第4話 世界最後の記録② 〜求めし最強〜
『そこで死にたかった』なんて話はもちろん伏せて、シンカは博士に説明した。
====
念入りに調べ、人里から遠く離れた山奥をシンカは歩いていた。見つかりさえしなければどこでもよかったのだ。道中、コンビニで買ったパンを食べながら、なぜ死ぬ前にそんな事をするのか疑問に思った。
きっと痛いのも空腹も嫌いなのだ。だから苦しまず短時間で死に至る薬を選んだ。
次になぜ死ぬ必要があるのか思案したが、いつもどおりの結論、生きていく理由が見つからないという高く分厚い極論に行き当たった。
半日ほど走ったところでせせらぎを耳にして、澄んだ滝壺で水を飲む。岩魚でも取ろうかと辺りを見渡したところで、気が変わった。
(死ぬには悪くない場所かもしれないな)
その時シンカが立っている砂利の上は狭くも広くもなく、少し空が開けて、大の大人が数人横になれそうなスペースだった。シンカは仰向に寝転んで、空に考え直す。
(俺の敵はたぶんこの先、一生現れない。別に死ぬ必要は無い……無いが、このまま老いて足掻く事も許されない人生は俺には耐え切れない……)
その先の思考を、怖気が吹き飛ばした。獲物を狩る鋭利で冷たい気配に身を跳ね起こす。
(野生動物……違う、奴らは俺を襲わない。それにこの匂い……焼き魚?)
臨戦態勢のシンカの五感が、ほんの微かな焼き魚の匂いを嗅ぎつけた。魚を焼く生き物をシンカは一種類しか知らない。それは滝の上の方から匂っていた。
匂いを追って崖を駆けるように飛び上がると、広い空間に小屋が立っている。場所で言えば場違いに相違ないが、景観から言えば釣り合った木造のコテージだった。シンカはそのドアをノックもせずに開け放つ。
中はほとんど伽藍堂で、古びた布団と本の山、それに一人の人間以外は何も見当たらない。
「ああ、すみません。人がいるとは思わなかったもので」
出し抜けに嘘を吐きながら、そこにいた人間を見てシンカはがっかりした。こんな山奥で都合良く好敵手に巡り会える筈もないが、シンカは最期の奇跡に一縷の希望を捨て切れなかったのだ。
(さっきの気配は勘違いか)
奥の方で若い女が一人あぐらをかいて、串に刺さった焼き魚を頬張っている。足元には木皿の上に焼き魚がいくつか盛ってある。
よくよく辺りを見渡せば、暗がりに一本の長い棒が立てかけてあった。
(パドル? この山奥に?)
黒髪を結わえた軽装の、登山客とはとても思われない、一見してあまり特徴の無い若い女。バラック小屋の奥に背をもたれて、女はこう言った。
「気にするな」
まるでシンカには興味も好奇心も不信感も抱いていないみたいで、女は一心不乱に魚を食べていた。シンカを視界に捉えようとはしない。だからシンカはそのまま木の扉を閉じようとした。
「ちょっと待ちなよ」
串を捨て置いた女の視線が針みたいにシンカを刺す。落ち着いた、低い声の女だった。ぶっきらぼうに、男みたいに話を続ける。
「その顔その装備……登山客でも修験者でもなさそうだね。こんな山奥に何しに来たんだ?」
「修行です……宗教じゃなくて戦いの」
「戦い? 自衛隊とかサバイバルにでも憧れてるのか?」
「いや……徒手の、空手とか柔道みたいなものです」
とっさに日本のマーシャルアーツを名乗ってみたが、シンカの遍歴で言えば数々学んだ武道の一つに過ぎなかった。
女は本の山からだるま落としの要領で一冊だけ引き抜く。『猫の妙術』と書かれた、日本の武道の書物だった。
「武道なら私も知ってるよ。少しだけ習った事があるんだ。空手なら流派はどこだ?」
「空手ばっかりじゃないので詳しくないんです」
「総合格闘技?」
「まあ、そんなところです」
「こんなところで私も暇でね。よければ是非、教えてもらえないかね」
シンカは困惑した。こんな山奥で女に急に格闘技の教示を頼まれるなんて思ってもみなかった。相手はもうやる気のようで、立ち上がってまっすぐにシンカを見つめる。
「教えろと言われても……何をしますか?」
「空手と言えば組手だろう。もしかして型しかやらない流派か?」
「いえ、空手だけじゃない、というか、いろいろな武道をかじったもので。では組手をしましょうか」
後から思い返して、シンカはこの思い上がった態度、上手から初心者をたしなめる態度を取った事を後悔した。
そのとき考えていた事と言えば『相手の女性はこんな山奥で出会った、見ず知らずの男と戦うのが怖くないのだろうか?』という疑問くらいだ。
「さ、運動運動」
なんの気なく承知して、森へと出ると、女は素人丸出しのシャドーをしながらそう言った。
不思議なもので、人と話していると、さっきまで死のうとしていた自分なんかどこかへ消えていた。
「どこからでもどうぞ」
「なんだ構えないのか?」
「遠慮なくどうぞ」
「じゃあ遠慮なく」
====
「その日は……それで終わった」
博士は思わずコーヒーを吹きそうになる。
「え? 続きは!?」
「記憶が無い」
はっきり言ってしまえばコテンパンにされた話、しかも所々記憶が飛んで曖昧な話を嬉々として、まるで自分の武勇伝みたいに話す息子が、学者には新鮮だった。
もしかして『この子は敗北を求めていたんじゃないか』と思うくらいはしゃいで、『遊園地にまた連れて行って』と願う子供みたいだった。だから学者も楽しくて、ただ続きを促した。
「それでその人に稽古をつけてもらって、そのあとは?」
「いなくなった。朝起きたら、パドルと髪の毛しかなかった」
学者はいやでも目立つそのパドルを見た。一見して、素材がよく分からないほど黒かった。
「なるほど不思議な話だね」
「博士なら何か分かるかもしれない。頼む。これを、パドルとこれを調べてくれないか?」
シンカが内ポケットから黒い髪の束を差し出した。
「まあ……ね。やるだけはやってみるけど、期待はしないでよ」
「すまん。助かる」
「シンカの DNAについてはちょっと解析できたんだけどね」
「そんなのはどうでもいいよ」
こんな口の利き方をシンカがするのは、博士の前だけかもしれない。
「シンカもきっと聞いたら驚くよ。なんと! 君の遺伝子がたった四つの塩基配列だけで構成されている事が証明されたんだ!」
「……もしかしてバカにしてるのか?」
ニヤニヤしたまま博士はついさっき女学生に渡されたスコアシートをシンカに見せた。渡された電子版にシンカは目を通す。門外漢の彼にとって、それはヒエログリフでしかなかった。
「全くわからん」
「遺伝子工学の話になるけれども……」つやつやと張りのある声で科学者は言葉を続ける。「ところで遺伝子工学って、妙ちくりんで奇天烈な言葉だと思わない?」
シンカは「知らん」とだけ、愛想のカケラもなく返答する。
「『遺伝子』に『工学』だよ? 僕に言わせれば『芸術的』『物理学』みたいな感じだ」
シンカははズズッと音を立ててコーヒーをすすり「よくわからん」と言う。
「まあとにかく、そんな矛盾とギミックに煮詰まった世界の与太話の重箱の隅をつつくような話の一例として聞いて欲しいんだ。君は人間、つまり生物学的に分類されるヒトじゃない」
ほとんど証明され尽くした事実だった。それなのに、育ててくれた親に『人間じゃない』と通告されるのは、やっぱり楽しい事ではあり得ない。シンカはむすっとしたが、顔つきはいつもと大して変わらなかった。
「どこがどう?」
「まだゲノムをすっかり解析したわけじゃないんだけど、ほとんど全ての点から人間では有り得ない」
「珍しいな。そんばズバズバ言うの」
「僕は割と臨機応変に対応できる人間だと自分を評価してるけど、君に嘘を吐き通す自信が無いんだ」
「それで?」
「今わかる結果だけ言うなら、まず染色体の本数が54本」
「普通……人間は?」
「46本」
「それはいいのか悪いのか?」
「確か……家畜の羊が54本だったかな」
「羊と一緒か。俺は羊か」
「野生の羊だともっと多かったり、時には奇数だったりする」
「けっこう大雑把なもんだな」
「そう、そんなものさ」
「余分な、その……残った8本がおかしいのか?」
疑問符の付くような疑問文を並べ立てるのは、シンカにとって珍しい傾向だ。
「いや、短いサンプル鎖の情報も、おそらくほとんど全てヒトと違う。まずテロメアが長いね、長生きするよ」
「そりゃどうも」
「エンハンサーとサイレンサーの候補シグナルも多い……いや、それもきっとヒトと違うだろうから、もっと多くあるはずだ」
「よく分からんが、なんとなく全然違うって事はわかったから十分だ」
それ以上を聞くのは怖かった。
「いや不十分だよ。これは逆に君という、アスミ=シンカという生き物を説明するに、あまりにも不十分な証拠だ」
「また……」
『またよく訳の分からない理屈を言い始める』。そんな事をシンカは言いたかったが、なんとなく飲み込む。
「チンパンジーとヒトのDNAがどれだけ違うか、知っているかい?」
「たしかそんなに違わないんだよな。5パーセントとか……10パーセントとか」
「それだって実は大雑把なんだ。だいたい1パーセントから5パーセントって言われてる。そもそも本数が違うんだ。染色体の」
「十分じゃないのか? 全然違うってのは、漠然とだが、なんとなく分かったよ」
「分かった気になってもらっちゃ困る。実は生物ってのはそんなに臨機応変に出来ていないんだ。超長期的に見れば無限の様だけれど、個体に限れば遺伝子はとっても不自由なんだ」
シンカは黙った。ここまで舌が回り始めた科学者を止める術が無い事は、随分前から知っている。気が済むまで喋らせておくしかない。
「またそうやって黙っちゃうんだから……ハッキリ言おうか。染色体が46本と54本の間に生存能力を十分に持つ子孫が生まれる確率は0、統計的に信頼できる範囲でね。ヒトの男女から君が生まれる確率はもっと低い」
ここまでくると親としての顔がほとんど剥がれ、隠しきれない学者としての本能が真理を求めているのがシンカにもありありと見て取れた。それは不思議なことに、野性的な本能とどこが違うのかもよく分からないほど根源的で、乾きに飢えた渇望で、魅力的だった。
「君はどこから来たんだい? アスミ=シンカ?」
「博士が分かない事を、俺がわかるはずないだろ」
「忘れもしない12月31日、生まれ出ずるはずの無い生命体を僕は確かに拾った。雪に埋もれる協会で鳴き声を聞いたんだ」
黙ってコーヒーをすすろうとしたが、それがもう無いことに気づいてシンカはカップを置いた。置いたカップから、疑問が湧いてきた。
「じゃあそんな俺を……俺より強かったあの人は……なんなんだ?」
「これはミステリーでありサスペンスだ。僕も実を言うとそこに興味が湧いて、頭の中が鳴り止まないんだ」
それから二人は他愛も無い会話をして話を切り上げた。長い一日を終えて、学者は今日の記憶を整理する。
(しがない研究職、天才少女、天才格闘家、天才格闘家を倒した謎の女……面白いミステリーだ。だが糸口は……まだまるで掴めない)




