第3話 牢屋を出て
目を覚まして、シンカは自分が牢屋にいる事を思い出した。しかしそこはシンカの知る『牢屋』の常識からあまりに逸脱していた。
(これ……牢屋か?)
四角い石の監房は簡素な造りだが、その入り口が閉まっていない。閉まっていないというよりは扉や檻がないのだ。他に捕まっている人間の気配もない。
「よほど平和な国なのか?」
一人呟いた声は小さく響いて消えてゆく。静寂の中、どこかで水の滴る音がした。
しばらくすると、水音に混じって二足分の靴音が近づいてきた。足音がすぐそこまで来ると、松明の炎が激しく揺らめく。ふいに、石壁の縁からひょこりと可愛らしい横顔が覗いた。
「元気してた? 寒く無かった? ゴメンね、こんな所に閉じ込めちゃって。早めに終わらせた方がいいかと思って、早く来ちゃった」
そう一息に少女は言い切った。『矢継ぎ早』とはこんなのを言うのだろう。シンカは黙って牢を抜けた。もう一つの足音は警備兵のものだった。
「んで、昨日聞けなかった事の確認なんだけど。とりあえず……」
昨日と同じ机で取調べをする彼女は、なんだか楽しそうにも、得意げにも見える。
「地図があれば分かるかもしれない。って言ってたから、持ってきたよ!」言いながら、背負っていた大きな巾着の中を覗き込んで、ガサゴソとまさぐる。「あれ? もう一個が……奥かなぁ?」
……待つ事数秒、シンカの目の前に二つの巻物と一冊の分厚い本が放られた。聞けば三つとも権威ある出版元の、信頼できる地図であるという。
それを机に広げ、『ここが今いる場所で』とか『君と会ったのがそこで』なんていう少女の話を聞きながら、シンカは閉口した。何がどこで、自分がどこにいるのか、見当もつかなかったのだ。
「一番尺度の大きいものはどれだ。一番遠景の」
「これだよ、これ以上外は無いって言われてるけど、詳しい事まではわからないの」
そう言って指した巻物に描かれている地形は、目を細めても、回してみても、亀裂の入った大小の石を無造作に並べた様にしか見えなかった。よくよく考えてみれば、地名も国境線も方位も尺度も、図法さえも不明瞭な地図の一部を見せられて、識別できるはずもない。
「すまない。何も分かりそうにない」
「そっか。じゃあ君は……」ルシアは手元にある一枚の紙に目を落とし、それを読み上げた。「出身地、国籍、住所とも不明、無職。分かっているのは名前と歳だけって……あと武者修行の旅をしているって事くらいか」
申し訳も無いので、シンカは閉口した。
「武者修行の旅をしてるって言うくらいだから、やっぱり腕に自信があるんだよね?」
「まあ、それなりには」
謙遜した。『俺は凄く強い』なんて吹聴するのが下賤な事に思われた。
「しばらくこの街にいるようなら、傭兵として雇って貰えるか、お願いしてみようか?」
誰にお願いするのかは知らないが、誰でもお願いできる様な相手ではないだろう。
「昨日から思っていたが……ずいぶん城での権力が強いようだな。いったい何者なんだ?」
「だから調査をしてる人だって。それ以上は、ちょっと……」
「ならいいんだ。傭兵は遠慮する。戦争に興味はない」
「あ、そう……」
話に窮したので、シンカは辺りを見回し、昨日から気になっていた事を聞いた。
「ここには罪人はいないのか」
尋ねたシンカの瞳を、ルシアは無言のまま紙切れから目線を上げて、覗きこんだ。
このルシアという少女はおそらく地位の高い人間なのだろう。昨日『メイロン』と呼ばれていた男や、警備兵の態度からも明白だ。
そんな彼女の、出会って二日目の印象はシンカにとってこんなものだった。
陽と陰なら太陽の如き陽で、プラスとマイナスなら、周りをみんなプラスに変えてしまう程のプラス。
今まさにシンカをまっすぐに見据える瞳と、屈託の無い率直な言葉がそう感じさせた。
「この国にはさ、最近そういうの無いんだよね、要は罪人とか裁判官がいないんだよ。まぁ経費とか人員の節約みたいなもの? だから一応、君にも任意で話を聞かせてもらっている? っていう状態なの」
(経費の節約で賃金労働者が減るのは理解できるが、罪人まで減るなんて事ありえないだろう)
そうは思うが、シンカはそれも言わない。冷たいレンガの地下室はもう十二分に堪能したので、早く外の空気を吸いたかった。しばし考え込んでから彼女は元気よく顔を上げた。
「よし! 何にも分かんないなら、まぁ仕方ないか。善処はしたつもりだ!」先ほどの印象に一つ付け加えるなら、彼女はたぶん楽天家だろう。「あとは……大丈夫かな。聞きたい事は大体聞けた。うん、聞けた事にしておこう!」
ゆく末が大変心配になる締め括りではあるが、取調べをやっと切り上げてくれた。
「そういえばわたしばっかり色々と質問しちゃったけど、何か聞きたい事ある? ここに着いたばっかりで、お金とか食事とか色々分からない事はあると思うんだけど?」
口数少ない無愛想な異邦人にさえ、気配りを見せるその優しさも、彼女の特徴の一つかもしれない。
「この国で一番強い者を知らないか? もしくはそういう武芸の大会を開いているとか。この国でなくとも構わない。昨日も言った通り、俺は強い相手を探している」
無口な男にしては珍しい、長い台詞を聞いたルシアは門兵と目を合わせ、その大きな目をさらにパチクリ見開いた。門兵も僅かながら『動揺を隠しきれない』といった様子でルシアを見返す。
言わずとも伝ってくる『何を言っとるんだコイツは?』という雰囲気だ。
「武者修行の旅してるって、アレ本当だったんだ」
「信じてなかったのか!」
動揺でつい大きな声が出てしまう。シンカは心の何処かで、この少女は自分の言葉を無条件に、無鑑査で信じてくれると思っていた。
「ごめんごめん。いや、信じてるよ。けどそんな人、世の中にそうそういるものじゃないから……でもよかった。君、あんまり感情とか表情を表に出さないからさ、私なんだか不安だったんだ」
シンカはルシアの年なんて聞かなかったが、年下に見える少女にそう諭されると、今まで申し訳無い事をしてきたかと、少し反省した。
「さっきの質問だが、知らないのか」
「知ってるには知ってるよ……うちらの国、フィスカだと軍の総隊長を『天空最高位』とか『白天使』って呼んでて……基本的には一番強い人が勤める事になってる。それで他の国だと……武道大会なんかを開催してるところもあって、そこで優勝して『地上最強位』なんて称号を持ってる人もいるし……」
(歯切れが悪すぎるだろ……大丈夫かそれ? 本当に信用出来る情報なのか?)
「んーと確か、そういうので有名なのが全部で九つあるんだったかな? そのうち六つは、基本的には強い人が名乗る称号になってた……と思うよ」
確認せずとも、うろ覚えな事だけは間違いなさそうだった。
「そういう国を代表するような有名で強い人達を、みんなは『英雄』って呼んでたりするんだ」
警備兵とルシアが目を合わせると、兵は『間違いありません』と言わんばかりに、僅かに首を上下した。それを確認してから、シンカはその重い口を開く。
「無理は承知しているが、その天空最高位と闘う事を、お願い出来ないだろうか?」
「さ……さすがに無理じゃ、無いかなぁ……」
軍の総隊長と一戦交えるなんて、一筋縄にいかない事は火を見るよりも明らかだ。少女のよそよそしい目線の外し方を見て、シンカは呆れているのだと思った。
「では武道大会の開催される場所と日時を教えてくれないか」
「わたしはそういうの詳しくないんだけど……わかる?」
振り返ったルシアと目を合わせた兵は、初めてその石の口を開いた。
「時期は確か四ヶ月ほど先だったかと記憶しています。場所はご存知かと思いますが、『ボー=レガール』の闘技場です」
「だってさ。どうする? ボー=レガールまでは船と陸路で行くと、たぶん二ヶ月くらいかかるよ?」
武道大会、闘技場。こんな子供っぽい言葉に、シンカの胸は躍った。
「そのボーレガールという場所に、向かってみようと思う」
「そう、わかった。じゃあ彼に行き方教わって。あとこの地図もあげるわ」
ルシアはこの国と、武道大会がある街が載っているらしい地図の一つを、その細い指で差し出した。
「そうだ!ちょうどわたしも用事あるし、城門の少し先まで送るよ。預かっていた荷物は私が持ってるし、一階の中庭で待ってるね!」
そう付け加えると、シンカが是非を答える間もなく、少女は席を立って駆け出してしまった。
仏頂面の警備兵はその見た目とは裏腹に、安全なルートや道中の街をシンカに懇切丁寧に教えてくれた。
聞いてもいない旅先の名物やら特産品まで紹介し、最後には中庭に案内して、敬礼と別れの挨拶までくれる。
「お気を付けて。あなたがご活躍すれば、また名前を聞く事もありましょう」
無表情で淡白に別れを告げたシンカは、晴れ渡る空を見た。久しぶりの風と日差しが心地よい。外の空気は澄んでいた。
※英雄……特に英雄に関する定義は無く、国を代表する強い武人、超常的な力を持つ人間を総じて英雄と呼ぶ。ただしルシアの言う九人は『大英雄』と呼ばれ、長い歴史と勢力を持つ国に居り、この世界において重要な意味合いを持つ者が多い。
※ボー=レガール……フィスカの遥か東に位置する国。広い海を超えなければ辿り着けない。