第12話 クヮコーム牽制戦② 〜深い森のドットゥヤ〜
便宜上、クヮコームとフィスカの国境は南北に低く伸びる山脈の稜線上に引かれている。だが四百年間その界隈で小隊やら野党やら住民までもが入り乱れて争い、そんな線は無いに等しかった。現に今日は深夜、フィスカ側の麓にクヮコームの小隊が仮設テントを堂々と建てて作戦を練っていた。そこに息を切らした一人の兵士が駆け込む。
「失礼します。偵察の報告で天使の本隊がこちらに向かっているそうであります」
「……マジかよぉ。ついてねぇなぁ」
病的な細さと青白い顔の将校は、大きく見開いた目を宙に泳がせた。クヮコームに限らず、天使と言えば普通は大英雄にしてフィスカ最強の白天使、ルシアを指す。
「今頃はノーアルム隊に合流しているものと思われます」
「はぁ? ちょっと報告遅くねぇかぁ?」
「は! ご報告遅くなって申し訳ありませんでした」
『まぁいいや』、と聞き取れる最小の声でぼやくと、将校は直立した姿勢そのままに後ろに倒れ込んだ。それと同時に柔らかくて大きいクッションが突如背中に出現して、その細く長い手足を包み込む。
「ドットゥヤ様、我々はいかがいたしましょうか?」
「そうだねぇ……数は?」
「騎兵約二百、歩兵約四百との事です」
ドットゥヤと呼ばれた男は、仰向けでテントの梁をじっと見ている。羽虫が一匹、灯りをクルクルと回っていた。
「全員飛べんだろぅが……少ねぇな。取りあえず今のままでいいやぁ。後で考えるわ。奴らは夜は森に襲って来れねぇ……取りあえず哨戒を厳重にするように伝えとけ」
腕を上に伸ばすと、ドットゥヤはそのか細い指先から、透明なガラス状のソウルでもって羽虫を閉じ込めた。
柔らかいクッションと透明なガラス状のソウルを同時に生成するなんて、並大抵の事ではない。報告に来た兵士はついそれに見とれる。
「何をしてるぅ、早く行け!」
怒られて我に帰った兵は『失礼します!』と、慌てて出て行った。
細い指にガラスを乗せ、羽虫の羽の網目まで覗き込みながら、ドットゥヤは奥の方で瞑想している老兵に助言を仰いだ。
「だってさぁ。どうするぅ?」
「奴らの戦力をそぐ事も我々の大事な役目。森なら奴らとも善戦できるやもしれん」
ドットゥヤとは対象的に、背が低く肉付きのいい老将校はそう答える。最近はドットゥヤとこの老兵の指揮で前線を戦い抜いていた。
「平野じゃあ四百年間、負けっぱなしだからねぇ」
「可能であれば森の中まで誘い込む。ルシアの首を討つメリットは、この戦局に……いや、クヮコームにとってどれだけか、計り知れん」
「まぁ、簡単には入ってこないだろうねぇ」
「で、あれば戦線の維持に……無理ならば一時撤退も已む無しか」
クッションに座りなおすと、ドットゥヤはテントの入り口の隙間からソウルのガラス玉を外へと転がした。そして急に不気味な笑い声で肩を揺らす。小さい、しかし逞しい体つきの中年将校はそのヒゲを触りながら聞いた。
「何か策がおありか?」
「今考えているぅ。しかし……確かになぁ……」
「どうされた?」
「いやぁ、さっきの言葉。『ルシアを打つメリットは計り知れない』ってのがなぁ……その通りだと思ってよぉ。それが叶うなら犠牲はいくら出たって安ぃ」
ドットゥヤは顔に手をあてながら、ブツブツと独り言をもらす。
「優しい天使様かぁ……」
そんな事を言いながら口を引きつらせて、その顔を不気味に笑わせた。
「いい事を思いついたぁ。なぁ、明日うちの隊も指揮してくんねぇかぁ?」
「それは構わんが、どうされるおつもりか?」
「よくある原始的な奇襲よぉ。可哀想なフィスカの生け贄を使ってねぇ」
「軍属の拷問や略奪が『聖王』の意向で全面的に禁止されたのは、貴公も知るところだと思うが?」
「……大丈夫だ、何の問題もねぇ。ちょっと準備してくるぅ」
それだけ言い残してテントを出ると、ドットゥヤは真っ暗な森の中に呼びかけた。
「おーぃ……どこにいるぅ。山賊くずれのバカ野郎どもぉ!」
短い静寂のあと、辺りの草むらや木の上から、無数の物音が集まってきた。そのうち三つだけが顔を出す。
「なんの御用で? ドットゥヤ隊長」
中央の赤毛の男がそう聞いた。クヮコームにおける『隊長』は、フィスカのそれより指揮する規模が小さい。
「明日、天使を討つ。手伝ぇ」
それを聞いた三人は、それぞれに顔を見合わせて段々困った顔をし始める。
今度は左の太った男が答えた。
「あのさ、そりゃあ出来る限り手伝ってやりたいとは思うけどさ。天使ってフィスカの大英雄ルシアでしょ? いくらなんでもそりゃ無茶なんじゃ……」
「なんだぁ? 怖いのかぁ?」
右の背の高い男が答える。
「誰だって怖いでしょう……山賊くずれのバカ野郎どもが敵うとお考えで?」
「お前等ごときで倒せるとは俺も思ってねぇよ」
赤毛がわざと聴こえる声で『口の悪い……』とぼやいたのを無視して、ドットゥヤは続けた。
「安心しろぉ、策がある。お前等は山賊らしく、姑息で卑劣な仕事をやってくれさえすりゃあいいんだよぉ」
また三人は顔を見合わせてから、太った男、背の高い男、赤毛の順に答えた。
「もうちょっと優しい言い方って出来ないんでスかね?」
「騙し討ちか、奇襲か……いずれにせよ不安だな……」
「仕方ねぇな。一年前、アンタがいなけりゃノーアルムに殺られてた命だ。山賊で出来る仕事ならやってやるさ。ただし、正面衝突になるのだけはカンベンしてくださいよ」
それを聞くとドットゥヤは森の奥へと歩き出した。
「ちょっとこっち来ぃ」
その翌日、この日も翼兵には嬉しい晴れ空だった。
夜が明けると同時に、ノーアルムとその配下数人が、空から森に向かって宣戦布告を行う。
「この地を荒らすクヮコーム兵に告ぐ! 直ちに本土に引き返すか投降せよ! 日が高くなるまでにそれができぬ者は賊と見なし、そのソウルは天に還るものと思え! これは宣戦の布告である!」
これが終わると本隊のルシアに報告に来る。森から歩いても紅茶が冷めない程の距離だった。手を腰に当てたまま待つルシアの前に、ノーアルムがふわっと着地してその翼を納める。
「ちょっと格好つけ過ぎじゃない? 『そのソウルは天に還るものと思え!』 だって」
緊張しがちな戦場を和ませるため、ルシアは時々こんな冗談を言って笑った。
「えー、そんな事言わないでくださいよー。昨日一晩考えたんですから」
ノーアルムも笑うと、その細い目が髪の毛みたいに細く伸びた。
ノーアルムは銀鷲旗を冠する六翼の隊長の一人だ。もっとも、銀鷲旗なんて古めかしい言い方をする人間は今の時勢ほとんどいない。大抵はそのまま本人の名を呼ぶし、隊も『ノーアルム隊』のように、隊長名で呼ぶのが通例になっていた。
「え!? 一晩も考えたのっ?」
「いえ、冗談ですけどー」
口まで細く伸ばして笑う彼の、デフォルメされた絵を描くのは簡単だ。
金髪碧眼、女のような白い肌と、これまた女性的な、肘のあたりまで真っ直ぐ伸ばした髪の中に、細長い三本線で目と口を描けばいい。
ルシアの表現を借りれば、『何を考えているのかよく分からない優男』だそうだ。
森の中は静寂に包まれ、時間だけが過ぎていく。当然と言えば当然だ。投降したからといって命の保証があるか分からないし、音を立てれば急襲されるかもしれない。
「出てこないね」とルシア。
「そりゃそうでしょう」とノーアルム。
この日も太陽はいつも通りゆっくりと、しかしいつも通り高く昇った。
開戦の時だ。
ルシア本隊約七百。ノーアルム騎兵隊約千二百。敵の数不明。
頃合いを見て、ノーアルムとルシアが少し高い位置で眼を合わせる。フィスカの軍は、急な号令以外では声を発さない。隊長が大変見やすい位置……つまりは空にいる事が多いからだ。先頭に数人の信号役を配し、そのソウルの形や色で隊長の命令を伝える。
二列横隊の後列中央に浮かぶルシアが、右手のレイピアを横にしたまま天に掲げ、浮上を始めた。
ルシアに引っ張られる一枚の布のように、隊の後ろ半分がふわりと天に昇る。前陣を担うノーアルムは逆に鞍上へと降下した。この世界でも珍しい、天と地に列ぶ横隊の完成だ。
馬蹄も轟かない、歩兵の靴音もしない戦いの始まりは静かだった。ルシアが高く掲げた切っ先を正面に向ける、それが作戦開始の合図。
翼兵は一斉に武具を出し、山の麓の森へと押し寄せ、たちまち空一帯を占拠した。ノーアルムの騎兵隊は後ろに控えたまま動かない。森も依然として、木々の風にそよぐ音だけを奏でている。
仕掛けて来ないクヮコームを見て、ノーアルム隊が動いた。ノーアルムが手に持った長槍を森へと向け進軍の姿勢をとると、途端に馬蹄の地響きと砂煙が巻き起こった。
「翼兵に気を取られるな! 前方の騎兵隊だけに集中しろ!」
開戦の第一声は、クヮコームの老将校の指示だった。ノーアルム隊が怒涛のごとくに森へ飛び込むと、待ち構えていたクヮコーム兵の一斉砲火を受ける。
騎兵隊でも特に頑丈で、分厚く幅広いソウルを展開する兵がそれを防ぎながら、森の木々よりも長いソウルを地面に突き立てた。
空で待機するルシア隊からは、敵の編隊が露になる。
「相手は単純な横隊だ! 蹴散らせ! 私達も続くぞ!」
号令とともに、ルシアは突撃の合図を出す。
下の『いたぞ』とか『こっちだ』という声に反応してルシア隊は天空から森へと突っ込んだ。燕の如くに突っ込んでは、すぐに上空への回避を繰り返す。
しばらくすると、情勢はフィスカの軍に傾いた。元々の兵の質と練度がまるっきり違う。フィスカ側に言わせれば『勝って当然の勝負』だった。
「全隊撤退だ! 退けぇ!」
森のどこからか響き渡った老兵のこの怒号が、戦いの終わりを告げた。勢い、騎兵隊は追走をやめない。
「ここは瘴気の濃い森だ! 深追いはするな!」
ノーアルムのこの号令で、騎馬隊は足を緩め、森を出た。銀鷲旗隊長は隊を引きながら独り言を漏らす。
「戦略が単純過ぎる。辣腕のドットーヤにしては手応えが薄いな……」
自身の戦闘力こそ低いものの、常に狡猾な策略でノーアルムを煙に巻き続けたドットゥヤを遠回しに称賛して、ノーアルムはその場を引き返した。
※ドットゥヤの力……基本的に性質の大きく異なるモノを同時に創り出す事は難しい。その他、数を増やす、大きくする、小さく精密なモノを具現化する、体から離して使用する等は長い訓練と才能を要する。