指輪の記憶――最後の断片――
その日は日曜日で、龍太郎は朝から酒を飲み続けていた。
「あなたそんなに飲むと身体に毒ですよ」
見るに見かねた志穂がやんわりと窘めるが、
「大丈夫だよ、酔ってないから」
とそれに対して龍太郎は力なく笑ってまた、グラスを傾ける。
やはり、秀一郎が自分の実の子であることがそんなにショックだったのだろうか……そう考えた志穂は、本当はひどく酔っているのにそれを認識していない様子の夫を見ていられなくなり、龍太郎の側を離れた。
夜も更けた頃、龍太郎はすぐ近くで赤ん坊が泣いているのに気付いた。志穂の友人でも来ているのだろうか。それにしては、女たちの話声がきこえない。それに、あんなか細い切ない泣き方をしているのに、母親なら放っては置かないだろう。
そして、彼は声のする方に目をやって、ある一点を見つめて頷いた。そして、
「ああ、やっぱり。君は本当にいたんだね」
と言った。
その一点とは、彼の書斎のローボードの上に置かれた小さなフォトスタンドだった。龍太郎が高校の卒業記念として学校からもらったものだ。そこには彼の息子の秀一郎の、五歳の時のやんちゃな笑顔が納まっていた。
しかし、彼がいつも見ていたのはその表向きの笑顔ではなかった。
彼の見ていたのはその奥にあるもう一つの笑顔――高校時代の修学旅行で、彼自身が撮った夏海のそれ――だった。
彼はもう長いことそのフォトスタンドに目をやることはなかった。遅ればせながらでも秀一郎を自分の息子と受け入れた時から、彼はその背徳の象徴には目を向けることはなくなっていたのだ。その実、彼はその時から成長に応じて息子の写真を取り替えると言う事はなくなっていた。
「ずっとここで泣いていたんだね、君は。ゴメンね、今まで気づいてあげられなくて。そうか、君は女の子なんだね。おかあちゃまに似てる、かわいいよ」
龍太郎はそう言うと、大事そうにそのフォトスタンドを押し抱いた。
それから龍太郎は、自身の携帯を取り出すと、健史の番号を検索し、かけた。
「あ、僕。夜中にゴメンね」
「龍太郎か。本当にこんな夜中に珍しいな。いいよ、俺はどうせ一人だから。それより、秀一郎君の具合はどうなんだ?」
「発見が早くて、僕よりずっと症状は軽いし、今はあの頃と薬も違うみたいで、それほど時間はかからないみたいだよ」
健史は龍太郎の言葉にホッとしたが、ふとそれを説明する龍太郎の呂律が些か回っていないことに気付いた。
「それより、お前の方が大丈夫か? だいぶ酔っていないか?」
「ううん、僕は酔ってなんかいないよ」
本当に酔っぱらっている人間の方が、得てして酔っていることを認めないものだ。たぶん、龍太郎はかなり飲んでいるに違いない、健史はそう思った。
それに、受話器から流れ込んでくる寂しげな音楽も気になってしようがなかった。この曲、どこかで聞いたんだが……一体どこで? しかし、曲名が出てこない。
「で、こんな夜中に何の用だ」
「あのね、言いにくいんだけど、僕の代わりに志穂さんと秀一郎を頼むよ。言いたいのはそれだけ」
要件を聞いた健史に、龍太郎は唐突にそう言った。
「何だそれ? お前、やっぱり酔ってるだろ!」
「酔ってなんかいないよ、でも、僕は彼らとはもう、一緒にはいられないんだ。本当に悪いと思うけど、こんなこと君にしか頼めない。だからお願い。じゃぁ、頼んだからね、健史」
「龍、お前何を考え……」
プツッ、ツーツーツー……龍太郎は、それだけを言い終えると、一方的に通話を切った。健史の脳裏に二十年前の苦い記憶が甦った。
あいつはあの時にも俺に倉本を頼むと言った。でも、あの時俺にはそれがいくらあいつの頼みでも絶対に聞けなかった。そして、あいつと倉本は愛し合いながら別れた。
そうだ、二十年前と同じ……あの曲は、「アルビノーニのアダージョ」! あれはそう言えば、龍太郎と倉本とを結び付けたきっかけだと言う、あいつにとっては大切な想い出の曲。
「お前さ、もうちょっと明るい曲でくっつけよ」
仕事を始めた頃、車の中でしょっちゅうあいつがこの曲をかけているから、問い詰めたら照れながら白状して、俺はその時、そう言って茶化したんだ。
健史はよくない胸騒ぎが抑えきれなくなり、龍太郎の携帯に折り返し電話をかけたが、彼は何度鳴らそうが電話には出なかった。
それで、健史は彼の自宅の固定電話の方にかけた。七回のコールの後、志穂が出た。
「はい、結城でございます」
「し、志穂さん? 梁原です。龍太郎どうしてる」
「え、龍太郎さんですか? さっきから書斎で音楽を聞いてますが……何か」
「あいつを呼んでください、早く、早く!」
そんな健史の焦った様子を不思議に思いながら、志穂は書斎の扉を叩いて龍太郎を呼んだ。
「龍太郎さん、梁原さんからお電話です。お急ぎの様なんです。龍太郎さん? どうかされましたか? 龍太郎さん?」
志穂は何度も扉を叩いて龍太郎を呼んだが、中からの返事は全くなかった。
一方、一方的に電話を切った龍太郎は、押し抱いていたフォトスタンドの写真を再び眺めた。
「一人ぼっちにしててごめんね。でももう大丈夫だよ。これからはおとうちゃまが一緒だからね。ずっとずっと一緒にいてあげるよ。だから、もうそんなに泣かないで」
彼はまるで子供をあやす様にフォトスタンドを揺す振りながら、そう囁いた。彼の耳には先程からずっと赤ん坊の泣く声が聞こえ続けていたのだ。
それから彼はふらふらと立ちあがり、机の引き出しを開けると、奥底から小さな小箱を取り出した。そしてその箱を開けると、その中に入っていた指輪を取り出し、小指に填めた。しかし、指輪はあと少しのところで填まりきらなかった。
「ホントにおかあちゃまの指は細いね。良いや……手に持ってれば。さぁ、行こうか」
その時、書斎のドアを叩く音と志穂の彼を呼ぶ声が聞こえたが、彼はそれには応えず、そのまま写真を抱いて書斎の窓を開けてベランダに出た。
「安心して、おとうちゃまは君ともうずっと一緒だからね。さぁ、あの場所でおかあちゃまを待っていようね」
龍太郎は今一度写真を見つめてそう話しかけると、海といたあの頃に向かって飛んだのだった。
―海、僕は最初から君を、君だけを愛しているよ―
これはあの指輪が見せた、龍太郎の記憶の物語……