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第37話 調印、そして

 調印式の当日の早朝、この日はシンカが王都フィスカで過ごす最後の日になるかもしれない……そしてこれがザクライとの最後の特訓になるかもしれなかった。


 以前のへなちょこなかけ声とは違い、気合いと呼べる気迫と共に突っ込んでくるザクライの動きは見違える程に、抜群になっていた。燕の如く飛び回り、四方から攻めてくるザクライは、もうシンカでさえも動かずに躱す事なんて出来ない。


「あれからね。なんだか世界が変わった気がするんだ」


 数日前、ほぼ完治した少年はベッドの上でそう言った。


「ソウルの深淵に触れたような、あの真っ白な感覚を、未だに忘れられないんだ」


 覚醒についてそう語る言葉を、シンカが理解出来るはずも無かった。


「シンカの師匠の言葉も、今なら少しだけ分かる気がするよ」


 少年は少しだけ大人に近づいたような、そんな空気を纏っていた。


 今まさに襲いかかるザクライの気迫が、その言葉が虚言では無い事を証明している。


(ソレイルが覚醒の影響によって強くなったと仮定すれば……ザクライも成長するかもしれないな)


 最後の一撃を捌き、師たるシンカはついに訓練の終了を告げる。


「ここまでにしよう。見違えた。素晴らしい上達ぶりだ」


 少年は息を切らしながら、街外れの荒野にそのまま座り込んでしまった。


「ありがとう……ございました。でも結局、一発も当てられなかったな」

「戻って来たらまた相手をするさ」

「絶対だよ!」


 そう行ってシンカの手を取るザクライの言葉が昂って、裏がえっていた。握手を交わす二人の横で、岩に座っていたシェラールも立ち上り、もう歩き馴れた帰路につく。




 三人で街まで帰るのは、もうこれで何度目だろうか、数えきれない程の日々を共に過ごしていた。


「調印式はご覧になるんですか?」

「そのつもりだ。見たらそのまま出立する」

「朝食が寂しくなりますわ」


 クヮコーム攻略戦以降も何度かシェラールの家にザクライと食事がてらお邪魔をしていた。 


「シェラールにも、本当に世話になったな」


 少女とも握手をする。もうシェラールの家は目と鼻の先だ。シンカにとって意外だったのは、彼女瞼から雫が流れていた事だ。


「お待ちしています。またお食事にいらしてくださいね」

「ああ。いずれ必ず。ザクライも元気でな」

「シンカに助けてもらった命だもん。大事にするよ」


 なんだか照れくさい別れを終えて城に戻る。もうほとんど出発の準備は整っていた。


 メイロンが、

「部屋はそのままにしておきますよ。いつでも戻ってきてください」

 と気遣ってくれたので、それほど片付けをする必要はなかった。


 ここまで来て、この部屋との別れさえ、なんだか名残惜しくなってくる。

 これからしばらく、調度品やロボは主を失い寂しい思いをするだろう。


 この男の唯一の武器であるパドルは、部屋の角に仕舞い込んだままだった。


(あれはもう俺には必要の無いものなのかもしれないな……)


 メイロンやルシアは送別に来ない。式典の準備の真っ最中だから当然だ。事前に別れの挨拶は済ませてあった。


(少し寂しいのかもな……こんな感覚を経験するのは二度目か。あの日別れた人達は、みな幸せな人生を送ったのだろうか?)


 男が遠い過去とも、別の世界の出来事ともつかない記憶を懐古しているうちに、時間はあっというまに過ぎ、調印式の開始まで間もなくなっていた。




 調印式は城内で関係者によって執り行われた後、中央広場で両国による友好の式典が催される事になっている。

 シンカは少ない荷物をまとめ、城壁を後にして、ルシアの凱旋飛行を見学したあの広場へと向かう。


 空はいつになく晴れ渡り、白い街並はいつにもなく陽光を照り返していた。

 

 男が中央広場に辿り着き、目撃したそれは壮大な眺めだった。蒼天に轟くファンファーレ、空を埋め尽くす翼兵。そして押し寄せた観客達……


 シンカはその絶景を特等席で、群衆に押しつぶされる事なく、悠々と鑑賞できた。空を見上げる人々までもが、見やすい場所を取るために宙に浮いていたのだ。土台でも具現化しているのだろう。


 まず両国がお互いの友好を示すために、戦力の全てを披露するセレモニーが行われる。


 中央に配するルシアの号令一つ、動作一つで迅速に隊列を変え、三次元の輪を織りなすその地球ゴマのような動きに、人々は瞠目し感嘆した。とりわけクヮコームの兵達はその動きに畏怖し、驚嘆していた。


 フィスカのパフォーマンスが終わればクヮコームも負けじと演舞を開始する。フィスカの本土で行われる調印式にも関わらず、観客の歓声はフィスカのそれに負けていなかった。


 しかしクヮコームが最も観客を湧かせたシーンで、惜しむらくもシンカは感動を全く共有できなかった。


 仮面を被ったマトゥーヤが一人でその能力を披露していたのだ。シンカには手を広げている様にしか見えないのに、遠くからやれ「神業だ」、やれ「信じられない」、などの感嘆が叫ばれていた。

 

 式の最後には両国王、ルシアとリマシィ、両国の政務官同士が再度調印を交わす……すでに城内で内々にサインは終わっているため、形式的に交わすフリをするだけだ。


 取り仕切るのは『エテア=ルミラス』という場所から遠路はるばる出向いてくれた『聖王』の称号を持つ大英雄だそうだが、シンカはそんな老人の名前さえもしらなかった。


 なんでも由緒ある式典や和平交渉などに遠くから出向き、平和のために仲介をする、それはありがたいおじいさんだという話である。


 その聖王によって調印のサインが掲げられ、観衆へと披露された。それを見届けてから男は踵を返して一人歩き出した。


 式典の盛り上がりに反比例して、街の外は静かだ。静かな空に、シンカは別の世界に来てしまったと確信した……それは島だ。島が遠くの空に浮かんでいるのだ。


(あれがエテア=ルミラス……)


 聖都エテア=ルミラス……苔の生えた巨大な亀の甲等のようなその島を見ながら、男は将軍を待つ事にした。




 本を一冊読み終えるほど待たされたが、リマシィは約束通り姿を現した……きえさすがに兵を大勢連れている。


「お待たせしてしまったかしら?」

「いいや」


 初めて見た時よりもさらに煌びやかな衣装に髪飾りをした食わせ者は、陣の中央、一際立派な馬車までシンカを案内する。


「それで? 冥府について、いったいどんな事を聞きたいのですか?」

「冥府という場所について詳しく知りたい。端的には『強い者がいるか』、『古い史跡はあるか』、この二点について知りたい」


 腕や首まで飾り付けた将軍に、シンカは指を折りながら尋ねた。

 

 実のところ、シンカには冥府を目指すつもりは全く無い。精霊の塔に向かおうかとしていた……ただソレイルという男の存在と冥府という言葉に惹かれたに過ぎない。


「あそこじゃ強くなきゃ生きられないの。とにかく危険なところよ……さぁ、お乗りになって」


 すでに紅茶の用意された車内は、外装に負けない豪華さだ。


「別に外で構わない。長居する気もない」

「そんな事おっしゃらずに……さあ」


 手招きに応じて渋々ステップを昇るシンカ。それをじっとりと見ながら将軍は話を続ける。


「もっとも、例外なく皆ソウルを使うものですから。あなたには関係のない事かもしれませんが」

「……そうか」


 男の声に遺憾が滲む。ソウルなる正体不明の力が、シンカにはもはや憎くさえ思えていた。

 己の心を飲み込むように、シンカは紅茶を遠慮なく頂く……本を読むかぎり、この世界には毒さえも無いのだ。


「あんなところ、人が好んで行くような場所ではないわ。ねぇ、シンカさん?」


(この女はこんな喋り方だったろうか?)


 そんな疑問が浮かぶか浮かばないかの内に、リマシィがそのドレスに隠された、それでも美しいと見てとれる体をすり寄せて来る。


「私の国で、クヮコームで一緒に暮らしませんか?」


 シンカは元よりそんな魂胆だろうとは思っていたが、武力でも金でもなく、よもや色仕掛けで来るとは考えていなかった。


(たしかに、その端正な顔を近づけられたら、心が揺らぐ道理も分からなくも無いが……)


「理由が無い。失礼する」


 立ち上がろうとするシンカの腕をリマシィは掴む。その手も声も少し震えていた。


「あなたには無くとも、私にはあるのです。悪い事は言わないわ。あんなところに行っても、あなたの望むような好敵手は、きっと見つからないわよ」


(そうかもしれない。ならば行くまい……ん?)


 シンカは思わず着席する。


「待て、なぜ俺が敵手を探していると?」

「いやだわ、さっき強い者がいるか聞いたじゃない。それにソレイルが言っていたわ。強い者と戦うために千年もの間、冬眠していたのでしょう?」


 段々と話はおかしな方向に逸れ、しかし核心に近づきつつあるらしい。


「冬眠? そいつは冬眠と言ったのか?」

「え……ええ。確かそう言っていたと思うわ」


 シンカは妙な言葉に、頭を抱え込んでしまった。


(俺はメイロン達に説明する際に『冬眠』なんて表現をしただろうか……クソッ! すぐに思い出せない)


「もう一度だけ確認するが、それはソレイルに間違い無かったんだな?」

「そうよ! 何度もそう言っているじゃない」


(いいや、確か具体的な説明はしてなかったはずだ! 「方法は重要じゃない」、とか言って!)


「ソレイルは今、冥府の地図を書いているという話を聞いたんだが」

「そんな事まで知らないわ。私が冥府にいたのはずいぶん昔の話ですもの……でも、あの男なら不可能ではないかもしれないわね」


(その男……おそらくソレイル本人は別ルートで俺の存在を知った可能性がある。『どこかで俺を知る何か』と出会っている可能性がある!)


「ソレイルは他には何か言っていなかったのか」

「大体そんなところだと思いますわ」


 急激にシンカの目的地が変更されつつある。もはや、シンカはその事実を確認せずにはいられなくなっていた。


「礼を言う。紅茶と情報をありがとう」


 この会談は思いのほか得るものが大きかったかもしれない。満足して立ち上がったシンカをリマシィは頑なに食い止める。


「まだ私の話は終わっていませんわ。冷静に、よく聞いてください、シンカさん。あんな危険で野蛮な所に行っても、きっとあなたの望む様な相手は見つからないわ。悪い輩に騙されて、イヤな思いをするだけよ。それに引き換え、クヮコームに来れば、望むものなら大抵を……一通りを叶えて差し上げる自身がありますわ」

「ありがたい話だが、俺は今のままで十分だ。失礼する」


 手を振りほどき、カーテンに手をかけたその時、

「私はあなたが欲しいのです!」

 リマシィの泣きそうな声がその手を止めた……泣きそうな声ではない。泣いていた。


「あなたの事が好きなのです……一緒にいてはくれませんか?」

 

 演技とは思いつつも、心は傾きそうになる。男にとっての女の涙はそういうものだ。それはシンカにとっても例外ではなかった。


「済まない」


 未練とも呼べない程度の、何か後ろめたい感情を振り切って、シンカは馬車を半ば強引に後にする。出て行ってから史跡についての情報を聞きそびれた事を思い出すが、もう戻りづらくなっていた。


 しかし馬車を出てほんの五、六歩進むうちに、それとなく兵が道を塞ぎだす。少なくとも『どうぞ、お帰りください』という雰囲気ではない。その数はゾロゾロと増え、辺り一帯を埋め尽くした。


「私は今まで、欲しいものは全て手に入れてきたの。それはこれからも変わることはないわ」


 その声にシンカが振り返ると、軽やかな足取りでステップを降りるリマシィが、シンカに恐怖を与えたあの時の顔で笑っていた。前の涙などどこへやら、みじんも感じさせない。


「強い相手を探しているんでしょう? だったら今日集まったクヮコームの最精鋭千人がお相手して差し上げますわ……全員同時にね」

「手荒いな。気を使ってもらわなくて結構だ」


 将軍はシンカの話を受け流す。


「いくら千年前の怪物でも、羽も無いあなたには、この状況は乗り切れないんじゃなくて?」


 四方どころではない。空からも無数のクヮコーム兵がシンカを睨んでいた。リマシィの号令が響き渡る。


「その男を何としても生け捕りにしなさい! 全員で同時に取り押さえるのよ!」


 千の兵が殺到し、標的が見えなくなるその刹那、リマシィは目は捉えていた……引きつる口元を手で隠し、笑いそうになるのを必死に堪えるその男の表情を。

聖王とエテア=ルミラス……法皇に近い存在。実権というよりは象徴的な力が強く、どこにも依らない、仲裁と講和に務める独立の国家としてエテア=ルミラスが存在する。エテア=ルミラスは空に浮かぶ人口七百人の島国。

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