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第5話 世界最後の記録③ 〜至高の日々〜

 シンカは目覚めた瞬間に、跳ね起き、状況を把握した。一撃で気を失い、小屋に運び込まれたのだ。目の前で本を読む女、野生動物でも筋骨隆々でもない、細身の女に。

 情けないとか悔しいとか嬉しいとか、邪念に近い感情が煮え立つより早く、シンカは土下座をしていた。次の戦いが待っている、また戦える……その一念は他の全ての欲望と感情を吹き消す。


「もう一度手合わせ願えませんか?」

「当たりどころが悪かったのかな? たまたま私が勝っただけだよ」

「いや違う。それは違う」


 シンカには確信があった。体が攻撃に反応するより遥かに短い刹那の記憶、記録映像のようなイメージが鮮明に残っていた。


「左の直突き……見てからでは躱せなかった。それほど早く、予備動作がなかった」

「見えたのか?」


 珍しく女は目を見開いて、冷静沈着という森に隠した本性、感情らしい感情を、一瞬だけ見せた。


「見えてから対処したのでは間に合わない、そこまでは理解しました」


 女は本を置いて、シンカの目を見据えて、胡座を直す。


「その通り。極限の戦い、殊、間合いの内において人の思考が介入する余地なんて無い」

「では何が勝敗を分けるのでしょうか?」


 恥も外聞もなくシンカは訊いていた。自分が下である事は本能で理解できた。


「そんな事まで私は知らない。自分で考えな」


 そしてまた正座を組み直し、頭をさげる。


「そのためにもう一度、立ち会って頂けませんか?」

「まあ、そこまで言われたら断る理由も無いけど」


 心なしか嬉しそうに承諾して、女は外に出る。


 続いて森林に出たシンカは、その様変わりした景色に驚いた。おそらく自分が吹き飛ばされたであろう軌道に立っていた木が三本折れていた。最低でも20メートル、シンカはそれらをへし折りながら、宙をグルグル舞い、吹き飛ばされたのだ。


「凄まじい威力だ」

「威力が必要なのか? 戦いに」


 唐突に尋ねられて、シンカは逡巡する。


「必要です」

「なぜ?」

「常に急所に当たる訳じゃない」


 女は……この日からシンカが『師匠』と呼ぶ事になる女は、いつもシンカに疑問を投げるばかりで、ほとんど答えを返してはくれなかった。この日も同じで黙ったまま歩き、シンカから距離を置く。


「さあ、とっとと始めよう」

「ええ」


 シンカは構え、その直後に飛び退く。前の経験から10メートル程度の距離では不可避の致命打を躱せないと踏んだ。


(間合いが……遠い!)


 今まで戦いだと思っていた戦闘が、本当の意味で戦いではなかった事をシンカは噛みしめた。


 これまでは自身の類稀な運動性能がシンカに圧倒的な間合い、先制攻撃の理を与えていたのだ。それどころか、人を超えた反射神経、優れに優れ、冴えに冴え渡った全ての五感が、戦闘に対するシンカの有利と相手の制御を可能にしていた。誇張ではなく、常にスローモーションで向かってくる敵を相手にしていたのだ。


(今は全く違う。これからは違う)


 シンカは対等な敵を前に、喜びで震えていた。軽く斜に構えた女は自分と同じかそれ以上の間合いと速さを有す。さらにたった一撃で、シンカは骨身に沁みて女の技の完成度を痛感していた。


「そういえば、名前を聞いていませんでしたね」

「人に名乗る時は、まず自分からだろう」

「アスミ=シンカと言います」


 だが、相手は名乗ってくれなかった。


「私に勝ったら名前を教えてやろう」


 この野郎、と舌打ちしてシンカは笑った。直後、笑いも浮ついた感情も全て吹き飛ばして、大地を蹴り込んで仕掛けた。


(思考の介入する余地が無いのなら、先制絶対有利)


 もはやシンカには油断も、相手が女だと労わる配慮も無かった。野生のチーターよりも早いその足で加速して、威力に任せて前蹴りで蹴り込む。

 左後方に回避した女へと軌道を修正して、シンカの蹴りは女に突き刺さったかに見えた。実際、女は吹き飛んだ。

 しかし女は後ろの木でショックを吸収してからなんなく着地する。手と足で器用にシンカの足を挟み、威力を殺したのだ。

 今のシンカに抜かりは無い。悠々と着地する隙など与えるはずもなく、追撃を加えようと足を踏み込んだのだが、激痛に膝が折れた。


 女に蹴り込んだ右足の脛、骨が折れていた。


「また私の勝ちという事でいいかな?」


 無表情に髪の埃を払って、女は構えを解いた。シンカはしばらく考えたが、実力差と怪我を客観的に推量した。


「俺の負け……ですかね」


 言ってから、負けを実感してシンカの頬を涙が流れた。もちろん遺憾が込み上げ我慢出来なくなったのではない。死の淵で出会えた奇跡、千年に一度の邂逅に感動し、打ち震えて涙を流していたのだ。


(まだ強くなれる……まだ上がある)


 その涙を見て、女は同情するでもなく、なぜかまた嬉しそうに笑った。


「男の癖に情けないね」

「足が治ったら、もう一度戦ってもらえませんか?」

「私はしばらくあのボロ小屋にいるよ」 


 それからの約三ヶ月、怪我が治る度に師匠に挑み続けた。その短すぎる時間は、シンカがこれ以上ないくらい生を実感した充実の3ヶ月だった。

 どれだけ工夫しても、研鑽を重ね、思考を折り重ね、経験を積み重ねても、それでも一撃すらかすらない相手がいるのだ。それがシンカにとっては無上の幸せだった。


 そしてそんなある日……今日は攻撃が当たりそうな、高揚感のある日の朝だった。師匠が黒く長い棒を引っさげている。


「師匠、それは」

「今日から私はこれを使う」


 黒いパドルを持ち出してきた。持ち出す理由がシンカには全く理解できなかった。掴めば折れそうな棒があろうがなかろうが、関係ないのだ。だがシンカも警戒心が発達し、油断はなかった。それまで以上、人間以上、ありとあらゆる生物以上に油断はなかった。


(何か理由がある)


「分かりました」

「素直でよろしい」


 一礼すると、シンカはいつも通りすぐ師匠に襲い掛かったが、すぐにくの字に折れて距離を取った。


(なん……だ?)


 師匠がいつもより倍近く遠くに見えた。あんな棒切れ一つ構えただけで間合いを狂わされる理屈がシンカには分からない。今まで武器なんか使わなかったシンカも、上手相手に無防備でいられず、石を投げて様子を見る事にした。

 以前のシンカならそんな事プライドが許さなかったかもしれない。シンカは勝つ事に必死に、真摯になっていた。

 シンカの石は弧を描くパドルの軌道に沿って、見惚れるほど自然に、音もなく受け流されていた。


(防御に使う道具? いや、側部にかすかに切っ先が見える。攻防一体というわけか)


 分析を続けようとした次の刹那、シンカはガードを強いられた。師匠がまるでアイスホッケーの様に、地面の石をパドルで飛ばして来たのだ。辛うじて手で軌道を変えた石はシンカの額を出血させるに止まった。


(石は無視だ。致命傷にはならない)


 シンカが仕掛けようと踏み込んだ瞬間、師匠も後の先を取りに合わせた。シンカはそこに先んじるべく、左のジャブを被せる。


(当たった!)


 シンカはそう確信した。タイミングもスピードも威力も十分だった。だが、師匠はパドルを地面に刺してしならせ、急ブレーキをかけていた。そのままパドルを掘り上げ、土でシンカの視界を奪う。


 あとは一方的だった。完璧に体得されたパドルの技術……攻守、リーチはおろか運動性能までも飛躍的に向上させる武器の前には為すすべもなかった。


「反則だ、そんな武器」


 夜、飯を食いながらそう言うと、師匠は声を出して笑った。


「泣き言を言うのは初めてだね」

「ただでさえ叶わない相手が秘密兵器を持ってるなんて」


 反則だ。シンカは率直にそう思った。どこまでも高く青い空を見上げているような、清々しい気分だった。

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