優しい手の主
膝を抱えてベッドに座り込んだ僕の首筋を優しく抱いた手の主、それは志穂だった。
かつての日、海が僕のマンションに泊まった時には、必ずそうして海は僕の首筋を背後から抱いて髪を撫でるのが、寝る前のお決まりごとのようになっていたから、僕は一瞬海がそこにいるのかと錯覚してしまった。それが志穂だと判ったとき、僕は何だかホッとしたようながっかりしたようなそんな複雑な気分になっていた。
「あ、ごめんなさい。龍太郎さんがなんだか寂しそうだったから」
僕が彼女を見上げると、彼女はそう言って僕から離れた。
「ありがとう、心配してくれて。僕ってそんな情けない顔していたんだ」
「あ、いえ……いいえ」
僕がそう言うと、志穂は慌てて言葉を濁した。相当情けない顔をしていたに違いない。
僕は初めてと言っていいくらいに、まじまじと戸籍上の自分の妻を見た。そうして見ると、志穂はどことなく海に似ていた。顔がとか言うのではなく、その空気が。胸がキュッと詰まった。
「ねぇ、僕もうフリ止めていいかな。。少しは夫婦らしいことしないと、一族に本当の事がばれてもいけないしね」
僕はそう言いながら立ちあがった。酔いのせいで覚束ない足元を慌てて志穂は支えてくれようとしたが、二人は敢え無くベッドに転がった。僕はそのまま彼女の耳元に口づけを落として抱きしめた。
「大丈夫だよ、僕と寝たってどうせできゃしないから彼にもばれない」
そう言うと、僕は志穂をその夜、自分の手に収めた。
翌朝、
僕は宿酔いと自己嫌悪とで最悪の気分で目覚めた。自ら申し出た事の禁を犯して彼女と交わったこともそうだが、その実、僕がそこに見ていたのは海の姿だったからだ。
「昨日はホントにゴメンね。僕、どうかしてたね」
僕は割れんばかりに痛む頭を押さえながら、志穂にそう謝った。
「謝らないでください、私たち一応夫婦ですから」
「それにしたって彼に悪いよ。いくら僕に子供が出来ないからって言ってもそんな問題じゃない」
そして、志穂の男に遠慮するフリをして、その場を切り抜けようとしている自分を疎ましく思った。でも、志穂は僕のその言葉を聞いてふしぎそうに首を傾げて、
「あの……そのことなんですけど……」
と、おずおずとそう聞いてきた。僕はそこで、彼女にまだ子供の事を話していなかったことに気付いた。
それで僕は、奇跡でも起きない限り普通にしてても子どもはできないのだと告げた。その時僕は、僕の子供でもない子供を跡取りとしてかわいがるであろうあの人やおばあ様の顔を見たくてこの結婚を決めたという、僕が偽装を持ちかけた本当の理由も彼女に告げた。すると志穂は、こんなことを言いだしたのだ。
「私は龍太郎さんがお嫌でなければ……その方が子供が出来た時も、自分の子供だと思えるんではないですか」
実際にはこの時、志穂は男と既に縁を切っていて、彼女は僕とごく普通の夫婦になろうとしていただけなのだが、僕はそのことに気づくはずもなく、
「そんな事をしてばれでもしたら、君が彼との板挟みに苦しむことになるんだよ」
「私は良いんです。その方がきっと良い親子になれます」
と、そこまで言い切った彼女の申し出を、当惑しながらも受け入れてしまった。
そして……僕は自身の妻を抱きながら、気持ちの中では海を抱くと言う背徳を続けた。
だが、あり得ないと思っていた奇跡は起こってしまった。