1.マリカだったらよかったの?
汗が滲んだ頬を、穏やかな風が通り抜けていく。
火照った顔が冷やされ、ふと顔を上げると、雲一つない吸い込まれそうなほど青い空が広がっている。
……ホント、何やってんだろ。
込み上げてくる苦笑いをかみ殺しつつ、首にかけた布で額や頬を拭う。ついでに、何やら滲み出てきた目元もそっと押えた。
「……マリカだったら良かったのかよ」
つい、心の声が口を吐いて出て、ぎょっとする自分が可笑しい。
そう、きっと、マリカだったら良かったんだ。
私じゃなく、マリカだったなら、この世界は物語通りになっていたはずなのに。
私、佐久間理奈は、どこにでもいる普通の女子高生だった。
三人兄弟の真ん中で、優秀な上の兄の言うことには従順に従い、我儘な弟に泣かされるという、今思えば昔から損な役回りだったのかも知れない。
さらにそれに追い打ちをかけたのは、小学校五年生の時に隣に引っ越してきた倉科マリカの存在だった。
彼女は、少女雑誌のモデル並みの容姿と、屈託のない明るい性格で、あっという間に私の周囲の人間を魅了してしまった。
両親も兄弟も、同じ家族である私よりもマリカのことを褒め、彼女とのエピソードを嬉しげに語る。
学校でも、転校生なのに、マリカは私よりも友達と打ち解け、クラスの中心的人物になってしまった。
同じことをやらかしても、私は叱られても、マリカは見逃されたり許されたりすることが多々あった。
何かにつけてマリカを褒め称える時、ダシにされることも多かった。
でも、決してマリカのことは嫌いじゃなかった。寧ろ、彼女と話していると楽しくて、人気者の彼女と親しい関係でいることが自慢でもあった。
だから、あの日、彼女の頼みも快く引き受けたのだ。
――ごめん、今日の掃除当番、替わってくれない?
高校入学後、何人目かの彼氏との初デートだなんて彼女は言わない。すらりとした身体を少し折り曲げて、手を合わせて上目遣いに懇願するだけ。
その愛らしい姿に、こちらは折れるしかなかった。
ごみ袋を抱えて一階の集積所へ向かって歩いていた時だった。
階段を降る最後の一歩、足の裏が床に着かず、あっ、と思った時には果てしなく下へ下へと落ちていくような感覚に襲われた。
それがようやく収まり、恐怖にぎゅっと閉じていた目を開ければ、床に描かれた魔法陣の中に倒れていた。
呆然としつつも、まるでアニメのコスプレイヤーかと思うような格好をした、綺麗なお兄さんに助け起こされた。
そして、そのお兄さんから事情を聞かされるにつれ、私の中で湧き上がった疑問はやがて確信に変わる。
ここって、『最強少女マリカ』の世界だ!
そう、愛すべき隣人と同じ名をヒロインに持つファンタジー小説。
その主人公マリカも、隣人マリカと同じく美少女で、天真爛漫で、そして何より強かった。主人公マリカは私の憧れでもあった。
主人公マリカは、ある日突然、異世界に召喚される。魔族の王に攫われたグランライト王国の王女救出の、最終兵器として。
彼女は、ライトノベルのよくあるパターンで、超美形の騎士や魔導師、神官等々と共に王女救出の旅に出る。その旅路の途中、彼女を巡っての恋の鞘当てなんかがあったりして。所謂、逆ハーレムというやつだ。
そして、苦闘の末、見事王女を救い出すのだけれど、その王女の婚約者だった公爵家の嫡男までが、主人公マリカに惚れてしまうという悲劇が。
彼女は国を混乱に陥らせることを憂い、密かに旅に出る。そして、その後を追ってきた旅の仲間達と、所謂逆ハーレム状態で世界を巡る……という、現実味のない、けれどモテない女からすると何とも羨ましい結末を迎えるのだ。
中途半端な終わり方だなぁ、と思ったら、シリーズ化されて近々続編が出るらしい。近日発売、と、簡単なあらすじが載った雑誌の記事を目にしたのはつい先日のことだ。
……ということは、私は主人公マリカ?
勿論、マリカではなく、ちゃんと『リナ』と自分の名前を名乗ったけれど。
そして、やっぱりと言うか、小説通り、いきなり王女救出の旅へと駆り出された。
……え? 最強少女? なにそれ?
平々凡々な女子高生に、そんなチートあるわけないでしょうが。
主人公マリカは、召喚される前から護身術も身につけていて、運動神経も良く、成績も優秀でいろんな雑学の知識もあった、という設定だった。そう言えば、隣人マリカも頭が良くて、昔からスポーツも得意だったっけ。
対して私は何をやっても平々凡々。なのに、召喚されたからにはあなたが『最終兵器』だと言われ、王女救出に必要なスキルを身につけろと、騎士や魔導師達に容赦なく鍛えられた。
おかげで、旅の仲間は誰も彼もがキラキラしいまでの美形揃いだったにも関わらず、彼らに恋するどころか、その綺麗さゆえに余計に怖くて仕方がなかった。
それでも、やっぱり召喚されたからには、私は『最終兵器』だったのか。いやいや、私がいてもいなくても変わりなかったようにも思えるのだけれど。ともかく、何とか魔族の城から王女を救い出し、命からがらグランライト王国へ戻ることができた。
そして、はたと気が付く。
……あれ、逆ハーレムは?
確かに、美形のお兄さん方に囲まれてはいたけれど、逆ハーレムどころか、完全にお荷物扱いだったけど? ハッキリ言っていない方が楽だけれど、神託によって召喚されたんだから連れていかなきゃしょうがない、みたいな?
で、城に戻れば、王女の婚約者に惚れられて修羅場になるんだったよね?
……完全に、スルーされたんだけど。
王女と婚約者の公爵令息は熱い抱擁を交わし、周囲が歓喜する中、一人呆然とする私。
……マリカじゃないから?
どっと押し寄せてきた疲れに、引きずられるように床に崩れ落ちた。
ボロボロの包帯を幾重にも巻いた手を握り締めながら、余りの理不尽さにただ涙が溢れ出してきた。
感動的な恋人たちの再会シーンに見惚れ、部屋の隅で泣いている私を振り返る人は誰一人としていない。
別に、逆ハーレムなんて欲しくない。愛して欲しいなんておこがましいことなんか言わない。
ただ、ただね、一言労って欲しかった。
よく頑張ったね、って褒めて欲しかっただけなのに。
それさえ与えられなかったってことは、私の評価ってそんなものだってこと。
異世界に来てこれだけ頑張っても、元の世界と同じ。
所詮、私はどんなに努力してもマリカのようにはなれないってことだ。
王女と婚約者の仲は円満。なので、私は密かに城を抜け出して旅に出る必要はなくなった。
でも、王女を救出するという目的を遂げた以上、『最終兵器』としての私はお役御免となった訳で。
それなら元の世界に戻して貰おうと魔導師に頼むと、そんな方法はない、と突っぱねられてしまった。
この国の貴族でもない私をいつまでも城に置いておく訳にはいかなかったのだろう。閑静な田舎に土地と家をやるから、そこで静かに暮らすといい、とある日突然国王陛下から言い渡された。
その一帯を治める領主が後見人となり、日々の暮らしに困らないよう金銭面も含めてサポートするという条件まで提示されたら、断る理由がない。だって、私をこの城へ引き留める人なんて、誰一人いないのだから。
そうして、元の世界でも見たことがないような、ド田舎に移り住んではや三か月。家の周囲に広がっていた荒れ果てた畑を耕しながら、今日もふと空を見上げて思う。
……マリカだったらよかったの? と。