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第1話 始まりの刻

 凍てつく夜の、誰もいない大聖堂……物理生物学者はひとり蝋燭を灯し、懺悔していた。


(主よ、お許し下さい……私はこれから罪を犯します。


 それは二者択一、即ち『大いなる過ちから救うべく、人々を破滅させる罪』と『それを諦め、自己を破滅させる罪』。


 どちらも成さず、とはいかないのです。それは停滞であり保留という、学者のもっとも忌避すべき奈落であります……地獄であります。


 そして私は今日、心を決めました。自己という存在の放棄によって、天に帰す事によって、悲しい因果から開放されたいと。


 主より頂いたこの尊き命、その意思に背き御元にお還しする事を……どうかお許しください)


 吐く息も白い虚空にその絶望は虚しく祈られ、捧げられた……そして、学者はそれに答えるかの如き声を、託宣を聞いたのだ。


 それは木霊し、堂全体に響き渡った。


「赤ん坊の鳴き声? どこから……」


 真冬、真夜中の教会に鳴き声は鳴り響き続ける。男が見つけたその赤子はパイプオルガンの椅子の上、籠の中で泣きわめいていた。


「主も意地悪をなさる。今から命を絶つ男に新しい命を見せつけるとは……」


 男は絹に包まれたその子を抱き上げ、見回した。


「男の子か。可哀想に……書き置き一つも無く、こんな寒い闇夜に捨てられたのかい?」


 赤ん坊はこの氷点下でも生を望んで元気に泣き続ける。学者はもう一度赤子を手厚く包み直し、抱き上げ、その優しく落ち着いた声でこう囁きかけた。


「悪いが君を育ててあげる事は僕には出来ないんだ……可哀想だが施設にでも……」


 男はその先の言葉を『ある違和感』で失った……今しがた見た記憶に残る小さな、しかし断じてありえない違和感。それを確認するために、赤子を籠に戻してからもう一度白い絹をはぎ取った。


「そんなっ!?」


 男が大きな声を急に出すので、赤子も釣られて大きな声で泣き出してしまう。学者には耳を劈くその声も、もはや聞こえていなかった。


 その子には『当然あるべきモノ』が無かったのだ……もちろん学者が指摘した通り、男の子だとわかるソレはちゃんとついている。しかしその少し上、人間ならば男女問わず存在すべきもの……『へそ』が見当たらなかったのだ。


「外科的な痕跡なんかどこにも……いや、それ以前にまだ生まれたばかりだ……」


 この男の医学的な知識は人より豊富だったが、そうで無くとも普通の人間ならばそれはすぐに異常だと理解される事だった。へそ、つまりは胎盤から栄養素を供給される『母との繋がり』と言える痕跡が見られないのだ。


 人が一般的ではない形質を持って生まれて来る事はままある……が、それは飽くまで『生まれてきたから見る事ができた結果』だ。その過程を省いた存在に、男はすぐに結論を導く事が出来なかった。


 そしてこの男は、そんな疑問を放っておける人間では無い。


「これも主のお導きか……」


 少し笑って、学者は籠ごと赤子を持ち上げて揺すった。喜ぶと思ってそうしたのだが、赤子はさらに泣き出してしまう。


「まいったなぁ……」


 滅入った口調でそう漏らしながらも、男はその赤子を連れて帰る事にした。


 それは街全体がイルミネーションに胸を躍らす、ある雪の日の出来事。


 降雪にぼんやりと白む街灯の下、学者は厚手のコートを羽織り、新雪に足跡を残して家路についた……

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