39.一曲ぐらい踊ってあげても
トライネル様に導かれるように上座へ進むと、陛下がこちらに気付いて私の名を呼んだ。
「リナ」
その声で、あっという間に人垣が割れて道ができる。何か、外国の神話か何かでこういうのあったよね? 杖を天に掲げると海が割れて道ができる、みたいなの。
暢気にそんなことを思い浮かべていられたのは一瞬のことだった。会場中の視線が一気にこっちに向けられていることに気付いて、恐怖に似た緊張感で全身から汗が噴き出す。
けれど、この状況では逃げも隠れもできない。だから、仕方なく一直線にできた道を進んで陛下の前まで歩くと、最上級の礼をする。あぁ、緊張で膝がガクガクする。
「顔を上げよ」
下げた頭の上から投げかけられたのは、いつも執務室で聞いているのと違って固くて冷たい声だった。
でも、これが陛下の表向きの声だってことは知っている。冗談ばかり言って私を困らせる陛下は、執務室限定のレア物なんだよね。
御言葉に従ってゆっくり顔を上げると、無表情で冷たい印象さえ受ける陛下の顔があった。王女様とよく似ているお人形みたいに綺麗な顔だから、表情が無いととても怖い。でも、怖いけれど吸い込まれそうなくらい魅力的で目が離せない。
……と。
「綺麗だ」
は?
聞き間違いかな~なんて思ったりもしたけれど、もし聞き間違いじゃなかったら、褒めて貰ったからには何かリアクションを返さないといけない。
でも、嬉しいですとか答えた後で、宝石がだ、なんて言われたら恥ずかしいしな~。でも、お戯れをとか言って、勿論戯れだとか返されたら悲惨だしな~。とかいろんな痛い結果を想像しながら、何となく誤魔化すように愛想笑いを浮かべる。
すると、陛下は怒ったように見えるくらいの無表情で、すっと手を差し出してきた。
「踊るぞ」
「え、は、はい」
陛下が私の手を引いて広間の真ん中に陣取ると、空気を読んだ周囲の人達が同じように男女ペアになって構える。
優雅な音楽が流れ始め、ダンスが始まった。
陛下はいつもお忙しいのに、一体いつダンスの練習しているんだろうか。びっくりするぐらいリードがうまくて、そのお蔭で私も練習の時より上手に踊れている気がする。
「サムエルと、話をしていたそうだな」
突然、耳元に口を寄せた陛下にそう囁かれて、危うく陛下の足を踏んでしまう所だった。
「……はい」
「何を言われた?」
「自分の国に来ないかと言われました」
「……やはりな」
陛下の反応に、驚いて目を瞬かせる。じゃあ、陛下はサムエル殿下が私にプロポーズすることも分かっていたの?
「やはり、ですか?」
「ああ。だから、こうやってお前に手を出さないよう、私の色を身に付けさせているというのに。それでもあの男は仕掛けてきたか。良い度胸だ」
じゃあ、やっぱりこのサファイアブルーは、サムエル殿下を牽制する為だったんだ。その為に、私に似合うかどうかなんて関係なく、この色を身に付けさせたんだ。私が、すでに陛下の物だって周囲にアピールする為に。
ん? ……陛下の物って何だろう。ま、まさか、妻ってこと? いやいや、まだ結婚してないから、恋人ってこと?
サムエル殿下を牽制する為の作戦だって分かっているのに、思わず顔が熱くなってくる。すると、陛下は驚いたように目を見開き、それから困ったように目を逸らした。
「そんな顔をするな」
「あっ。ご無礼をいたしました」
そんな顔って、そんなに気に障るような表情になっちゃってたんだろうかと慌てていると、陛下は私の手を握る手に力を込め、首を横に振った。
「別に、無礼などとは思っていない」
「そうですか。良かっ……」
「だが、その、……照れる」
「え……?」
驚いて顔を上げると、逆にこっちが照れるくらい真剣な表情でこちらを見下ろしている陛下の顔に面食らってしまった。……照れているというより、何だか怒っているように見えますけど?
私は陛下が「冗談だ」と笑いだすのを待ち構えていた。けれど、その前に曲が終わってしまい、再び国のお偉方やご機嫌伺いの人々に囲まれてしまった陛下から、ついにその言葉を聞くことはできなかった。
その後、私はトライネル様、次いでジュリオス様と、好みのタイプトップ2にダンスを申し込まれて踊ることになった。
トライネル様のダンスは基本に忠実で、リードもとても紳士的だった。既婚者だぞ、惚れちゃ駄目だぞ、と改めて自分に言い聞かせなければ、またコロッといっちゃうくらい素敵で、本当に天にも昇るような幸せな時間だった。
対して、ジュリオス様はどこか「このぐらい踊れて当然だろう」と言われているようなリードの仕方だから、とても緊張する。
この方は、基本的にいつも穏やかで人当たりが良い。けれど、にこやかな笑顔の下で厳しい一面を持っている人だ。次期宰相と言われている人だから、陛下の治世を支える為にはそういった非情な一面も必要なんだろうな、きっと。
「この曲が終わったら、ファリスと共に会場を抜けて控室で待機していてくれ。私と陛下も後から向かう」
「は、はい……」
踊りながらジュリオス様にそう耳打ちされて、更に緊張感が高まる。
そう、陛下と踊り終わった後、サムエル殿下がこちらに近づいてくるのが見えた。ぎょっとして固まっているところに、トライネル様があっという間に私の手を取ってダンスを申し込んでくれたのだ。
トライネル様とのダンスが終わった後も、誰も割り込ませないようにジュリオス殿下が素早く歩み寄ってきて私の手を取った。けれど、こうして踊っている間にも、何か視線を感じる。そう、サムエル殿下が腕を組んで、こちらをじっと見つめているのだ。
曲が終わり、ジュリオス様と礼をして離れる。と同時に、ジュリオス様は近くにいたファリス様を手招きして呼び寄せる。
きっと、私達が踊っている間に別の人から指示を聞かされていたのだろう。ファリス様は不審げな表情一つ見せずに素早く歩み寄ってくる。
「では、リナ。後ほど」
「はい」
頷いて歩き出した時、ふと視界の片隅に視線を感じた。思わずその方向を振り向きかけて、慌てて動きを止め、逆方向に一歩踏み出した途端にファリス様とぶつかりそうになり、よろめいたところを抱き留められる。
「大丈夫か?」
「すみません。少し、疲れてしまって」
今履いているような高いヒールの靴で、続けざまに三曲も踊ったことはなかったから、足にきているのは確かだった。でも、よろめいた原因はそれだけじゃない。
驚くほど近くに、あと三秒タイミングがずれたら声を掛けられていたであろう位置に、サムエル殿下がいた。それに気付いて、咄嗟に逃げようとしたところをファリス様とぶつかってしまったのだ。
今、サムエル殿下の前には、まるで敵の攻撃を身を挺して阻むかのように立ちはだかってにこやかに話しかけているトライネル様がいる。けれど、サムエル殿下の視線は明らかに、目の前にいるトライネル様ではなく、その背後にいるこちらを見ていた。
まるで、獲物を狙う肉食獣みたいな目をして。
賑やかな会場を抜け、ファリス様に先導されて会場の近くに用意されている控室の一室に入る。
中で待機していた侍女さん方に椅子に腰掛けるよう促され、腰を下ろすと近くのテーブルに軽食と飲み物が用意される。
椅子とグラスの数から、この後に少なくともあと三人はここへ来る予定になっているのが分かる。陛下とジュリオス様と、あと一人は宰相閣下だろうかトライネル様だろうか。
「陛下がお見えになる前に、少しでも食べておいた方がいい。会場では、何も口にできなかっただろう?」
ファリス様にそう言われて、侍女さん方が小皿に取り分けてくれた料理を口に運ぶ。
このドレスに着替える前に軽く食事をしていたけれど、普段の量と比べたら随分と少なかった。だから、お腹に余裕はあるはずなのに、心がワサワサして食欲が湧いてこない。
最後に一瞬見えたサムエル殿下の表情が、どうしても脳裏から離れなかった。
初めて城の廊下で会った時とも、二度目に中庭を突っ切って現れた時とも、夜会の会場で求婚してきた時とも違う。肉食獣のような鋭い眼光でこちらを見据えるその顔は、暗い谷底を覗いた時のような恐れを抱かせる、ゾッとするような表情だった。
でも、どうしてそんな顔で睨まれなきゃいけないんだろう。そんなに私と踊りたかったのかな。それなのに、邪魔が入ってダンスの申し込みもできずに、目の前でそそくさと逃げるように会場を出ようとする私に気付いて腹が立ったのかな。
……そんなに悔しかったのなら、一曲ぐらい踊ってあげてもよかったかな?
「駄目だ」
「へっ?」
口には出していなかったはずなのに、いきなりファリス様に否定されて目を剥く。まさか、ファリス様は心が覗けるの? それとも、私が思っていることを顔に出し過ぎ……?
「やっぱり、リナには似合わない」
「え? あ、ああ……」
ファリス様の視線が、じっと私の首元を見つめているのに気付いて、駄目出しされたのがサファイアブルーの宝飾品だと分かった。
「ですよね。私もそう思います」
「ああ。リナには、あの髪飾りのような可愛らしいものが一番似合う」
確かに、ファリス様から貰ったあのピンクの天然石を彫って作られた花とパールの髪飾りは私も一番のお気に入りだ。
「でも、まだ着けて出掛ける機会がないんですよね」
「普段から使えばいいじゃないか」
「仕事の時に着ているようなドレスには合わないと思うんですよ。髪飾りだけ浮いちゃうというか」
仕事着用のドレスは色も暗めでかっちりとしたシンプルなものだから、可愛らしい髪飾りをつけるとちぐはぐになっちゃうんだよね。
「そうか。俺みたいに服の下に隠せる物じゃないから、常に肌身離さずって訳にもいかないのか」
ファリス様が、カチッとした正装の胸元を掌で押さえる。えっ、まさか、私が贈ったペンダント、服の下に身に付けてくださってるんですか?
ファリス様の素肌に直接触れているエメラルドグリーンの天然石がはめ込まれた銀のプレートのネックレスを想像し、思わず鼻血が出そうになったところに、さらに追い打ちをかけられた。
「そうだな。先延ばしになっていたが、今度の休みに王都を案内してやるから、その時に着けて来いよ」
互いに贈り合ったアクセサリーを身に付けて、王都のお洒落な店を巡るなんて、これはもう完全にデートだよね? 自分には縁のないものと思っていた、憧れのシチュエーションじゃないか!
ファリス様の誘うような甘い笑みに、思わず頭がクラクラする。
……別の男が好きだからって婚約破棄を望んでいるようなキャスリーン嬢に遠慮する必要なんかない。行っちゃえ、リナ! ファリス様と、憧れのデートとやらを満喫するんだ!
そんな声に押されるかのように頷きかけた時だった。
「待たせたな」
ドアが開くと同時に、ジュリオス様を従えた陛下が現れた。