第0話 旅立ち
船内のBGMは、空調の微かな寝息と、僅かな機械の音だけだった。
「地球は本当に青かったんだな」
たった一人の船員、アスミ=シンカは小さな円窓から自分の故郷を眺めた。
無限に続く暗闇の中、その星だけが蒼い輝きで満たされている。
一様に白っぽい船内に目線を戻すと、モニターの向こうで首に十字架を下げた男が微笑んでいる。デスクに頬杖をつきながら、眠気を誘うような声と瞳で男は語りかけた。
「なあ、シンカ? 君はこの先、どんな世界で、どんな人に出会い、どんな戦いをするのかな?」
「さあな……奇跡みたいな確率なんだろ? どうせ何にも出逢えやしないさ」
アスミ=シンカはぶっきらぼうにそう返し、液晶の前までふわりと移動した。相手の声も映像も少しづつ乱れ、時間差が大きくなってくる。
「きっと出会えるよ……君の望む、最強の敵に」
「めずらしいな博士。希望的観測か?」
博士と呼ばれた男は白衣なんか着ていない。デニムのジーンズにYシャツというカジュアルな格好。髪も短く、『博士』らしいポイントといえば、眼鏡くらいだ。
「なぜか分からないけど、ただなんとなく、そんな気がするんだ。もしかしたら君の言う『シショー』とやらにも会えるかもね」
博士はまた笑った。アスミ=シンカもうっすら微笑み、液晶の向こうに言葉を返す。
「もし師匠にまた会えるなら、俺は悠久の地獄でも超えてみせるさ」
「巡り逢えるといいね。君の望む新しい世界に」
「そんな世界……それこそ地獄だな」
こんな冗談で二人はしばらく笑いあった。
これが二人の……親子の最後の会話である事は、互いに承知している。
映像を襲う砂嵐が激しくなる。映像は捻れ、音声が歪む。
「さあ、そろそろ時間だ。素敵な夢を! アスミ=シンカ」
「ありがとう、博士。こんな我がままを聞いてもらって……親不孝者で済まなかったな」
「我が子の幸せは、親の幸せさ」
博士はすべてを許容し、肯定するように、ずっと優しい微笑みをシンカに向けていた。
それ以上話す事は出来なかった。通信はそこで途切れたからだ。
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もう後戻りは出来ない。
永い……永い旅の幕が開く……いや、開くかどうかも五分五分だ。
小さな機械のトラブル一つで辿り着けないかもしれない。
辿り着いた先にもう人類はいないかもかもしれない。
それでも、アスミ=シンカは地獄に垂れた、細く煌めく、今にもプツッと切れそうな蜘蛛の糸にしがみ付いた。
人として生きて……人として幸せに生きて、そして死ぬ。
そんな人生は、この男にとって『地獄』に他ならなかった。
「まあ……地獄でも、鬼か閻魔と戦えるだろ」
そんな悲しい自嘲を一人吐き捨て、アスミ=シンカはこれから自分が千年を眠るベッドのハッチを開いた。
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液晶の電源を切って、博士と呼ばれた物理生物学者は眼鏡を外し、一人デスクで懺悔していた。
「謝るのは僕の方だ、シンカ。僕は今でも恨んでいる……
君と戦える生物一つ、満足に作れなかった、自分と科学の限界を。
危険な旅路につく我が子を引き止めてあげられなかった事を」
両目を覆ったその左手の下を、雫が伝う……すすり泣いていた。
右手には十字架を握り締め、心の中で懺悔を続ける。
(そしてこれからも悔やみ続けるだろう。
でも許して欲しい。君が強すぎたんだ……言い訳じゃない。
現存する生命の設計思想、現代の科学技術のどれを以てしても、到底不可能な領域だった。
許してほしい……
ただ強い敵を望む、君の願いを叶える可能性は、現代にはこれしか無かった。
許してほしい……
自分の目的のために、我が子を捧げた業の深さを)
博士の流した涙が一粒、コーヒーカップに落ちた。コーヒーがこぼれて、一滴がデスクに散る。そのさらに横に小さな金具が一つ。
「……………………ぁ?」
その金具は今ここにあってはいけない、宇宙船のパーツだった。
「あれぇ!?」
各話後書きに備考を記載致しますが、読み飛ばして頂いても問題ありません。