第33話 真黒き翼 VS 告死天使
リマシィには悪意も善意もなかった。久しぶりに会う旧友に手を振る。仲間に出会った誰もがそうするように。
「久しぶりね、フィル」
「ソレイル様の邪魔はしたくない。あっちで二人っきりで話そう」
リマシィに初めて敬意を失した対等な言葉は、フィルクレッサの覚悟の表明とも取れる。二人が飛んだのは二階建ての聖王城向かって左、居住区の屋上だった。
リマシィの知った顔、見た事もない少女……ともかく何人もの真黒き翼が詰めかける。
「ずいぶん多い『二人っきり』ね」
辺りを見渡したリマシィの第一声を、フィルクレッサは無視する。
「みんな手を出す必要は無いよ。この際だからハッキリさせよう。どっちが戦力として、真黒き翼として、ギルド長として、指導者として上なのか」
フィルクレッサは落ち着いて見えた。別段、その心に宿す炎を隠しているわけではない。
「私、そういうのあんまり興味無いんだけど」リマシィは無邪気に微笑む。
「リマシィはいつもそうだったね。自分だけは違う。相手は格下。そんな顔で笑って、褒めて、人を見下してた」
「うーん、言われれば、そうだったかもしれないわ。自分より弱い仲間を褒めて、自分の何かを守ろうとしていたのかも」
頬にその細い指を当て、リマシィは自分の相手と言葉を反芻していた。
「リマシィは余裕がなかったんだ。ありもしない愛を探すとか言って、結局最後は逃げ出した」
「……そうだったのね。余裕が無かったんだわ。救いを求めて逃げ出したのかもしれない」
自分の誘導通りの回答なのに、業を煮やしたフィルクレッサは平静の裏に震えを隠していた。
「なんなんだよさっきから……何にも言い返せないのかよ。ホントに牙を抜かれちゃったのかな」
「あるとすれば一つだけね、フィル。私好きな人がいるの。私は全部あなたに負けたって構わないけれど、私はその人が好き。私は愛を見つけたの」
フィルクレッサは無表情に、意思も情も剥ぎ捨てて、空へ飛び上がって、呆れる事にした。色々聞きたい感情を全部押し殺した。
「もういいよ、そんな酔っ払いの言葉、必要ない。冥府では敗北が死なんだ。死んだらそんな思いだって消えちゃうんだ。弱くてもいいなら、愛なんて必要ないよ。リマシィを殺して、今それを証明してあげる」
「それは困るわ。だってシンカ様、私が死んだら悲しむもの」
フィルクレッサの強弓が鳴いた。二本の矢が同時に放たれ、さらに六本の散弾になってリマシィを襲う。リマシィはそれを翼で受け、膂力によろける。
フィルクレッサがマニュアル的に笑った。
「なんだよ、好きな人ってアスミ=シンカの事? それって圧倒的な強さへの憧れを、好きと勘違いしただけじゃないの?」
ダメージも他所にリマシィは頬にその細く白い指をあて、なおも本気で考え込む。真黒き翼の観客達は静かに見守っていた。
「最初はそう、憧れとかに近い感情だったんだと思う……だけどそのうち見捨てておけなくなっちゃって……あの人、弱いから」
「はぁ!? アスミ=シンカは最強なんでしょ? この世界の誰も敵じぁない。超越している。ソレイルはそう言ってたよ」
リマシィはずっと考え、フィルクレッサの挑発に真剣に悩んでいる。本当に好きなのかどうか。ちょっと困ったようにリマシィは想いを紡ぐ。
「強いけど、でもとても弱いの。いつも少し悲しそうで……他人、よく知りもしない他人が一人死ぬだけで揺らいでしまうの。冥府では餌でしかなかった人を、彼は助けないと気が済まないの。想いやって、その人の気持ちになっているの。私には『人を殺すな』って言うのに、彼は私のために人を殺すの。可笑しいでしょう?」
「笑えないね。何が言いたいのか全く分からないや」
次に放たれた矢の雨をリマシィは左手にした漆黒のレースで防いだ。輝く黒は甲高いさざ波に似た金属音を鳴らし、それが極細の鎖の繊維である事を示す。
ただリマシィはまだ心ここに在らず、記憶と自分の深層を手繰っていた。どこまでも自分の心の深くに潜る。
「たぶん……あの人の弱いところを見捨てておけなかったのね。私はシンカ様がソレイルに負けたって別に構わない。例えそれが世界の滅亡になっても、私はそれでいいの。けどその時ね、悲しむシンカ様の横にいるのは私でなくちゃ嫌。ぶっきらぼうで無口になって、いつもの顔で絶望する彼を、私が一番に声をかけるのでなきゃ嫌なの」
嘲笑を、フィルクレッサは努めて作った。
「リマシィやっぱりなんにも分かってないよ。ソレイル様の敗北こそが世界の終わりなんだ」
降りそそぐ矢を防いで、リマシィはついに反撃した。鎖のレースで矢を防いでから、振り回してそれを投げる。それは空中でS字の両刃の大鎌に変わり、的確にフィルクレッサを襲った。
フィルクレッサにとって、幼い頃から目に焼きついたその鎌を躱すのは容易いはずだった。しかし鎌は途中で分裂し、無数の刃が襲いかかる。咄嗟にフィルクレッサはそのコウモリの羽で防ぐ……それでも幾つかが薄い羽を突き抜け、鈍痛と出血を与える。左右に結んだ髪の右が千切れて落ちた。
「これは……ボクの技!?」
「きっと愛ってそういう事なのよ。認めてあげたいの、認められたいの」、リマシィの顔がなぜか嬉しそうに明るくなった。「そっか……だからあの時、私は怒ったのね、シンカ様に否定された気がして」
「もういい! 黙って死ねよ!」
襲いかかるギルド長を遠目に、祈る様に観戦する真黒き翼の女達は訝しんでいた。フィルクレッサの攻撃、一挙手一投足に至るまで、普段の鋭さがまるで抜け落ちている。そのせいか、リマシィの動きが昔よりも数段華麗に映った。
リマシィは空へ舞い上がり、身を捩って矢を避け、黒い生地で矢を払いのけ、ついにその刃がフィルクレッサの腹部を正確に捉えた。
鈍い音を立ててフィルクレッサは居住区の屋上へと打ち込まれる。リマシィの鎌は刃が潰れ、大したダメージを求めていなかった。
すぐ立ち上がって空を睨むと、リマシィはゆっくりと優雅に降りている。
「馬鹿にしやがって!」
「もう辞めましょうフィル。気づいてるでしょう?」
フィルクレッサ自身も気づいていたはずだ。愛を探してきた自分、リマシィの愛を否定しようとしている自分、その二つがどうにも矛盾している事に。
二人が再び衝突しようかというその瞬間、真黒き翼の数人が二人の間に割って入った。その目つきは厳しい者半分、悲しい者半分。
「手を出すなって言ったろ!」
「そういう訳にもいかないでしょ」
柔らかい目つきの、いつもは快活な副長がキッとリマシィを睨む。
「リマシィ様の実力は十分知っているつもりです。それでも今はフィルが私達のリーダー。失う訳にはいきません」
「素敵なギルドね、フィルクレッサ。あなたが作ったんだわ」
その時見せたリマシィの笑顔の魅力に、見ていた女達は息を呑んだ。古参のメンバーが誰一人として知らないリマシィの本当の笑顔だった。
ただ、どんな態度をとっても、今のフィルクレッサには逆効果しか与えないのかもしれない。
「リマシィが作ったんだ……でもボクが大きくした、強くした。リマシィを倒せば真黒き翼はより堅硬になるんだ!」
最後に放った矢を防いだのはリマシィではなかった。フィルクレッサが最も信頼している、髪の短い溌剌とした副長だった。
「なんで……君まで僕を裏切るの?」
「裏切っていません。リマシィ様はフィルを敵だと思っていませんから」
リマシィは空の庭園に、無邪気な顔で立っているだけだ。敵意とか悪意とか、邪気とか瘴気じみた雰囲気は一切ない。
「僕なんか……敵にならないって言うの?」
「ええ、敵じゃないわね。だって仲間だもの。そういえば! ねえ聞いて。ついこの前、ヴォルグ達と飲んだの。私、ついさっきまで冥府にいたのよ」
フィルクレッサはヴォルグレイ達との確執を思い出して嫌気を催す。
「また裏切った奴らの話か」
「戻りたがっていたわよ、真黒き翼に」
「嘘だ。彼奴らはボクたちを捨てた!」
「捨てたんじゃない、そう言っていたわ。あなたが怖かったのよ、フィル。あなたのその『敵を作為的に創り出す』態度が」
「結局、ボクが全部悪かった。そう言いたいのかい?」
「そうは言っていないけど、まだ改善の余地があるって事じゃないかしら」
以前と変わらない雰囲気のリマシィが、魚と鳥くらいに違っている事に、今まで曇っていたフィルクレッサの目はようやく気がついた。
リマシィの瞳は自分ではない遠い誰か、過去ではないどこまでも未来を見晴らしている。フィルクレッサは過去と今と自分ばかりに必死だった事を、視覚的なイメージで理解させられて、自然と武器を収めた。
「ボクの負けだ。なんにも敵わないや」
「負けじゃないわ、戦いじゃないもの」
敗北を宣言したとたん、急に昔に戻ったような気がして、つい口をついて言葉が出る。
「もう一度、真黒き翼を……」
「残念だけど、それはできないの」リマシィは口早それを遮った。
「そっか……」
寂しそうにしばらく俯いてから顔を上げ、フィルクレッサは再び弓を手にした。その目には深い力と喜びが宿っている。
「じゃあこうしよう! ボクが勝ったらリマシィ、キミが真黒き翼のリーダーをやるんだ。キミが勝ったらボクがやる」
「さっきとあべこべね。意味があるのかしら」
フィルクレッサはリマシィよりも笑顔で、遠足に来た子供みたいだった。
「あるとも! 全力のリマシィ様と戦える」
リマシィは武器を出したっきり、それ以上なにも言わなかった。フィルクレッサは誰にも聞かれない小さな声で言った。
「やっと見つけた、かも」




