことで、辺りがまた真っ暗になる。その暗闇の中に焼け焦げた臭いが漂い、水分が蒸発していく音が続いている。
肩で息をしながらしばらく立ち尽くし、それから掌の上にまた炎の塊を発生させ、恐る恐る燃えていた辺りを照らした。
焼け焦げた魔犬は、力なく口を開いたまま事切れていた。荷物はその身体の下敷きになっているのか見当たらず、毛布も焼け焦げた切れ端くらいしか見当たらない。
……燃えちゃった。ファリス様から貰った髪飾りと引き換えに手に入れた生命線が。
唯一手元に残ったのは、左手で握り締めていたナイフだけだ。
力が抜けて、その場にストンと座り込み、そのまま膝を抱えた。
これまで努めて意識の外に追いやろうとしていた、死、という言葉が急に現実味を帯びて迫ってくる。
……こんな所で。
込み上げてくる嗚咽を飲み込む。
こんな所で死にたくない。
だって、アデルハイドさんに言われたのに。幸せになれよって。
これまで、色んなことがあって、もう全部投げ出しちゃいたいって切れかけたことも何度もあったけど、死にたいだなんて思ったことはなかったのに。
それなのに、こんなことで。こんな所で。
そのまま、薄らと夜が明けるまで、一睡もできずにずっと膝を抱えていた。
夜が明けると、そこそこ大きい枝を探してきて魔犬と地面の間に差し込み、梃子の原理で魔犬の身体を持ち上げてみた。けれど、その下敷きになっていた鞄は焼け焦げていて、引きずり出して中身を改めて見たけれど、無事な物は何一つなかった。
仕方なく諦めて、重い頭を一つ大きく振ると、だるい身体を叱咤するように気合いを入れて歩き出す。
「こんなところで終わってたまるか」
絶望を感じまいと、声に出して自分を叱咤する。
「私は、絶対に幸せになるんだ。幸せになって、幸せな家庭を築いて、いつか魔族から国を取り戻して戻ってきたアデルハイドさんに、幸せな姿を見せつけてやるんだ」
振ったことを後悔させるくらいいい女になって、あなたがいなくてもこんなに幸せですって姿を見せつけて、……それで安心させてやるんだ。それまでは、絶対にくたばったりしない。
荷物がなくなった分、身軽になった私はどんどん先へと進んだ。やがて、ずっと緩やかに登っていた地面が平になり、今度は下り坂になる。
まさか、迷ってまたフェルゼナットに戻っている、なんてことはないよね……。
嫌な予感を払拭するように頭を振ると、先へと進み続ける。
空腹に耐えきれずに動けなくなるまでが勝負だ。それまでにこの樹海を抜けられなければ、私の人生は完全に終わる。
それはとても恐ろしい事のはずなのに、何故か実感が湧かなかった。今の自分の状況を考えれば当然その危険は高いはずなのに、自分が死ぬなんて本気で思えなかった。
どのくらい歩いただろうか。足元がふらついて、抉られたようにそそり立つ斜面に手を着いて息を整える。
ちょっと休もうかな。
斜面に背を預けるように座り込んで目を閉じる。
昨日から碌に食べないで動き回り、随分と魔法を使い、挙句に昨夜はあまり眠れていない。そのせいか頭がぼんやりしていて、このままここで眠ってしまいそうだ。
その時、斜面の上から人の声のようなものが聞こえてきて、咄嗟に斜面に張り付くように身を隠した。
「……本当に、こんな所にいるのか?」
「さあな」
複数の男の声だ。どうやら私が身を潜めている二メートルほど高さのある斜面の上側にいるらしい。
……フェルゼナットの兵士?
だとしたら、やっぱり私は迷った挙句、樹海の深部からまたフェルゼナット側に戻ってきてしまったってことだ。
ああ、どうしよう……。
この場を何とかやり過ごしたとしても、また樹海を通ってグランライトまで辿り着けるとは思えない。荷物は燃えてしまったし、そんな気力も体力も残っていない。
それなら、いっそ樹海を出て、このブローチを売って馬を手に入れて、国境を突破するしかない。捕まって殺されるぐらいなら、その最後の可能性に賭けるしかない。
ぎゅっと左胸のブローチを握り締めた時だった。
「それにしても、何だって聖女様はこんな樹海の中にいるっていうんです?」
「陛下から樹海を探せという直々の御命令が下ったんだから、探すしかないだろう」
「この広い樹海のどこにいるのか分からないっていうのにですか? もしかして、フェルゼナット側まで探せってことですかね?」
「当然だ。樹海の中は国境などあって無いようなものだからな」
……グランライトの人達だ!
一気に身体の力が抜けて天を仰いだ。