第20話 再戦はワインの後に
長い演説に喉が渇き、シンカはルシアからもらった林檎を一つだけ食べ、そのままソファーで熟睡しようとしていた。
コンコンコン……
ノックするその音に目を覚ます。音はドアではなく、窓から聞こえてきた。三階の窓をノックする知り合いなんて一人しか思い当たらない。シンカは急いで木戸と窓を開けて申し訳をする。
「すまない、もう帰ったと思った」
「わたしこそ、急に飛び出しちゃったから……ねぇ! ちょっと屋上まで来て!」
ルシアはそれだけ言うとすぐに窓の上に消えてしまったので、シンカに拒否権は無かった。部屋を出て石の階段を屋上に上がる。満月を背に、輝く銀髪の少女は大きな樽に手をついて待ち構えていた。こんな樽は昨日まで無かったので、ルシアが運んだ物だろう。
「聞くところによると、なかなか飲めるらしいじゃん。今日の話のお礼にどう?」
断られる事を想定していない瞳で語りかける少女は、先ほどまでのドレス姿ではなくなっていた。樽の上には一本のボトルと二つのグラスが置かれている。
「すまないな。食べ物だけで十分だったのに」
樽まで辿り着く間、すでに二つのグラスを紅く満たすルシア。男がそれを手に取ると、ルシアはいつもの優しい顔でグラスを合わせてから一口目を含んだ。
(この国に来てから酒ばかり飲んでいる気がするな……人付き合いが増えたからか?)
そんな事を考えながらシンカも葡萄酒を飲む。この国で飲んだ中で一番甘く、そして強かった。ルシアが出し抜けにこう切り出す。
「わたしね、今日の話聞いて正直、シンカはこの国のために働く必要無いんじゃないかな? って思ったんだ」
「なぜ急に」
「だって、この世界の人じゃないかもしれないんでしょ? そんな人を使ってまで戦争をするのはなんか違う気がするし」
「…………」
「それにシンカは大きな代償を払ってここまで来てるんでしょ? だったらその目的のために自由にした方がいいんじゃないかなって思って」
「なるほど」
「嫌になったらいつでも言いいなよ。わたしからメイロンに言ってあげるから!」
「ルシア……ありがとう」
このありがとうには、心なしかシンカの照れと恥ずかしさが垣間見える。だがそんな事お構いなしに笑う少女のその顔を、シンカは生涯忘れる事が無いかもしれない。
『微笑む』という人間の感情を、ここまで純粋な仕草に還元できる人間は、他に存在しない様にさえ思えた。すぐに後ろに振り返ってしまったので、その顔はすぐに見えなくなってしまう。少女は月を見上げていた。
「わたしね。この前シンカと戦った時、『あ、この人には敵わないかも』って思ったんだ……なんでかは分からないんだけど、なんとなくそういうの分かっちゃうんだよね」
男はその杯と酒がどれだけ値打ちの張るかなんて気にもず飲む。呷ってからルシアの話に聞き入った。
「でも今日の話を聞いて確信したんだ。シンカは強い。きっと、わたしなんかじゃ相手にならないくらい」
「相手にはならないだろう。この葡萄酒がこのグラスと勝負するようなものだ。優劣の決め手に欠ける」
シンカが月に透かした葡萄酒を見ながら放ったその言葉に、ルシアは振り返る。
「なにその妙な例え。そういう事じゃなくてもさ。きっとシンカは強いんだよ」
「比べようが無いな」
ルシアはシンカに歩み寄り、その顔を覗き込んだ。少女の頬はほんのり赤らんでいた。
「噓ついてるでしょ?」
「噓?」
「わたしだってそれくらい分かるよ。もし『わたしがシンカだったら』って考えればね」
「もしルシアが俺だったら……」
(ルシアはこういった探偵の真似事というか、推理じみた真似が好きなのだろうか?)
ルシアの推理ショーが幕を開ける。
「わたしは強い相手を探していた。そしたらなんと見つけた相手が魔法使いだった! そしたらわたしは喜んで戦うんじゃない?」
「しかし魔法使いの魔法は一切自分に効かない」
「そんなの適当なルールを決めればいいだけじゃない! お互い納得するような」
「例えば?」
「例えばそう……魔法使いは木の棒を操って私にぶつけたら勝ち。私は木の棒で魔法使いを叩いたら勝ち。とかね」
「なるほど」
「わたしは家族を、友人を、もしかしたら恋人まで失って、命まで賭けて自分より強い相手を探してる。それなのに、戦おうともしない……それはなぜか?」
「なぜだろうな」と返しながらうっすら笑う犯人の顔は、すでに半ば自白していた。
「それはきっと、やっても無駄な事が分かってしまったからよ! 自分が勝ってしまうって気づいてしまったから!」
ルシアは飲み干したグラスごと、ビシッと人差し指をシンカに向けた。
「可能性はいくらでもあるだろう。フェアな勝負しかしない人間だったり、思いつかなかったり、他に目的ができてしまったり」
言いながらグラスを樽に置き、犯人は笑ってしまった。
(こりゃ名探偵だ……)
「実際のところどうなのよ?」
「棒を持つ案は思いつかなかったが……まあそんなとこだ」
正直シンカは自分でもよく分からなかった。言われてみて初めて、そうだったかもしれないと思い返す。
犯人の自供に名探偵ははしゃいだ。
「ホント? やった!」
天空最高位を冠する強者が『お前なんかじゃ相手にならない』、と言われたのに嬉しそうにしているのだから、不思議な天使だ。
「でも、それってさ……やっぱりすごく悲しくて寂しいんじゃない? 壮絶な覚悟でここまで来たのに……結局一人ぼっちになっちゃって」
揚げ句、そんな奴の心配までしてくれて悲しそうな顔をする。本当に優しい。
(本当に優しい……が、軍の隊長には向かないだろうな)
「まだ希望が無くなったわけじゃない。俺だってこのまま終わらせるつもりは無い」
シンカは自分に言い聞かせる様にそう呟く。男が押し殺した悲壮と絶望を、少女は敏感に見抜いた。
「わたしね、人を幸せにしてあげられる事なら、なるべくしてあげたいって思うんだ」
「…………」
「もし出来るとしたら、わたし以外にいない」
「…………」
「わたし、シンカと戦うよ」
瞳に覚悟と力を宿して、ルシアは宣言した。この男にとって、そんな言葉が嬉しくないはずがない。
「それは嬉しい。俺はいつでも構わない」
「じゃあ今から」
「今から?」
パリンッ!! と音がしてグラスが急に割れた。ルシアが唐突に床に叩き付けたのだ。次いで、もう一つのグラスも粉々にする。
「ルシア、何を……」
ここまで言ってから、シンカはルシアの魂胆にようやく気付く。
(最初からそのつもりだったのか。だから平服で、屋上に来いなんて)
天空位はまだ酒が少し残っているボトルまで割ってしまう。割れた大小様々な破片が、一まとまりになって宙に浮かび上がるのをシンカは見た。
「これをこうして……っと。正直ね、少し興味はあるんだよね。シンカの本当の強さに」
シンカには見えないレイピアで大きなガラスの破片をあっというまに粉々にする。
煌めきが天の川の様に流れて翼と剣を形成するのを、シンカはただ唖然として眺めていた。
「じゃーん! これでどう? シンカと戦えるかな?」
「……十分だ」
それは長い長い翼だった。自慢げに広げたそれは城壁の横幅よりも少し長く、満月をキラキラと乱反射させている。夜空に煌めく第二の天の川に、シンカは見とれた。
ちなみにルシアには『ガラス片じゃ危ない』なんて考えは無い。ソウルで体を守る彼女は、ガラス片でも木片でも砂粒でも大して変わらないと思っているのだ。
「シンカもあの武器、パドル取ってきたら?」
「いや、俺は素手でいい」
少女は少し戸惑ったが、納得した。
「……シンカが言うなら大丈夫なんだろうね」
「安心しろ、怪我はさせない」
「そこまで言われると、逆にムキになっちゃうなあ」
「全力で来い」
この世界に九人しかいない豪傑の一人、天空最高位にして白天使ヴィセッカ=リート=ルシア。彼女を乗せた天秤はあまりに重要で、シンカは不安だった。
(頼む……ルシア。俺を失望させないでくれ)
少女は前回と同じ様に飛んだ。翼は鳥や天使と言うよりは蝶に近い羽ばたきで舞った。そして前回と全く同じ様に、羽の雨を浴びせつける。スピードとエネルギーを十分に伝えたガラスに、ソウルを持たないシンカがどう反応するか、様子見だ。
そんな彼女の思惑を見透かすように、大男は前回同様身動き一つ見せなかった。無数の鈍い音と共にガラス片のほとんどが、地面に落ちる。
「うそッ!?」
男は黙って、退屈そうに服に刺さったガラス片を取り除く。『避けるまでもない』という挑発が見て取れた。
ルシアはレイピアを二本創りだし、間髪入れずに投げつける。そしてそれを囮に死角に回り込み、三本目の大きめの剣を手にシンカに襲いかかった。
(レイピアでもたぶんダメージにならない……)
ルシアの予想通り、二本のレイピアさえも男は避けなかった。刃先は潰れ、あっけなくその場に落下する。
(構わない! これで決める!)
グシャッ!!! という嫌な音と共に、渾身の力で振り抜いたルシアの剣がシンカを切り裂いた。
ただし、剣に入っているはずのガラス片はそこになく、袈裟切りになったシンカの服の切れ目から飛び散り、ポロポロと落ちている。男の分厚い肉体には血の一滴も、かすり傷さえも見えなかった。
「もういい……もう止めにしよう」
淡々と漏らすシンカの言葉に、ルシアは「まだだよ!」と叫んで従わない。ルシアは躍起になっていた。
飛び上がり、凱旋の時よりさらに早いスピードで上空へと姿を消す。天空に消えてしまっては、いくらシンカでも手が出せない。ぼけっと空を見ている男に、ガラスの羽の雨がまた降り注いだ。
羽は目くらましだと踏み、辺りの気配に集中するシンカ。間一髪、ギリギリの距離でそれを察知する。
明後日の方角、しかも真横から神速の突撃を見せるルシアは、さすがのシンカでも本能が防がずにはいられなかった。左手でガラスの剣の刃を掴む。
それはとてつもない威力だった。掴む左手が火花を散し、特攻するルシアに吹き飛ばされ、城壁の縁を破壊してシンカが飛ぶ。
それはルシアの決死のダイブだった。勇猛な表情がシンカの眼前に迫り、さらに加速する。ルシアの翼が、さながらジェット噴射のようにガラス片を噴く。
二人は横に長く伸びた放物線を描きながら、城を越え、崖の向こうの森まで絡み合って落ちて行く。
『この剣が刺さるまでは加速をやめない』。そんな決意の、鬼気迫る表情を見てシンカは思う。
(ルシアはいつもこんな顔で、誰かのために、皆のために戦場に立つのか……俺とは正反対だな)
森の土を削り、細い木や枝を何本もへし折り、最後の太い幹にシンカの背中がぶつかった事で、その特攻はようやく収まった。
その刃はついに男に届く事なく、少女の顔はシンカの眼前でうなだれてその表情を隠している。もはやルシアの剣は柄しか残っていなかった。
「ゴメンねシンカ。わたしじゃやっぱり無理だったみたい……」
「ルシアが気にする事じゃ無い」
シンカはそう言って、ルシアの銀の髪を撫でた。少女の声が明らかに震えていたので、どうしていいか分からなくて撫でたのだ。そんな男の動揺を、少女は見透かしていたのかもしれない。
「これはね、悔しくて泣いてるんだよ。わたしの弱さが悔しくて。シンカの力になれないのが悔しくて……」
「ルシアは強い、見ろ。俺の体に傷をつけたのは、生涯で二人目だ」
俯くルシアに、シンカは紅い左の掌を見せた。男は単純だったので、それが慰めになると思ったのだ。
「シンカは……ちょっと強すぎるよ」
「…………」
シンカはルシアを抱き寄せていた。倒れる様に寄り添う少女に、その涙に、体が自然に反応していた。少女からは香水と葡萄酒の混じった香りがした。




