第36話 空より永遠に
ソレイルの言葉で、雨音がいよいよ明るくなった。突如、ソレイルの辺りに数え切れない、半透明の黄色いパネルが現れる。
「悲しみのソウル……フィスカ中に」
エテア=ルミラスを包む障壁を打つ涙が、うるさいくらい鳴っていた。空の兵だけではない。フィスカの城下町から城に至るまで、フィスカが泣いていた。
ソレイルはパネルをかき分けて、即座に最善の一手を選択した。誰よりも最優先の抹殺対象、アスミ=シンカの首を黒いバドルで両断したのだ。
パドルは音も無く振り抜かれ、ソレイルの左腕ごと後方に転がった。ソレイルはついに両手を失った事になる。
地響きに視界を取り戻し始めたシンカでさえ、その瞬間は見えなかった。気づいた時には自分とソレイルの間に少女が立ち、ソレイルの腕がなくなっていた。
「ルシ……ア?」
一瞬、無言で振り返ったルシアの顔は、まだ少し涙ぐんで、それなのに最高の笑顔だった。
「ルシア、君はいったい……いやそれよりもソウルが無い?」
ソレイルが無い右手にパドルを引き寄せながら言う。
「わたしのソウルは……今フィスカ全体を包んでいます」
「…………覚醒か? 確かに、不安定な精神ではあったけど……ルシアほどの才能が覚醒したって言うのか?」
覚醒という言葉に、シンカは少し安心と憂慮を抱き合わせた。体はまだ思うように動かない。ルシアは唐突に言った。
「ソレイル様、ヒドいですよ。自分が死にたいからって、わたしやフィスカを利用するなんて」
「私が死にたい? 何を言ってるんだ、ルシア?」
少しの沈黙。
「ソレイル様は悪意の転換炉に落ちた時、なんとかして、その悪意を利用しようと考えました。ココロの一番深いところで、これを利用してでも世界を救おう、って」
シンカには何を言っているのか分からないが、ソレイルは明らかな狼狽を見せる。
「まさか!? 在り得ない! ルシア、君は私たった一人の過去……いや、深層心理まで見たって言うのか!?」
ルシアは両手をその胸にあてる。
「そんなココロのチカラも悪意に飲み込まれた時、ソレイル様はたったひとつ、死の未来が見えた場所、フィスカを標的にしたんです」
「それはおかしいよ、ルシア。私が本当に悪に飲まれたのなら、そんな選択はし得ないはずだ」
ソレイルがルシアに向かって歩を進める。にっこり笑って、ルシアは手をかざした。
「『負ける事で悪になる』。ね、そうでしょう? ソレイル様」
ルシアに操られる様に、ソレイルから黒いソウルが吹き出した。ソレイルは尋常ではない苦しみ方で、奇声と共に無い腕から、目や口から、おびただしい量の禍々しいソウルを吐き出す。
そのまま空っぽになったソレイルは倒れ、天を仰いだ。太陽を遮るように笑顔のルシアがその顔を覗き込む。
「なるほど……『勝ってしまっては正義になってしまう』という事か。我ながら頑固で……理屈っぽい男だ」
「ソレイル様は昔から変わりません」
ルシアにつられてソレイルは笑った。無い両手は血だらけで、口元と、目尻を笑わせる。
「ありがとう、ルシア。君に止めてもらえて、本当に良かった」
「わたし、嬉しいんですよ。ソレイル様の願いを叶えてあげられて」
ソレイルが浮かび上がる……もう誰にも見えない、世界に溶け込んだルシアのソウルが、ソレイルを抱き上げた。
「ルシア、済まない、愛するルシアに、フィスカに私は非道いことを」
「いいんです。これが一番被害の少ない未来でしたから」
笑ってばかりいる少女を、場違いとは思いながら、寝たままの体勢でシンカは呼び止めた。
「ルシア。こっちに来い。今に治すから……ザクライの時みたいに」
「ごめんねシンカ。なんだかいっつも巻き込んじゃって」
「いいんだ。礼を言うのは俺の方だ……後ろを向いてくれ、今助ける」
シンカは起き上がろうとしたが、その余力は無く、ルシアも背中を見せない。
「いいの。わたしはもういいの」
「何をザクライみたいな事言ってるんだ。早くしろ」
初めて会った時、こんなに笑顔が似合う人間がいるのだろうか、とシンカはそう思った。今まさにそんな笑顔で、少女は胸を抑えた。
「さっきからね、心臓が動いてないの。シンカならわかるでしょ?」
言葉は一つも出てこなかった。数多ある切り傷のどれよりも深く、心身を抉られ、体が冷たくなる。
「嫌だ! 今こうして動いてるんだ! 可能性はまだある!」
「わたしの未来はもう見えないの。だからシンカ、止めないで。シンカにだけは直接さよなら言わなきゃね」
シンカは崩れ落ちた……激情に近い、冷たい心の静寂に、涙が勝手に溢れた。ルシアはソレイルを抱えて浮かび上がる。
「シンカ、ありがとう。短い間だったけど、いろいろ楽しかったよ!」
『私からも……』、とソレイルがシンカを見た。しわがれた声で、シンカに焦点が合わず、目はもう見えていないらしかった。
「迷惑をかけたね、アスミ=シンカ君。迷惑ついでに、私の願いを叶えてほしい」
「願い……」
「君が未来を切り開らくんだ。ヒトはいずれこの箱庭を出て、未開の未来を開拓しなければいけない」
「俺にどうしろって言うんだ」
「大丈夫、君はきっと正しい選択をする……そうだろう、ルシア?」
ルシアは優しく頷いて、二人は空へ舞い上がった。
「待ってくれ! ルシアッ! ソレイルッ!」
舞い上がった快晴の空にはまだ雨が降っていた。自分の不可解な無力にシンカは仰向けに倒れた。
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空のフィスカ兵達はルシアの悲しみが伝染し、解放された心が泣いていた。それぞれにルシアのソウルが語りかける。近かったダボネオールには二人が直接、息のかかるほどに近づいた。
「ダボネさんごめんね。あとよろしくお願いします」
「バカ野郎、いっつもいっつも一人で先走って……白天使はこれだからみんな……」
ダボネオールは声も顔も涙でクシャクシャで、半分くらい聞き取れない。ソレイルの目は、もう空しか向いていなかった。
「済まないね、ダボネオール。珍しく、私の方から迷惑をかけた」
「バカ! その一回がデカすぎんだよ!」
ルシアは笑う。ルシアはダボネオールが大好きだった。
「怒らないで、ダボネさん。これが一番悪くない未来だったんです。ダボネさんも見たでしょう?」
「馬鹿……理屈じゃねえんだよ」
ダボネオールの涙はしばらく止まらなかった。
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ラーネイザは馬上で、泣いていなかった。凛として笑っている。
「愛してるよ、ルシア。あんたがいなくてもきっとフィスカは大丈夫!」
「わたしもそう思います! ラーネさんもきっと幸せな人生を送ります……ラーネさんの子供も、その子供も!」
ラーネイザはルシアを、潰れるくらいに強く抱きしめた。
「愛してるよ、ルシア」
「わたしもだよ。ラーネ」
ラーネイザの腕から、霧の様に力が抜けていった。
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メイロンはシェラールと自宅に隠れていた。シェラールはルシアのソウルを見るなり抱きついて、泣いて離さなかった。
ルシアはシェラールの両目を温かい手で覆う。
「ごめんねシェラ。大好きなシェラともっと一緒にいたかったんだけど……」
「ずっと一緒にいてください!」
シェラールはルシアの服を引き寄せて、意地でも離さない様相だった。ルシアはその暖かい手を離す。
「さ、目を開けて」
シェラールは生まれて初めて見た世界で最も綺麗な、ずっと憧れていた天使を見た。涙でぼやけていた。
「イヤです! こんな目いりません! ルシア様さえいてくだされば!」
ルシアはメイロンを見た……直立して、いつもの怖い無愛想な顔で、滝のように涙を流している。
「メイロン、シェラは独り立ちできる強い人間だから」
「わかってますよ」
「それとね、今までありがと」
この笑顔に、メイロンは感情が一気に溢れ出して、咽び泣いて、返せなかった。
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「ザクライくん」
「わかっています」
ザクライは目を真っ赤にして、それでも我慢していた。ルシアは人差し指で、ビシッとザクライを指差す。
「ならよろしい。シンカを頼むよ。未来の白天使くん」
「こんな残酷で重たい感情が世界を包むなら、僕は……ボクは!」
言いかけた目の前にもうルシアは無く、ソウルが虹色に溶けていった。
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両腕も目も、ほとんどのソウルも失い、ソレイルはただなんとなく明るい方を見ていた。
「ルシア……未来は……」
「未来はすごくキレイですよ。この透き通った風みたいに、この綺麗な青空みたいに!」
風が強い。かなり上空らしい。目が見えなくともルシアが笑っているのがわかった。
「目が見えないのに眩しいんだ。風が体の、心の中まで通り抜けるみたいで」
「ねえソレイル様! 太陽まで行きましょう。ソレイル様の星!」
二人とも、いつか懐かしい時の二人だった。ソレイルは雪のようで、ルシアのソウルは虹色だった。
「太陽って、すごく遠いんだよ」
「じゃあ雪山を目指します。雪はソレイル様の白」
「せっかくだから、ルシアの虹がいいな」
「どこだって、ソレイル様と一緒なら……」




