第16話 王宮の平日
王城中央を真っ直ぐに進むと、堅牢な石造りの廊に行き当たる。その奥は以前説明した通り、メイロンが『虚飾』と一蹴するような、煌びやかな建物と調度品で彩られている。
しかしこの廊と謁見の間だけは質実剛健で、石を緻密に積み重ねた建築になっていた。理由はこの二つだけが建国当時から手を加えられずに残っている、というだけの事だ。そんな永い星霜を支える石畳に靴音を響かせて、ルシアは王の間へと報告に向かっていた。
あの戦いからというもの、ルシアの中にある鈍いわだかまりが疼いて消えなかった。そんな時、鬱屈に一筋の光明を投げかける、赤子を抱く聖母のようなシルエットが天井から射す自然な光彩の中に浮かび上がった。
見覚えのあるその人陰にルシアは駆け寄る。
「ラーネ!」
「おう、ルシア! 元気してた? 最近あんまり顔を見てなかったからね」
この長身の女の名は『ラーネイザ』。フィスカの隊長にして深紅桜の称号を持つ実力者だ。その名に相応しい燃えるような瞳と髪は、彼女がキヴと呼ばれる戦闘民族の血筋である事を意味している。
兄弟のいないルシアにとって、ラーネイザは姉のような素敵な先輩だった。それはルシアが上官になった今でも変わらない。
「もう大丈夫なの?」
「ちょっとくらい体動かした方がいいんだよ。この子にとってもね」
そういってラーネイザは腕の中に抱えたものをルシアに差し出した。さっきからルシアがそればかり見ているからだ。
「抱いていいの?」
「おうともよ!」
柔らかいその重さを両腕に抱えると、それは真っ直ぐにルシアを見つめて離さなかった。
「かわいい……」
「子供ってのはかわいく思われる様にできてんだよ」
ラーネイザはその切れ長の目に光を満たして、歯を見せて笑う。それからルシアは、生まれたばかりの子供を見た時に人がする反応を一通り辿った。
可愛い、手が小さい、男か女か、名前はもう付けたのか、きっとラーネイザに似てカッコいい男の子になる、等々……
「ルシアはいい人、いないのかい?」
「えー、忙しくってそんな時間ないよー」
ルシアは赤ちゃんを母親の胸に返してあげた。彼女と同じ赤い産毛がほんの少しだけ生えている。
「それにまず相手がいないし」
「ルシアはモテるんだから。一言『好きだ』って言やぁ、男なんてイチコロよ!」
「それほんと? 私が信じちゃって、傷ついたらラーネのせいだからね」
「そりゃあまあ傷つかなければそれが一番かもしれないけどさ。ルシアだって、いつかはそういう道を辿るんだから」
「でも今は忙しいし充実しちゃってるからなあ。しばらくはいいかな、って感じ」
こんな女同士の談話はしばらく続いた。ついつい盛り上がって、仕事を忘れてしまいそうなほど続いた。
「なんかラーネに会ったら元気でたよ」
「なんだー、また落ち込んでたのか? ルシアは戦うたんびに落ち込んだり悩んだりするからな」
「うん……よくないのは分かってるんだけどね。色々考えちゃって」
ラーネイザは真剣な表情でルシアを見る。人の死や生にここまで執着する人間はこの世界に少ない。ややもすると、一種の精神病として爪弾かれてしまう。
「いちいち敵の事なんか気にしちゃダメだよ。『ソウルが天に還る』、それはそれで幸せな事なのさ」
「分かっては、いるん……だけどね」
ルシアの顔は、明らかに納得している様子では無かった。ラーネイザは明るい顔を作って話を転換する。
「話し相手だったらいくらでもなってやるからさ。いつでも家においでよ」
「わかった、絶対いくよ! そうだ! わたしそろそろ王様に報告に行かなきゃ」
「おう! あのエロじいさんにもよろしく言っといてよ。『ラーネイザ隊長は近々復帰できそうだ』、ってね」
ルシアは手を大きく振ってラーネイザに別れを告げた。ルシアのいなくなった廊で、ラーネイザは我が子を揺らしながら呟く。
「あの子……まだソレイル様の影を追ってんのかね……」
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「報告は以上です」
フィスカの謁見の間は他の国に比べれば狭くて質素だ。ルシアが気をつけの姿勢で先日の戦果と被害について王様に報告し終えると、低い声が狭い石造りの壁に響く。
「ご苦労。まさに勝利と断ずるに相応しい戦果であった。その尽力、この国の未来と人民の幸せに、必ずや貢献するものと私は確信している」
王は高齢ながらもその知性で体を支え、奉仕の精神を動力源に働いているような人物だ……というのは一般的な国民の理解に過ぎない。
「すまないが、周りの者は少々席を外してくれまいか?」
急にそう言われ、近衛兵達は部屋を後にして扉を閉める。ルシアには二人きりで話す重大な案件が思い浮かばなかった。
「ときにルシアちゃん……メイロンから聞いたんだけど」
二人きりになった途端これである。そしてこの言葉でルシアは用件を理解した。
「落ちた星の調査で面白い人物を拾ったって? でもちょっと信じられなくてねえ。ルシアちゃんは見たんだよね?」
「はい。私は彼と実際に手合わせをしました」
「ルシアちゃんが言うなら間違いないよねえ」
「私の剣と羽が、彼の体を通り抜けてゆくのをこの目で見ました。正直、今でも信じられないくらいです」
「実はその件と絡んで、メイロンにクヮコーム進攻を進言されたんじゃ。それに関して総隊長としての意見を聞きたいの」
王はルシアの口が開くのを、のんびりした様子で待つ。ルシアは考えた。言いたい事はたくさんあったが、その中から総隊長としての意見をつまみ出す。
「大反対です」
「ほっほ。これはまた」
国王は真っ白で豊かな髭をゆらして笑った。
「まずあの男、アスミ=シンカと名乗る人物の得体がしれません。敵か味方か……人間なのかすら怪しい。それに彼一人が戦列に加わったところで、どれほど戦局に好影響を及ぼすのか、計り兼ねます……もっと言えば懐疑的です。その上、参謀に足る人物が軍にいない現状で戦争をするのは無策で挑むに等しいかと」
ルシアだって真面目に隊長をしている時は、このくらい内容の詰まった会話をする事もある。
「うんうん。わしも似た様な事をメイロンに言ったんじゃ。メイロンの作戦としては、その男をクヮコームに潜伏させて、あの迷路みたいに入り組んだ城の造りを二月ほどかけて看破するそうじゃ。あの『千里眼』をかいくぐっての」
「なるほど。それで攻略できそうなら兵を出す……と」
「千里眼ことマトーヤの奪取、または殺害を先決とするそうじゃが。それならどうかの?」
『千里眼のマトーヤ』。この男のせいで、近年フィスカ側から攻め入る事が適わず、防戦と迎撃を繰り返す事を余儀なくされていた。マトーヤと言うのはフィスカ訛りであって、実際の発音はマトゥーヤーに近い。
考え込んで黙るルシアを見て、王がさらに付け加える。
「ルシアちゃん個人の意見でもいいよん?」
「そうですか。じゃあまずメイロンが軍に口出しする事に反感を覚えます」
臆面も無く言う彼女を見て、王様はまた声を出してカラカラ笑った。
「気持ちは分かるがの。あの男の頭が良いのも事実じゃ」
「どちらにせよわたしは反対です」
「なぜかの?」
「先ほども言いましたが、アスミ=シンカという人物の不確定要素が多すぎます」
「なるほどぉ。ではその男が信頼に足る人間かどうか、戦力たり得る人物かどうかを測る事が急務じゃのう」
「彼は……あまり自分の事を話そうとしません」
少女は寂しそうにそう言った。それは総隊長たるルシアではなかった。
王様はここで急ににっこりと微笑む。ルシアはなんとなく、嫌な予感がする。
「ルシアちゃん?」
「はい……なんでしょうか?」
「そのアスミ君とやらと仲良くしてあげなさい。王様からの命令です」
「分かりました。彼の真意や経歴についてなるべく聞きだしたいと思います」
「いや違うよぉ。ワシが言いたいのはそういう事じゃない。それにそんな下心があったら、きっと人間は心を開かない」
王様の真意はいつも読み切れないな……ルシアはそう思う。
「もし、アスミ君が自分の話をしないのであれば、それはたぶんルシアちゃんを信用していないからだ。仲良くするだけでいいんだよ。ルシアちゃんは人の心が分かる優しい子だから」
王様はゆったりとした口調で続ける。
「もしワシがアスミ君だったらとっても寂しい。この世界に一人ぼっちみたいでの。きっと誰かに相談したいのに我慢している」
(わたしだってシンカと仲良くなろうとした。それでも彼は口を開いてくれなかったんだ)
そんな悔しさを少女は噛み潰した。
(でも彼の孤独や疎外感までは考えていなかったかも)
口を噤むルシアを見つめながら、王様はさらに続ける。
「だからルシアちゃんは、アスミ君がひとりぼっちで寂しいかもしれないと言う事を、まずは分かってあげるんじゃ」
「……わかりました。尽力します」
それだけ言うと、ルシアは敬礼して謁見室を辞し、通路を引き返した。
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残念な事に、廊に戻ると奇麗なお姉さんは三十路過ぎのおじさんにすり替わっていた。ルシアは今度は駆け寄らず、かといって止まるでもなく、自然な歩幅でその男に近づく。嗅ぎ慣れたタバコの臭いがした。
「お久しぶりです、ダボネさん」
「おっ! ルシア! クヮコーム蹴散らしたって話聞いて下っ端が散々盛り上がってたぜ!」
「うん。そりゃあもうバッチリでしたよ」
「それにしちゃあ浮かねぇ顔と言い方だなぁ。また敵に余計な情けか?」
「その話はもういいですよ……」
「敵が減るのがそんなに嫌かねぇ。別に気にする程の事じゃあ無いと思うけど」
「もういいですって。ラーネにもおんなじ様な事言われたし……」
「おっ! そうだ! 聞いてくれよ、さっきラーネイザ見たんだよ! しかもこーんなちっちゃい赤ん坊連れてさぁ! いやー、なんかああいうの見るとさ、自分の人生について色々考えちゃうよな」
両手で赤子の小ささを再現しながら、煙草を吹かす、どことなく頼りないこの男はダボネオール。
短髪をオールバック、眼鏡に無精髭というその姿はフィスカでも非常に珍しい出で立ちだった。
「まさかその煙草、吸ったまま話してたんじゃないでしょうね?」
「いや、これは今火ぃ着けたんだよ! 俺だってそのくらいの気遣いはできるさ」
ルシアはじとっとした目線を相手に向けた。ルシアが何度も『似合わないから剃った方がいいですよ』、と勧めた無精髭を、男は自慢げに撫でている。
「わたしも見ましたよ。ついさっき会いましたから」
「お。そうなのか。やっぱり赤ちゃん、可愛いよなー。俺も手遅れになっちまう前に所帯持たないとなー」
「へー。意外だなぁ。ダボネさんにもそんな人並みな人生観があったんですねぇ?」
口をニヤニヤさせながら下から覗き込むルシア。ダボネオールを前にすると、ルシアはいつもこんな調子だった。
「お前だんだんメイロンに似てきたな、嫌なところが。いや、そりゃ俺だっていい人がいれば、いつだって結婚くらいしたいさ!」
「いい人見つけなよ。ダボネさん隊長なんだし、それなりにカッコいいんだから。『好きだ』って一言で、きっとどんな女の人でもイチコロですよ」
そう、この男もまた隊長だった。ラーネイザが頼れる姉なら、このダボネオールは頼りない兄と言えるかもしれない。
タバコを口から右手に移動させると、ダボネオールは急にルシアを真っ直ぐに見据える。ルシアはニヤニヤが止まらない。
「ルシア、好きだ。結婚してくれ」
「ありがとうございます。そう言ってくれるの、ちょっと期待してました。けどそういう言葉はホントに好きな人のためにとっておかなきゃダメですよ。軽くなっちゃいますよ」
ダボネオールは女性なら誰にでも愛を囁くような男だ……しかしルシアは知ってる。そんな言葉の軽快さで、重く分厚い心の芯を隠している事を。
「いや、俺は本気だよ! ルシアがその気なら、いつだって結婚を前提に付き合ってほしいと思ってるぜ!」
「ありがと。そんなこと言ってくれるのダボネさんだけですよ。でもやっぱりダメです。隊長同士なんて付き合ったら統率が乱れますから。それにわたし、タバコ吸わない人がいいので」
しょんぼりした顔で、ダボネオールはまた煙草を咥えた。心なしか、ビシッと決めた薄手のコートもよれて見える。
「ご立派ですコト。総隊長様の鏡……なんでぇ、イチコロって嘘じゃねぇか」
「それはそうと、ダボネさん。何の用事でここにいるんですか?」
「おうおう、そうだそうだ! 王様に報告に来たんだった」
「北方の?」
「そうだよ。いい報告さ。特に異常はありません、ってね」
ダボネオールは煙草の火を揉み消すと、隊長らしい顔をルシアに示した。
「でもなルシア、気をつけろよ。最強の大英雄、キヴのゴアが南下してこの街まで来てるんじゃないかって噂だ。狙われるとしたらまずお前だぜ」
「それメイロンにも言われたな。『手は打ってありますが、気をつけてください』って」
「おっ。メイロンがそう言うなら心強いわ。噂じゃ地上最強は伊達じゃない、化け物らしいぜ」
「って言われてもねぇ。気をつけるって何すればいいのか分かんないし」
「とりあえずそれらしい人物を見かけたら隠れたり、逃げたりしときゃいいんじゃないの。体のでかい……」
急に話を中断して俯くダボネオール。
「どうかしました?」
「いや俺さ……今日見たんだよ。あんまり見覚えのないでかい男を。しかも城内で。でもキヴっぽくなかったような……確か黒髪黒目で」
能天気なルシアでもシンカの事だとすぐに気がついた。
「さすがに見間違いじゃないですか? あっ! 国王様への報告いいんですか?」
「おぉ、そうだった! とりあえず急いで行ってくるわ。続きはパーティーでな!」
そういって今度はダボネオールが王の間へと歩いて行った。その猫背に、ルシアは大声で呼びかける。
「ダボネさーん! わたしほんとはダボネさんとラーネが結婚すると思ってたんだよー。統率乱れなくてよかったー」
遠くからしょんぼり小さな声で返す言葉は、ルシアには聴こえなかった。
「……俺もそう思ってたんだけどねぇ」
※落ちた星の調査……なぜ天空位であるルシアが単独で落ちた星の調査をしていたかと言えば、この国王に体よく使われた結果であった。
『最近忙しいみたいだから、連休を延ばしてあげよう。落ちた流れ星の調査がてら静養に行って来たらどうか?』
こんな誘い文句にまんまと乗ってしまった結果、ルシアはシンカに出会ったのである。