第5話 水の都ルクシャ
船で長い時間をかけ辿り着いたルクシャ=スタヤットは水の国だった。
桟橋が陸という陸から毛細血管の様にその枝を伸ばし、小さなソウル舟の宿り木になっている。観光客を乗せた舟が見えないシンカにとって、人々が水面に浮かぶその光景は幻想的だった。
「美しい街並だ」
「ええ、私もそう思います」
苦手だと感じていた告死天使が今や近くにいて当たり前の存在になっている事が、シンカはなんだか少し悔しかった。
「クヮコームの渓谷も美しかった」
「あんな狭い谷底のどこがいいんですか? 私はあんな洞窟暮らしは嫌ですわ……埃だらけで、土臭くって」
リマシィは心の底から今が楽しいのだろう。
「慣れていないから、美しいと感じるのかもしれない」
「ではこのルクシャに住む人々も慣れて飽きて、いずれは出て行きたいと思っているのしょうか?」
「そうかもな」
振り返ってシンカを見つめるリマシィの悪戯っぽい瞳は、少女の様に若く見える。
「では試しに一緒に暮らしてみますか?」
「まずは冥府だ」
シンカはいつも取り合わなかったが、こんな会話も毎日そこにあって然るべきものになりつつあった。
全てが揃う町ルクシャで、シンカは日用品や食品以外の特別なものは一つしか買わなかった。ルシア達への土産も兼ねて、帰りにじっくり観光しようと考えているのだ。
「そんな長い革を買って、どうされるおつもりですか?」
「いずれ役に立つ時が来るかもしれない」
買ったのは包帯の様に細長い革きれだ。丈夫でソウルのよく通った革をリマシィに選ばせた。
東西に細長いルクシャの、北端から南端までは老人の足でも七日あれば辿りつけると言われる。ルクシャを見るならば復路で、と決めていたシンカは観光もそっちのけで街を抜け、先を急いだ。
「リマシィ、走るぞ」
「どちらまででしょうか?」
「取りあえず南端まで」
「はいっ!」
思いの外行き当たりばったりなシンカの行動に、リマシィは文句の一つも言わずに付いて来る……そしてシンカはまた一つ悔しい思いをさせられる事になる。
半日あまりで南端の海岸に辿り着いた時、男は全力で走って汗だくなのに、女は汗一つかいていなかったのだ。それでも驚愕しているのはリマシィの方だった。
「人間って……あんなにも速く走れるんですね……」
「速く走るより、ゆっくり飛ぶ方がよほど楽で便利らしいな」
リマシィを置き去りにするつもりで走っていたシンカは、息を切らしていた。
シンカの言葉を証明するようにリマシィはさらに高く舞い上がり、町や村を探す。
「見えましたわ! かなり遠くに大きな街が見えます!」
シンカは羨望を込めた眼差しを空に向ける事しか出来ない。それなのにリマシィは飛んでいる時より、歩きながらシンカに礼を言われている方がよほど幸せそうだった。
もう夜も更けているので、二人は冥府への渡航手段は明日から探す事にして宿を探した。シンカの希望で安宿にしようと入ったのだが、宿の中を見たリマシィが一瞬見せた顔色の変化をシンカは偶然見ていた。
「別のところにしよう」
「ここではお気に召しませんでしたか?」
「欲しいものは全て手に入れる」と、あれだけ高慢だった軍の最高権力者がなぜこうまでも謙虚になれるのか、シンカにはよく分からない……一瞬みせた顔は明らかに慊焉していた。
「ベッドが小さい」
「言われてみればそうかもしれませんわね」
「すまないが適当に宿を見繕ってくれないか?」
「どうかされました? 具合でも悪いのですか?」
「少し疲れただけだ。半日も走ったからな」
安宿の前で落ち合う事にして二人は別れ、別に疲労を感じていなかったシンカは手持ち無沙汰に少し街を歩いた。そして歩いているうちに、大した苦労も無く冥府への渡り方を町人から入手する事になる。
「定期船が、今はある?」
「そうそう! 月に一本くらいだけどな。いまや冥府も遠いおとぎの世界じゃないんだぜ!」
街道沿いのカフェで声をかけた一人目の若者がそんな事を言ったのだ。
「今ちょうど積み荷をどうこうしてたから、もうすぐ出発なんじゃねぇかな?」
断った安宿の前に戻ると、少しして戻って来たリマシィも同じ情報を得ていた。
「出発は二日後らしいですわ」
「乗れるだろうか」
「ご心配には及ばないそうですよ。こちらからの便はガラガラだという話ですから」
その言い方に含まれている通り、冥府からの便は満員御礼、予約キャンセル待ちらしい。二人はそれに乗る事を決めて宿へと向かった。
リマシィの取った部屋はごく普通の宿だった。シンカの言を気にしたせいか、ベッドの大きな一室だった……一室だけだった。
「なんで一部屋なんだ」
「シンカ様が旅費を気にされているようでしたので、倹約ですわ」
単純に二で割れば、この広いベッドも前の宿より面積は小さいのだ。
「今から他の部屋を取る」
「他はもう埋まっていました」
リマシィは確信犯的に微笑む。
「他の宿にする」
「もうお金は払ってしまいました。あとキャンセル出来ないそうです」
「…………」
仕方無くシンカは床で寝ると言い「一緒にお風呂に入りませんか」なんていう女の誘いを全て黙殺して夕闇に目を瞑った。
「こんなに広いベッドなんですから、いらっしゃったらどうですか?」
「…………」
「何も致しませんから」
「…………」
そして結局、最後にはリマシィが「シンカ様がそこで寝るなら私も床で寝ます」と体を寄せて来たので、選ぶべくして選ばれた広いベッドは空のまま朝を迎える。
二日後の朝は曇りながらも船は出航するらしく、二人はその船に急がず慌てず、簡単に乗る事が出来た。
「アンタら、マジで冥府に行くのかい?」
切符なんかない、直に運賃を受け取りながら頑丈そうな水夫の男はそう言う。
「ええ、新婚旅行ですの」
「ヘェ……物好きもいたもんだ。まあ金さえ払ってもらえりゃあ問題はねぇさ」
シンカはその冗談を左の耳から右へと聞き流して無言で船へと乗り込んだ。前情報の通り、旅客はほとんどいない貨物船は快適そうに見える。
「他の客はほとんどいねぇからさ、この通路の部屋どっかテキトーに使ってくれていいや」
水夫にそう言われて覗いた部屋は、いわば小さな木の箱だった。二人用の相部屋を一人で使う事ができ、シンカにとっては嬉しい広さとなった。
部屋の隅に荷物を置き、簡易なベッドに腰を降ろす。降ろした向かいにリマシィが荷物を置く。
「待て、なぜそこに荷物を置く」
「いけませんでしたか?」
リマシィは顔をキョトンとさせてシンカを見た。
「一人一部屋使えばいいだろう」
「冗談ですよ、冗談」
リマシィはそれだけ言って、悪戯めいた微笑みと共に向かいの小部屋へと消えて行った。そしてやはり船も楽しいらしく、すぐに戻って来て「甲板にでましょうよ!」と呼びかける。
甲板に吹く強い風は、暖かい今日の天気にあって快適で気持ちがいい。日の光を浴びる数少ない旅客を見回して、シンカは一つの事に気付いた。
「なんか物騒に見える連中が多いな」
「冥府ってそういう所ですわ」
リマシィは横顔で答えて、遠く海の向こうを見つめていた。
「そういう所、なのか」
「ええ、そういう所です。あそこで得るものなんか何にも無いのに。彼らは冥府で失うだけです。自信か体か……あるいは命を」
遠い海の向こうに故郷を見ているような瞳だ。
「そういう所なのか」
「そう言えば、シンカ様はあまり冥府について詳しく聞きたがらないのですね? 怖くは無いのですか?」
「知りたく無い訳じゃないが……知らない方が楽しい事もある」
曇り空でも白いその顔は、黒いドレスの様な衣装と相まって彼女を若く、生き生きとして見せる。
「その気持ちすごく分かりますわ! 私も初めて冥府を旅立った時は知らない事だらけで不安でしたけど……新しい事だらけでとても楽しかったのです!」
「たぶんそれと同じだ。俺は旅行会社に連れ回されるだけのツアーが好きじゃないんだ」
「りょこうがいしゃ? つあー? なんですそれ??」
「なんでもない。俺の世界にあった……俺もよく分からんシステムだ」
それだけ残してシンカは船内へと踵を返す。
「もう戻ってしまうのですか?」
「ああ。この前は言わなかったが、俺は海が嫌いなんだ……海が怖いんだ」
「きっと海は暗くて深くてよく分からないから怖いのですね!」と付いてくるリマシィに、シンカは相槌を打ちながら船内へと戻った。
「俺は泳げないんだ」
※シンカは泳げない……単純に比重が重いため。頑張って水を掻けば泳げなくは無い。この世界に不時着した際は陸が近かったため、水底を歩いて砂浜に辿り着いた。




