第30話 虹と雪
軍の養成所に入って半年ほど経った頃、ルシアは雨の日が嫌いになり始めていた。雨の日の大半は外で訓練出来ない上に、メイロンが分厚い本を寄越してくる。ルシアは冬が嫌いだった。寒いし、世界からカラフルな色がなくなってしまうからだ。
この日は真冬、今にも冷たい雨が降り出しそうな暗い朝だった。特別待遇もなんのその、今日のルシアはあまりに気乗りしないので、メイロンが来るよりも早く、立て付けの悪いドアをそっと開け、兵舎を抜け出した。
空から抜け出すと警らの網に引っかかるかもしれない。ルシアは城門から堂々と出るために、門兵に言うでっちあげの口実を考えながら中庭を歩く。吐く息が白かった。
「あ! いっけないんだぁ!」
子供っぽく嘲る声がして、ルシアはギクリと後ろに振り返る。城壁の淵で足を組んで、ソレイルは悪戯っぽく笑っている。ルシアの頭が他のどんな勉強をしている時よりも早く回った。
「これはその、ですね。忘れ物を取りに家に帰ろうかと……」
「私はまだ何も言っていないよ? 別に『ルシアはメイロンの家庭教師が嫌になって性懲りも無くまた逃げ出して、家の暖炉で暖まろうとしているんだろうなぁ』なんて想像もしてない」
残り少ない就寝時間を本来の目的に使おうとルシアは諦めて踵を返す。メイロンみたいな嫌味に、一矢だけ報いる事にした。半年という時間はそのくらいに二人の距離を寄せていた。
「ソレイル様のいじわる」
「そっちじゃないだろう?」ソレイルは空を見上げて続ける。「行きなよ。今日は行きたいところに行くといい。メイロンには私から言っておくから」
ルシアは半ばぶつかる形でソレイルに飛びついた。
「ソレイル様ありがと! 大好き」
「上を見てごらん」
言われるまま上を見ると、どんよりした雲ばかりが見渡す限りに広がっている。ルシアの頬に冷たいものがあたった。
「あめ……?」
次は広げた掌に冷たくて柔らかい感触があたる。一瞬白っぽく見えたそれは雨に戻ってしまった。
「ルシアが小さいくらいの年に一、二度降ったけど、たぶん見るのは初めてなんじゃないかな?」
「これ、雪?」
ルシアは初めて見る雪に、なぜか無性に嬉しくなった。このまま雪の出来る瞬間を見に、空へ飛び出そうかと思う。
「そう、今年はめっぽう寒いから、積もるかもしれないね」
「つもる?」
「辺り一面が雪で真っ白になるんだ」
「じゃあソレイル様にぴったりだね! 真っ白な天使に真っ白なお城」
ソレイルは戦場と平素で別人のような男だったが、ルシアの知るソレイルは大抵笑っていた。
「真っ白な城に虹というのも、なかなか幻想的だと思うよ」
「虹?」
「いや、なんでも無い。こっちの話」
二人はしばらく寒さも忘れて、寒空を見あげた。ソレイルは何か思い出したように言う。
「そうだ、メイロンには『私の日だから休日にしておいた』。こう報告しよう」
ルシアの笑顔がひまわりみたいに真冬に咲いた。
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ルシアの野生が、もうこれしか攻略法は存在しないと結論付ける。数や策ではどうにもならない力を湛える相手にはもう一つの大きな力をぶつけるしかない。
そのレイピアを盾も兼ねるほど大きなランスに変え、ソレイルに突っ込んだ。死んでもいいとルシアは思っていた。障壁を突き抜け、エテア=ルミラスの大地を貫き、そのまま直下のフィスカまで心中飛行する覚悟だった。
ソレイルはその神風に即座に反応し迎撃しようとしたが、灰色の光はランスに逸らされ、その予想外の勢いに跳ね飛ばされてエテア=ルミラスに激突した。
「ソレイル様! わたしがあなたを倒します!」
敵地にたった一人特攻したルシアは、空から最愛の敵を見下ろして、すでに頬を濡らしていた。大きなクレーターの中心で、服も乱れていないソレイルは起き上がる様子もなく目を見開く。
「素晴らしい。人は進化する。前に進めば、後退もする。思い返せば……ルシア、君を見ているとそれを全身に感じて、私はいつも嫉妬をしていたのかもしれない」
「もうソレイル様が何を言っているのかよく分かりません。気にしているほど、わたしもう余裕がないんです!」
のんびり起き上がり晴空を見上げてソレイルは笑った。それはルシアが知る昔のままの、綺麗で優しくて、周りの事ばかり考えているソレイルだった。
「それでいいのさ、ルシア。君は本当に美しい。次の世界を担うのは、きっと君みたいな、人の痛みが分かる、人のために泣ける、人のために死ねる、人のために生きる人類なんだ」
ソレイルは愛弟子であり、妹とも言えるルシアを賛美しながら、その悪意を遠慮なく放った。ルシアは残像を残す疾さで回避し、空中庭園の芝生に足をつけている。反撃に打って出る直前、ルシアは涙ながらに訴えた。
「じゃあなんで人を殺すんですか! ソレイル様は人の痛みが分からない人じゃ無かった! 人のために泣いて、みんなのために世界の地図を描くって、フィスカを飛び出した、すごい人なんです!」
「もっと先を見てしまったからさ。痛みを経て、種の死滅にさらされ、不幸を乗り越えて、絶滅の危機に瀕してなお、人は進まなくちゃいけない……私はそれを知ってしまった」
ルシアがレイピアと羽で仕掛ける。いくつもの灰色の線が光り、ルシアの攻撃を迎撃した。邪悪なオーラを含むソレイルのソウルは、以前のような綺麗で明確な形態を必要としないらしい。
「ソレイル様。あなたはいったいどこで、何を見たっていうんですか?」
「まずは私を止めるのが先決じゃないかな?」
ルシアの翼が四枚になった瞬間、轟音が破裂して、衝撃にエテア=ルミラスの西端が崩れ落ち、本格的な戦闘が始まった。
障壁に阻まれたフィスカ兵は指を咥えて見守るしか無い。そうでなくとも手を出す隙は無かっただろう。なにせヴァーゼルとフィルクレッサまでもがポカンと目と口を開いて見守る事しか出来無かったのだから。
「冥帝がやられたというのは……嘘では無いらしいな」、目を右往左往させて、ヴァーゼルは必死に二人の戦いを追っていた。目で追うのが限界だった。
「うへぇ。あいつに出てこられたら死んでたなぁ」、頭にタオルを乗せ、フィルクレッサはルシアを手放しに賞賛する。
二つの光が火花を散らして交差し、錐揉みながら飛び交い、衝突してはエテア=ルミラスの大地を切り崩す。天空位を冠した二人の戦いは幻想的に、流線を描きながら調和した。
少しして一際大きな爆音が響き、先ほどルシアが作ったクレーターの倍近いサイズのそれが出来た。その中央でルシアは立ち上がる。明らかなダメージが見て取れた。
「強くなったね、ルシア」
「ソレイル様のソウルじゃない……あなた誰?」
ルシアの劣勢に、上空が騒がしくなり、侵入しようと暴れるフィスカ兵は必死だ。ソレイルはクレーターの淵に降り立つ。
「ソレイルさ。悪に染まり、遠い未来を見たソレイル、そんなところ」
「わたしはルシアです。ソレイル様が大好きだったフィスカを守る天空最高位、ルシアです」
再び二人が空中で火花を散らす。ルシアはクヮコーム戦の時よりも格段に強くなっていた。異世界の大男と漆黒の告死天使、たて続けに自分よりも強い相手に二人も出会い、自分の弱さを知り、さらなる強さの足がかりにした。
ただ、ソレイルの強さはさらにそれを超えた。一個人が持ちうる枠組みを明らかに超えたソウルのキャパシティと運用方法は、無尽蔵のレーザーを生み出しては放つ。ルシアはその波状攻撃に防戦するので手一杯だった。
不利を承知で、ルシアは防御と回避に徹した。一撃受けるごとに丸い盾は壊され、その度に修復する。何度となく躱しきれずに衣服や翼が焦げ落ちた。
あれ程馬鹿げた威力の攻撃を無尽蔵に出し続けられる筈が無い。その一念と上で鳴り響く歓声がルシアを誰よりも疾く飛ばした。
だが大概の思惑を裏切って、ソレイルよりもルシアのソウルが先に尽きた。レーザーの一つが左腕の盾を溶かし、ルシアの体勢を突き崩す。続く二本目が羽を落とし、天使は大地に堕ちた。
「わたし、ソレイル様に殺されるなんて嫌です」
この言葉は助かりたい一心で、軽薄に口を突いて出た言葉ではない。ただただ悲しくて、やるせなくて、向ける矛先が分からなくて、涙と共に溢れた言葉だった。
「泣かないでくれ、ルシア。君ほどの素晴らしい、予測不可能で、魅力的な可能性を消してしまう事に、私自身少し戸惑っているんだから」
「だからソレイル様も泣いているんですか?」
その目を拭って、ソレイルは一滴の涙に初めて気がついたらしい。ただし、それが動揺や後悔を生む事は無いのかもしれない。無感動に言い放ち、掌から薄暗い闇をルシアに向ける。
「これは昔、君を愛したソレイルという男の名残だ。さようなら」
その瞬間、難攻不落の障壁を通り抜けて、真上から二人の間に黒いパドルが飛来し、突き立った。
「ルシア様! それをッ!」
ザクライが叫ぶのと、ルシアが掴むのは同時だった。この非道な武器はどのようにも致命的だ。パドルには障壁はおろか、ソレイルの特異で凶悪なソウルすらも関係ない。
乾坤一擲の一撃が放たれる瞬間、ルシアの羽は六枚になり、ソレイルの想像さえも凌駕する速さでその胴体を切り裂いた。
その異様な手応えと痺れにルシアは震えた。シンカの世界の武器は、こんなにも重たい手応えなのかと震える。パドルは折れる程にしなり、恩師なんて言葉では表現しきれない、畏敬の人からの体から重たい手応えをしばらく伝え続けた。
「なにが……?」
ソレイルはうつ伏せに崩れ落ち、それだけ言った。世界の常識を超えた彼のソウルを、そのパドルは全く無視したのだから当然だろう。
「ルシア、やれ! 止めを刺せ!」、上空でダボネオールが叫んだ。
この大陸では死が軽い。葬式なんて滅多に行われないし、死を嘆き、涙を流す事も珍しい。しかし少女は例外だった。いつも人の事ばかり気にして、大それた自己主張を避け、調和を重んじて生きてきた。
短い時間だが、少女は葛藤していた。大切なものは何か、その矛先はどこに届けるべきか……ただ一つ、腹を割かれた人間が生きていけない事くらいは理解していた。
「そうか……ルシア、私はきっと、君に殺して欲しかったんだ」
顔を上げたソレイルの瞳がまた潤んでいる。ルシアは残酷な気持ちをその胸に込めながら、ソレイルの首に狙いを定める……その下、腹部からは血が一滴も流れていない。
ハッと気づいた瞬間、鈍い音がして、ルシアは赤い地面を見た。
フィスカの南の空に微かな黒い点が浮かんだ。




