第5話 住所不定無職 VS 天空最高位
この戦いが世界でも両手で数えきれる豪傑二人による戦いである事など、本人たちさえ知る由もない。観戦者すらほとんどいない。
兵舎横の訓練場、幾星霜に渡って踏み固められた土の上で、大男と少女は相対した。
「ごめんね、こんな事になっちゃって」
天空最高位、ヴィセッカ=リート=ルシアは本当に申し訳なさそうな顔をしていた。こんな少女が『触る事も出来ない天上の羽』なんて、向かい合った今でもシンカにはイメージ出来ない。
「構わない。むしろ悪かったな。休日なのに」
「いいっていいって。でも今回だけだよ!」
この太陽みたいな笑顔の少女の底知れない実力に、シンカも興味があった。原始的な闘争に限って言えば、シンカの世界では圧倒的に男が有利だったはずなのだ。この千年で世界がどう変わったのか、確かめておきたいと思った。
観客は二人、見届け人、兼審判として呼び出された若い卒兵と、シェラという少女だけだった。晴れ晴れとする青空の下、城壁の上にも、兵舎にも誰もいない。
そこにメイロンと呼ばれた男が、先日と同じような礼服でやってきた。かなり離れた木陰から見守る少女の下まで、その歩を進めた。
「兄さん!」
先に気づいたのはシェラールだった。ルシアがシェラと呼んでいた娘だ。メイロンも同じ木陰で観戦を決め込む。
「なんとなくこうなるかもしれないとは思ってたけど。ルシア様も本当に人が良いね」
「私がいけないんです。ルシア様は争いにならないように隠していたのに、私がついカッなってしまって」
メイロンにはそれで大体の想像がついた。彼の妹はルシアの事となると、時々見境と後先を考えなくなってしまうのだ。
「ルシア様と買い物に行くんじゃなかったのか?」
「ちょうど出かけるところだったの。もちろんルシア様が勝ってから、すぐ行きますよ……でもあの相手の方、なんだか変なの」
その会話を遮る様に、「指導の許可が下りました!」と、下級と見える兵士は声を張り上げた。
かたや天空最高位にして天空騎士隊フィスカ総隊長、大英雄ヴィセッカ=リート=ルシア。
かたや住所不定無職、武者修行の旅人、大男アスミ=シンカ。
ネームバリュー的にはすでに決着のついた勝負が始まった。
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澄み切った蒼天の下、ルシアは真っ直ぐに相手を見た。相手の偉丈夫も彼女を見据えている。
「これは訓練、まあいわば練習試合だけど、お互い全力を尽くそうね」
「ああ。俺も手加減をするつもりは無い」
アスミ=シンカは足を少しだけ前後に構えた。重い体重に、訓練場特有の禿げた土が少しだけめくれる。
ルシアは鷹の目つきでレイピアとバックラーを構え、一つ低いトーンで名乗る。
「では改めて。天空騎士隊フィスカ総隊長、ヴィセッカ=リート=ルシア。参ります」
「昨日も言ったがアスミ=シンカだ。よろしく頼む」
得体の知れない不審者は、さらに足を前後に開き、丸腰のまま手を少しだけ上げた。
対峙は短かった。一息の静寂のあと、真剣な瞳をそのままに、ルシアが微笑する。
「私はね、駆け引きとか待つのは得意じゃないの。だから私から……全力でいくね!」
言うが早いか、ルシアはその背に翼を煌めかせ、飛翔した。淡いピンクの長大な翼をはためかせ、瞬く間に四階建ての城壁へ飛び上がり、その縁に片足で立っている。白天使の名に相応しい勇壮優雅な壮観だった。
それを見たアスミ=シンカはその無表情に、うっすらと驚きを宿す。
戦いに臨むルシアは、もう先ほどまでの無邪気な彼女では無い。上から見下ろして戦闘に必要な思考だけを瞬時に巡らせる。
(アスミ=シンカ……聞き馴れない響きの名。漆黒の髪と瞳、その巨軀は無類。それにソウルを全く感じさせないあの雰囲気……熟練した暗殺者や斥候のそれを彷彿とさせる……でもパドルは実物なのに船はソウルで作っていた? そのあたりにヒントがあるのかな?
なんか妙な気がするけど、得体の知れない相手にわたしが出来る事は警戒だけ……要はいつもと同じ。恐れも躊躇も必要はない!)
有翼の少女は城壁の角から舞い落ちた。舞い落ちながら、壁を蹴った勢いで鷹の如く相手に襲いかかる。相手は構えを崩さず、全く動かない。
(……防具の一つも出さないの!?)
ルシアはすぐに違和感を感じて、再び空へと回避した。
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兄弟である観客二人は大きな期待を胸に観戦していた。はっきり言ってしまえば、兵士も含めた三人は、ルシアが傷一つ負う事さえ想像していない。
選りすぐったフィスカの精鋭十人以上を相手に、指が触れる事さえ叶わない天上の羽。それが大英雄、フィスカの白天使、ヴィセッカ=リート=ルシアなのだ。
しかしメイロンとその妹も違和感を感じ始めていた。
「あの方、やっぱりおかしいわ」
「そうだね。ルシア様を目の前に、武器どころか盾も出そうとしない……トラップか?」
「そうじゃなくて、あの……あの殿方、さっきから全くソウルを感じないんです」
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メイロンより早く、その言葉に続けたのはルシアだった。
「トラップかな? 見かけによらず器用なんだね」
「驚いた。人が空を飛ぶのか?」
「天空位は代々、その背中に翼を纏うんだよ。だからこれは……自慢の翼なんだ」
なぜか目だけで驚愕を表現しているシンカに、ルシアは自分の翼を見ながら微笑んで返した。
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メイロンは妹の言っている意味が理解出来ずに聞き返す。
「ソウルを感じない、とは?」
「ソウルに触れられないんです。だから私……あの方がいるのかいないのかも分からなくて、最初気づかなくて」
「……私にはその言葉の意味の方がよく分からないんだが」
「私も理解できていないんです! ねぇ、兄さんには、相手の方が見えているんでしょ? その方……ホントに人間ですか?」
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ルシアが動いた。急降下しながら背中の羽をナイフの豪雨と化して浴びせつける。トラップや遠距離攻撃に対する翼兵の常套手段だ。
選択肢はルシアの中で決まっていた。
(羽の雨は回避不可能。ガードすれば武器か防具が確認できる。その隙にレイピアで仕留める事もあるいは。未知の武器もこの距離とわたしの素早さなら十分躱せる。出の早い遠距離攻撃は彼にはおそらく無い。あったら先に使っていたはず!)
急降下しながら剣を強く握りしめ、相手に羽が降り注ぐ、その瞬間をルシアは見逃さなかった。
……敵は、アスミ=シンカはガードしなかった。回避もしなかった。もっといえば、未知の武器なんて出さなかったし、トラップさえも存在しなかった。
端的に言えば『何もせず、動かなかった』。
「……ッ!?」
ルシアは言葉を失い驚愕した。そのあまりに異様さに、その場で急停止する。
敵の行動……というより、シンカの頭や体を通り抜けて、壁や地面に溶けてゆく、自分の羽の不条理に凍り付いた。
ルシアだけではない。審判たる兵士は手を後ろに組んだまま、大きく目と口を最大限に開き、最高級の唖然を表現している。
最も不可解なのは、相手も不思議そうにキョロキョロし始めた事だ。
「なんだ、どうした?」
シンカも異変に気がつく。まだ何もしていないのに、対戦相手が戦意を喪失しているのだから当然だ。
「人間じゃ……無い!?」
メイロンはその言葉を絞り出すので精一杯だった。ただ、戦闘が続行できそうにない事は、その場にいた全員が理解していた。
いち早く、なんとか冷静さを取り戻したルシアがその頭をフル回転させる。納得のいく説明はできない。ただその現象の実体だけは、おぼろげに掴み始めていた。
怪訝な顔でおそるおそる近づくと、レイピアの切っ先を、その特異な事象の眼前に突きつける。鋭利に輝く剣を通り超して、シンカは彼女の目だけを見据えていた。
「あなた、この剣が見えないの?」
「剣とか翼とか何なんだ? 皆、そんなふうに空を飛んだりできるのか?」
ルシアはなんとなく、直感で理解していた。
(きっとこの男には、風になびく自慢の翼も、細身の剣も盾も見えないんだ。そして触る事も……)
ルシアはその剣を高く掲げると、シンカめがけて一思いに振り下ろした。