第26話 束の間の休息
フィスカに戻って間もなく、シンカはこの城壁の部屋に安心感とくつろぎを覚え始めている自分を認めずにはいられなかった。
それというのもクヮコームでの一件があったせいだ。
(あの手の感触が未だに抜けない。やはり死んだんだろうか……)
血だらけの手の嫌な臭いが未だに記憶にこびりついて離れない。
ぼんやりと座るシンカを尻目に、メイロンは二十枚以上ある大きな地図をひたすら見比べている。
(俺を殺すと言っていたんだ。逆に殺される覚悟くらいはあったはずだ……)
そんな言い訳が虚しい事は、自分が一番よく知っているはずなのに、男は幾度も幾度もこんな問答を反芻していた。
「ちょっと! 聞いていますか? どうしたんですか、ボーっと遠くを見て」
「あ? ああ、なんだ? なんでも無い、大丈夫だ」
メイロンは『しょうがありませんねえ』、とでも言いたげに一つ溜め息をつく。
「先ほどの話を確認していたのです。その相手の生死までは確認できなかったのですね?」
「ああ、男が洞窟に運んでいってしまったからな……ただ見る限り致命傷だったと思う。道化師のような少女だった」
それを聞いた事務官長の目が見開かれた。
「おそらくそれは『ディルミーの影』に間違いないでしょう。女性でしかも少女、という根も葉もない噂話を聞いた記憶がありますが、どうやら本当だったみたいですね」
「なるほど。ダボネオールのようなものか」
(どうりで気配を感じなかったわけだ……ダボネオールが言っていた三本の柱の一人か……)
シンカはそれで漸く少女の名前を知る事ができたが、今となっては詮の無い事かもしれない。メイロンはルシアに悪戯をしている時のような、悪い笑みを浮かべ出した。
「お手柄ですよ。影しか見えないとさえ言われるクヮコームの要の一本を折ってくれたわけですからね。結局、あなたは一方的に生殺与奪を支配できる存在だったわけです」
この国の、この世界の人間は悼まない。死が軽い。それに対して少し腹立たしく思う。やっと地図から目を切って、こちらを見たメイロンの笑顔がシンカは少し怖かった。
「地図まで手に入りましたしたしね」
「そんな拙い物でいいのか?」
「何をおっしゃいますか。あなたを建築家に推薦したいくらいだ」
「……」
「次の指示があるまで自由にしてくださってかまいませんよ」
メイロンはさも嬉しそうに、あいも変わらず少し暗い笑みを浮かべている。
(俺は……俺という存在がフィスカという一国に加担してもいいものだろうか?)
シンカは旅の件について切り出そうとして躊躇った。戦いは終わっていないが、自分のやるべき事は全うしたはずだ。シンカにはやりたい事もすべき事もいくつかあった。この世界に関する探求がそれであり、ザクライの特訓もその一つだ。
結局この時は言いそびれ、二日後に頼んでみたものの、
「何を言ってるんですか。あなたもダボネオール指揮の下、現地までいってもらいますよ」
兵舎の屋上で人使いの荒い上司にこう言われてしまった。
まだ修復されていない城壁に『壊してごめんなさい。ルシアより』と白いチョークの走り書きがある。
「……必要か?」
「当然でしょう。あなたがマトーヤの近辺について一番よく知っているんですから。それにこの作戦にはザクライ君も参加する事になっています」
メイロンはやはりシンカがザクライを放っておけないだろうと勝手に見当をつけているらしい。
さらに作戦を聞くと出発は三日後の早朝、ルシア本隊とダボネオール隊だけで帝都クヮコームを攻撃すると聞いてシンカは驚愕した。バックアップはかなり後方に控えるノーアルム隊だけだという。この世界でも兵は神速を尊ぶらしい。
「急だな。大丈夫なのか?」
「他国からの攻撃も考えると、それ以上に人員と時間を割く訳にはいかないのです。それにこの戦いはマトーヤさえ落ちればよい」
「俺はマトゥーヤの顔まではよく覚えていないぞ。声を聞けば分かるかもしれないが」
「十分です」
事務管長は小説のページを優雅にめくりながらそう言った。確かに今日は何をするにも外に出たくなるような天気だ。
「例の女の件で俺の動向が疑われた可能性が高い。マトゥーヤも呑気に構えてはいないだろう」
あれだけマトゥーヤの近くで戦いがあったのだから、十中八九ただならぬ違和感を感じていたはずだ。よほどの楽観論者でなければ罠を張っていると考える。
「あなたは頭の切れる方だ。敵がトラップを張って待っているんじゃないか? なんて推察しているんでしょうが、ご心配には及びませんよ。そのくらい私達だって考慮しています」
実のところ、自分が頭の良い方だなんてシンカは感じた事がなかったが、だからといって謙遜の辞を述べる必要も、自分の憶測をさらけだす必要も、メイロンの作戦を問いただす必要性も今のところ無い。
メイロンの言葉を聞くと、シンカは簡単な挨拶だけを済ませて屋上を後にした。
自室に戻ってしばらくすると、窓からルシアが入ってくる。用事なんて無いんだろう。たまにこんなふうに無駄話を楽しみに来る事があった。今日は入ってくるなり挨拶を済ませ、シンカお気に入りのロボットで遊び始める。
「今日は戦闘訓練だと言ってたな。もういいのか?」
「もうバッチリよ! みんなビシバシ鍛えてきたんだから」
日が経つにつれ、ルシアとの会話からは段々と隊長らしさが薄れていくような気がする。そのくらいには二人は打ち解けていた。
「どんな事をしたんだ」
「そりゃあ色々だよ。ソウルを素早く確実に具現化する訓練から初めて、硬度を増したり、軽くしたり、早く飛んだり、戦ったり……陣形や隊列の練習もあるし……まだまだ他にもたくさん」
自分の手の替わりに、ロボの手を降参の形に上げるルシア。シンカは気にせずに自分の定位置であるソファーに腰を下ろして聞いていた。
「ねぇ? ディルミーを倒したんだって?」
「倒したかもしれない相手がディルミーという斥候部隊長かもしれない。そんなとこだ」
「そう……シンカはやっぱり強ね」
「不可抗力だ。殺すつもりはなかった。殺したくなかった」
「でも相手はシンカを殺そうとしたんでしょ?」
そう言われて、大男は天井を見上げたまま、長い間次の言葉を考えた。長い台詞を言う前、男はいつもこんな風に黙った。
「俺の世界ではな、たぶん命というのがこの世界よりも重かったんだ。『死』というのはソウルが天に還る幸せな事じゃなかった。あの女の血肉を洗い流した時の手の感触がまだ記憶から離れない……思い出す度に怖くなって手が震えるんだ」
少女はロボットから手を離し、シンカを見つめた。
「わたしね、みんなによく言われるんだ……『殺した相手の事なんかいちいち気にするな』とか『死んだ仲間のために泣くのはおかしい』とか」
「俺の世界ではそれが普通だった。人が死ぬのは悲しい事だった……生きているのが素晴らしい事だった。この世界はどうやら少し違うみたいだが」
少女は悲しそうな瞳の中に、優しい光を抱いた。
「なんかそう言われると嬉しいな。わたしってもしかして……」
コンコン、ルシアの続きを遮るようなノックがあってドアが開く。
「よぉ! いたいた……なんでえ。ルシアまでいんのかよ」
シンカは黙って頭を下げる。ルシアはさっきまでの複雑な表情を全て隠して、笑顔で手を振った。
「なんだそれ? お前の世界じゃそうやって挨拶してたのか」
「そうだ」
(一概にそうとも限らないが。しかしなんだろうか? 今日のこの男には違和感がある)
「あいかわらず生意気だな、俺はお前の最上官だぞ」
そう言えば自分とザクライの上司はこの男だったなと、笑顔の上官を見てシンカはふと思い出した。
ルシアがにやけた口元を手で覆いながらダボネオールを急にからかう。
「何しにいらっしゃったんですか? ムダボネオール隊長?」
「作戦について説明に来たんだけどよ。その前にちょっと言わせてもらってもいいかな?」
ひょんな事からシンカが無駄口を叩いたのが良くなかったのだ。しかし彼と同じ国の人間ならば誰もが気になって当然の事だった。慣用句に少し手を加えただけの名前を、冗談の一つとして談話に挙げずにはいられなかったシンカを、誰が責められようか?
あだ名が定着してしまうなんて思ってもみなかった。シンカは意図的に顔を背け、先に謝った。
「すまない……流行るとは思っていなかったんだ」
「お前のせいで、今じゃ俺の部下まで『ムダボネ隊長』なんて呼ぶ始末だ。どうしてくれるんだよ」
「あ! 部下にそんなつまんない事で怒るなんて『無駄骨折る』だけですよー」
ルシアはなおニヤニヤして顔が崩れている。
(そんな風に茶化すから怒っているのだ。火に油を注ぐんじゃない)
「ルシアなんでこんなところにいるんだよ。俺はアスミに作戦伝えなきゃいけないんだから。邪魔すんなよ」
シンカは上官の違和感の原因に気づき、黙って立ち上がると窓に向かった。
「はいはい、もう帰りますよ。じゃあねシンカ! ムダボネさんも」
ルシアは逆方向に向かう。結局ドアからその顔が消えるまで、緩んだ口元が締まる事はなかった。
シンカは窓を開け、蝋燭立てから蝋燭を抜き、平たい燭台を灰皿代わりに机に置いてから、また元の位置に座る。
「おう。気が利くねぇ」
隊長はさっそく煙草を飲みだした。どうやら本当に怒っているわけではないらしい。
聞くと、クヮコーム攻略の作戦の概要は至って簡単で、シンカとザクライはただ所定の場所で待っているだけでいいらしい。後はダボネオール達がマトゥーヤを連れて来ると言う事以外、詳しい作戦内容は伝えられなかった。
「後はプロの俺たちに任せて、座っていてくれりゃ大丈夫よ」
我らが隊長は得意げにそう告げた。
※命の重さ……シンカの指摘する通り、この世界では命が軽い様だ。ソウルが関わっているとシンカは推察しているが、実際の理由は今のところ不明である。




