第13話 クヮコーム牽制戦③ 〜優しい天使〜
クヮコームを率いる老兵の撤退命令のすぐ後、ルシアは側近に指揮を任せて戦線からずいぶん外れた森の中に一軒の小屋を見い出していた。
木漏れ日に映えるその小屋は細い丸太を積み重ねただけの簡易なものだったが、壊されてさえいなければ閑静な森に相応しい、立派な立ち姿をしていたはずだ。
(まだ人がいるかもしれない……)
一縷の希望を胸に草を踏みしめて覗いた室内は案の定、一通り荒らされていた。台所にはまだ飲めそうなスープが鍋から溢れている。それを注いだであろう汚れた皿も流しの水を貯めたまま、いつか洗われる日を待っていた。
(……この食器の数、いくつかの椅子。何人か暮らしていたはず)
軍の最高幹部たるルシアにしてみれば、これだけでもクヮコームを攻めるに十分な理由だった。強い警戒心と怒りを抱き、奥のドアを開けて寝室を覗き込もうとした時、外で『カタッ』と小さな音がする。ルシアは急いで戸を開け、小屋の裏手に回り込んだ。
外に出ると、そこには藁も水も新しい厩があった。厩には屋根があって暗かったが、そこに彼女の『一番見たくないもの』がある事だけは分かった……赤黒い何かが飛び散っているのだ。
さらに暗い奥で蠢く生き物……藁を染め上げた染料が、それの奪われた左腕や、無数の傷口に由来しているのは明白だった。残った右手は手枷で柱に繋がれ、できたばかりの傷からは赤い肉が未だに血を吹いている。
そこには半死半生の男が朦朧とした意識でへたり込んでいた。ルシアはレイピアで手枷を切断し、男を抱き上げる。
「今助ける……誰かきて!」
『戦場では絶対に涙を見せない』。そう誓う白天使に雷を落とすかの様に、彼女を見上げた男の顔は左目も潰されていた。抑え様の無い怒りと涙が込み上げてくるのを、ルシアは無理矢理に抑え込んだ。
抱き上げた男のか細い手足が力なく垂れる。かろうじて息を吐き出す口が、何かを告げようとしている。
「ルシ……ァ……様に……」
「喋らないで! すぐ治療するから。それまで頑張って!」
声が震えているのがルシア自身にも分かる。側近の女の一人が後ろに降りてきた。
「これは……なんと惨い」
「この人をお願い。本陣まで……すぐ治療を!」
そう言ってゆっくりと男の体を側近の女に預けた。
「了解しました。ルシア様もお気をつけください。まだ伏兵や残党がいる可能性があります」
「ありがとう。気をつける」
そう言い残して二人から目線を切ると、ルシアはまた泣きたくなってしまった。でもまだ泣くわけには行かない……すぐ戻って指揮を取らなければいけない。
「……ルシアさま!」
突然、側近が叫んだ。
振り返ったルシアの視界には側近を押しのけ、殺意に満ちた表情で襲いかかる男の姿だけが映った。頭の中が真っ白になり、ルシアの顔と翼が真っ赤に染まった。
「惜しいなぁ……虚を突く……いぃ作戦だと思ったが。最初から顔さえ分かってれば……」
口を開いたその男の表情から狂気が次第に消えていく。ルシアはその言葉でようやく状況を理解し始めていた。なんと捨て身の作戦か。
奇襲はルシアの翼で間一髪防がれ、男は背中まで紅く染まった長い翼で貫かれていた。ただでさえ死にかけだった男は、自分の胸に刺さる翼を優しい目で撫でながら続ける。
「翼の出る瞬間が見えなかったぁ……神業だねぇ……」
襲いかかる寸前、ルシアが無意識で反射的に出していたものだ。男の顔はもう、穏やかそのものだった。半分血に染まった顔を後ろに向けて、少女は頭を整理しながら男の話を聞く。
「それにぃ噂通り……可愛くて優しい天使さんだぁ」
「私に背後から襲いかかるなんて自殺行為よ。でも褒めてくれてありがとう。いい作戦だったよ」
ルシアは必死に笑った。実際、顔が知られていれば死んでいたのは彼女だったかもしれない。男も朗らかに笑っているように見えた……血を吐きながら。
「次からぁ……気ぃ付けねぇとなぁ……」
(馬鹿な人だな。もう次なんて無いのに)
ルシアはゆっくりと羽を降ろして、名も知らぬ刺客を横たえる。羽を消すと染み込んだ男の血が真下に落ちた。
その直後、男のソウルが木々の枝葉を縫って空へと霧散する。フィスカの民は、ソウルが天に帰る事は幸福であると教育される。だがルシアにはそれが納得できなかった。
(魂が天に還ってゆく……これは幸せな事?)
そして次の瞬間、驚くべき事に男が繋がれていた小屋までもが森に消えていった。靴や食器、衣類や小物がその場に散らかる。
(あれだけ迫真の家を、傷だらけの体で具現していたなんて……顔が知れていたら、死んでいたのは確実にわたしだった)
側近が駆け寄って、天空位の顔の血を拭ってくれる。彼女の目に涙が見えた。
「ルシア様ご無事で! 申し訳ありません」
「何謝ってんの。むしろ敵と気付かずに助けた私の責任だ」
(女ってのはこうすぐ泣くから駄目なんだ。戦場での涙なんて貴重な水分の無駄遣いでしかない。敵を倒したんだから勝ち誇って、こんなふうに笑いなさい)
ルシアは側近の頭に手をやって満面の笑みを作ってみせた。側近もつられたのか、それとも気を使ったのか、涙ながらに笑顔を見せる。
しかしその笑顔も新たな敵の気配によってすぐに消される事になった。周りを囲まれている気配をルシアはいち早く察知する。
「囲まれてる……後ろお願い!」
「はい!」
しかしどこから攻撃が来るのか分からない。気配は八方から突き刺さる敵意を向けてくる。二人で背中をフォローしながら身構えていると、意外にも真正面から、三人の男が姿を現した。
「あなた達は?」
ルシアが思わず聞いてしまうのも無理は無い。三人ともなぜかフィスカの平服を着ていた。それでも隠す気の無い敵意と殺気が、味方では無いと主張している。小型の鞄を斜に掛けた中央の赤毛の男が答える。
「クヮコームの者だ。ヴィセッカ=ルシア、アンタの命を頂く」
それなら黙って襲えばいいだけの話だ。
「あらそう。でもあなた達じゃ私に傷一つ付けられないよ」
ルシアは努めて不敵に笑った。事実、彼らのソウルを見る限りそう感じていた。三人はそれぞれ顔を見合わせて、なぜか少し笑い合ってから左の太った男が口を開く。
「それが俺ら命令違反しちまってさ。帰るに帰れないのよ。大天使のルシア様なら知ってるでしょ? 俺らの国が厳しいの」
「私の首を取ればおつりがくるって訳か。最近はずいぶん民主的になったって聞いてるけど? 土下座して謝ればなんとかしてくれるんじゃない?」
飽くまでも挑発的な天使に、今度は右の背の高い男が、顎髭に指をかけて冷静に返す。
「それはできないな。今しがた、あなたがその謝るべきドットゥヤ隊長を殺してしまったからな」
「あっ……」
ルシアはそれしか言葉が出てこなかった。そして彼らの敵意と殺意の由来をやっと理解する。彼らが姿を見せた覚悟、フィスカの服を着ている理由。
(ドットゥヤという名前だったのか……隊長だったのか。出来れば手を引いて欲しい。これ以上は本当に無駄死にだ……)
そんなルシアの願いは、戦場ではねじ曲がってこんな捨て台詞になる。
「あの男が慕われるのも分かる気がするわ。部下に無駄死になんてさせない男に見えたけど……思い違いだったかしら?」
左の太った男がにこやかに答える。
「だから命令違反なのよ。生きて国に帰るよう、隊長に言われたんだから」
(そんな救いの無い話……聞きたく無い……)
悲痛な思いにルシアが言葉を詰まらせていると、赤毛、太った男、ノッポの順に笑った。
「それに別に慕ってもねぇよ。怒られた記憶しかねぇや」
「こき使われたりね」
「……生きてても土下座はしないかな」
首領らしき赤毛が続ける。
「別に俺らはアンタが隊長殺した事を恨んでる訳じゃねぇんだぜ。半分くらいは俺らがやったんだしね……だからアンタも気にしねえで……死んでくれや!」
この言葉と同時に男が手を上げると、全方位から一直線に矢が襲ってきた。ルシアは全身を翼でガードして、命令を下す。
「あなたはすぐ上に報告に行って!」
「はい!」
側近は脱兎の如くに飛び立った。ルシアは赤毛に問う。
「意外ね……追わなくていいの?」
「それまでにケリを着けるさ……森には森の戦い方がある」
「迷彩ね」
喋りながら三人とも森の中に溶けて消えてしまった。この森で戦い抜く事を、何年も追及したソウルの結晶だろう。おそらくは周りの気配も同じ体系のソウル……そう考えるや否や、木だと思っていたものが、岩に見えたそれが、動き出した。
ルシアはただ悲しくなる。
(無駄な事を……)
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戦いはごく短かった。男の言った通りフィスカの援軍が来る前に戦闘は決着した。最後の一人が木の陰から飛び出し、槍を投げようとした瞬間、飛来したレイピアが胸を貫く……それはあの赤毛の男だった。
「速ぇ、なんてもんじゃ……ねぇ」
「だから言ったのに。あなた達じゃ敵にならないって」
ルシアは悠然と歩み寄り、冷徹に言い放った。無感情を装わなければ、耐えられないだ。ルシアを見上げる赤毛の目からは涙が、口からは血が流れていた。
「優しい天使って聞いてたけど、なんか気ぃ……使わせちまったか?」
(やめてよ……そんな優しい言葉。敵から聞くのは呪いの言葉だけでいい)
凍り付かせた表情のまま、ルシアは口だけを震わせる。
「お互い様でしょ。わたしの事、ホントは恨んでるくせに」
「ハハ……隊長は、命の恩人だったから……」
それが最期の言葉だった。赤毛の男の目から、何か大切な力が抜けてゆく。
胸に刺さったレイピアのソウルを回収していると、赤毛の体にピッタリと巻き付いた鞄も溶けていった。大事なものを運ぶ際、このようにソウルで包んで持ち運ぶ事が多い。中身を確認しようとしたところで側近が戻って来た。
「ご無事ですか!?」
「ええ、敵は殲滅したわ」
側近の前で『傷一つ』、と豪語していた総隊長の脚と頬には、かすり傷が一つずつ刻まれていた。
部下に見せつけるように死体を足蹴に横にして、背中にあるはずの内容物を確認する、赤毛の死体の背中には細い左腕の肘から先が落ちていた。
「先に戻って、全隊に伝えて。しばらく陣で待機、休憩しているように」
「はっ!」
優しく、そして悲しげに命令する隊長の声には反論する隙がなかった。側近はその翼でまた戻っていく。
森を見渡すと、殺した数十人分のソウルが、まだ辺りに濃く立ち籠めている。そこら中に凄惨に飛び散った大量の血からも、ソウルが蒸気のように立ち昇っていた。
辺りを見渡してから、ルシアは返り血に染まった自分を見て思う。
(これ全部わたしがやったんだ。皆には、返り血で染まったわたしの顔が、どんなふうに映ったのかな? 早く戻って、みんなと勝利を祝えれば良いんだけどな……ちょっと無理かな)
……もう涙は頬を伝っていた。遠くの方で張り上げた号令が聞こえる。
「全隊! 本陣に帰投した後点呼! その後、指示があるまで待機とする!」
ルシアはドットゥヤという隊長が、あの三人や伏兵達と交わした最後の会話を想像してしまった。自分を殺すために腕を落とし、目を潰し、傷を負わせる光景が見えてしまったら、戻れなかった。
あの小屋はきっと、ドットゥヤの暮らした家を模したものだった……そんな妄想まで勝手に浮かんでくる。その隊長はあの三人の命の恩人だった。
彼らには彼らの人生が、物語があったんだ……
(クヮコームから見たわたしは、邪悪の中心で、死と悲しみを生み出す存在なんじゃないのかな……?)
そう思ったとたん、涙が止まらなくなった。
誰も追いつけないその翼で、ルシアは飛んだ。雲を突き抜けながら泣いた。大きな声で、たくさんの涙を雲海に落として、泣きじゃくった。
自分でもなんで泣いてるのか、よく分からなかった。誰と、何のために戦っていたのか、分からなくなってしまった。
「ノーアルム様、点呼終わりました……ルシア総隊長は見当たらないようですが?」
「放っておきなさい。よくある事だ」
石に腰掛けたノーアルムはその細い目で空を見上げながら部下にそう答えた。
※ルシアの単独行動……この少女は自分の実力を過信するせいか、総隊長としての自覚が薄いのか、しばしばこのような単独行動を取る。それが許されるのはひとえにその強さが信頼されているからだ。
※ドットゥヤの傷……通常、自分の目を潰し、腕を落とす事は狂気の沙汰としか思われない。これには様々な要因がある。
まずこの世界では痛みというものがあなたの想像よりもかなり少ない。ソウルである程度の治癒も可能なため致命傷にもならない。加えて腕などはソウルで創り代替する事が出来る。
しかし、それでもこの男の覚悟と決断は凄まじいものと言える。